しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

第79回国民スポーツ大会冬季大会スケート競技会(晴れて輝け!おかやま国スポ)  岡山市北区岡南町・岡山国際スケートリンク

2025年01月31日 | 祭を見る

雪にはあんまり縁のない岡山県で、初めての国体(今は国スポ)の冬季大会が開催されている。(2025.1.26~2.5)
ただし単独開催でなく、

スキーは秋田県。
スピードスケートは群馬県伊香保。
フィギアとショートトラックが岡山県の倉敷市と岡山市。


フィギアと言えば今は引退したが、有名な高橋大輔選手(大ちゃん)が岡山県倉敷市連島の出身。
その連島でフィギアが開催される。
それを知って行く気になって調べると、無観客で開催とあった。


それでフィギアの応援見物は諦めて岡山市で開催のショートトラックを見にいくことにした。

 

 

会場のスケートリンク場に着くと、競技や大会のリーフレットとほっかいろをいただいた。
会場は、当然ながらひんやりして冷たかった。

 

500mの競技を行っていた。
スタートしてゴールまで、4回トラックを周回する。

ショートトラックを生で見るのは初めてだが、テレビで見るのと同じで、
カーブでは片手を付いて身体を斜めにして曲がる。
直線で身体を起こし、また曲げる。それを繰り返す。
とにかくスピードが速い。

 

 

選手のスピードが速すぎて、自分の目がおっつかない早さで競技は終わる。
まあ、そこがおもしろいんだけど。

おもしろいと言えば、
ショートトラックはリレー競技の方が更におもしろいらしい。

リレーは午後の競技だが、寒い日だったので競技よりも温泉に入るのを優先して、会場から去った。

 

 

行った日・2025年1月28日(火)

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矢掛町消防団出初式  (岡山県小田郡矢掛町矢掛)

2025年01月27日 | 祭を見る

矢掛消防団の出初式を見に行った。


矢掛文化センターで儀式の後、小田川の河川敷で放水した。

 

 

10年ほど前まで、流れ橋「観月橋」があった付近から、嵐山公園に向かって放水した。

今年はカラー放水はなかったけれど、
きれいなアーチ状の放水が何本も並んできれいだった。

 

 

 

 

消防団員への日頃の感謝を込めて、
もっと多くの町民に披露して良いと思うが見物する人は少なかった。

 

 

 

行った日・2025年1月26日

 

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かきマルシェ2025 (岡山県笠岡市カブト南町・道の駅笠岡ベイファーム)

2025年01月27日 | 祭を見る

天気がいいので、道の駅に行って
牡蠣を買おう。
菜の花もいくらか咲いているだろうから、花見物もしよう。

 

 

そう思って「道の駅かきマルシェ2025」に行くと、
菜の花はまだ開花の前。

かきマルシェには、
笠岡のような地方都市では滅多に見ることもない、長い列。
それを見て、
牡蠣を買うのは諦めた。


日本人は牡蠣が好きなんだな。
自分は嫌いではないが、食あたりが嫌なので、あんまし食べない。

 

・・・

道の駅のホームページによれば、

2025.1.26 Am9:00~なくなり次第終了
笠岡神島産殻付きか販売 2キロ 1.000円
寄島産殻付きかき販売 1キロ 1.000円~
その他
かきグルメ、みかん詰め放題、野菜市など


・・・


牡蠣を目的の人は始まる前(9:00)に来て並んでないと買えない、
寄島の牡蠣祭もそうだ。

盛況の様子の「かきマルシェ」だった。

 

 

行った日・2025年1月26日

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西村兵太郎

2025年01月27日 | 銅像の人

場所・愛媛県大洲市長浜町(長浜高校前)

 

西村兵太郎氏のことは全く知らなかった。

長浜町の文化や金融や漁業や県政・町政に尽力した大恩人のようだ。
氏が尽力した「長浜大橋」は今、国の重要文化財。
鉄道は「愛ある伊予灘線」として全国の鉄道ファンに親しまれている。

・・・・

愛媛県生涯学習センター  データベース『えひめの記憶』


西村兵太郎(1884〜1935)
 明治17年~昭和10年(1884~1935)長浜町長・県会議員・議長、民政党支部長。
明治17年3月30日、喜多郡長浜町で西村金太郎の長男に生まれた。
喜多郡共立学校(のち大洲中学校)を中途退学して35年町役場書記に就職した。
このころ笑波と号し38年俳誌「シブキ」を発行して新興俳句を詠み俳論を展開した。 
41年長浜町信用組合を設立して44年同組合長になり、同年町会議員になった。
大正3年4月長浜町長に選ばれ、昭和10年死去するまで5期21年在任した。
任期中、長浜大橋架橋を企画実現し、長浜港改修や国鉄誘致に奔走した。
大正8年9月県会議員になり昭和10年9月まで4期連続在職して、大正13年11月~昭和2年9月副議長、昭和6年10月~8年11月議長にそれぞれ選ばれた。
大正5年長浜漁業組合長、8年喜多郡漁業組合連合会長、昭和2年愛媛県水産会長、4年全国漁業組合中央会理事、6年帝国水産会代議員を歴任して、水産業発展に尽力した。
昭和5年民政党県支部幹事長、7年同支部長として県政界一方の中心人物であったが、昭和5年2月の第17回衆議院議員選挙で落選して以後国政選挙には立たなかった。
昭和10年9月13日、長浜大橋開通直後、国鉄下灘-大洲線開通直前に51歳で没した。
昭和13年4月、銅像が建立され、題字を伊沢多喜男、碑文を井上要が書いた。(『愛媛県史 人物』より)


・・・

(赤い橋が重文「長浜大橋」)

 

訪問日・2025年1月22日

 

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進駐軍が大津野飛行場にやってくる

2025年01月19日 | マッカーサーの日本

「アメリカ人は、ヒトでなく鬼畜である」を国民に言っていた手前、
為政者は、その”鬼畜”が”神州”に駐屯することに茫然し狼狽した。

 

為政者と一部の愛国者を除き、
アメリア人は人間であることを、元から国民の大半は理解してした。

 

 

・・・


「福山市史下」 福山市 昭和58年発行


進駐軍・住民の心得
占領政策の進展

昭和20年(1945) 8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着した。
この前後から国内各地への連合軍の進駐が始まったのである。 
広島県では9月中旬に、連合軍進駐対策本部が設置され、
連合軍の進駐にともなう宿舎・交通取締衛生施設・特殊慰安施設警備・労務供出・県民指導などの諸問題が協議された。
県警察部は「連合軍進駐地付近住民の心得」というビラ10万枚を配布し、民心の安定と事故防止に努めた。
同年10月6日、スナイダー海軍少将を長とする輸送船団約30隻が広港に入港して上陸を開始し、
呉地方8.000人、広地方8.000人、海田市地方約3.000人の進駐が終わった。


戦後の民主化
すでに8月8日の米軍の空襲により壊滅的被害を受けていた福山市には、
同年11月2日連合軍米第10軍41師162連隊の歩兵大隊ノートン大尉以下約1.000人が、大津野の旧海軍航空隊施設に平穏に進駐した。
福山市長三谷一二は同日付で市内各町内会長宛に
「連合軍将兵は11月4日より外出せらる予定に付、各市民は自粛の上紛議を生ぜざる様注意するは勿論、
各隣組等充分連絡の上、事故防止に努められ度」いと通達を出した。
また、松永警察署長は次のような心がまえを通達している。
1家屋を開放せず、夜間は戸締りをする、
2婦人は胸を現わさず素足を見せずモンペを着用する、
3外人に笑顔をみせたり、ハンカチを振ったりしない、
4たとえ拳銃を向けられても手を挙げたりせず、物品を持ち出すものには代金を請求する、
5女子の貞操に対する危険には生命を賭して抵抗する、などである。


連合軍兵士が、日本の婦女子に対し乱暴な行為に及ぶのではないかという心配は、一般市民の間に流言蜚言となって流れていた。
それに対する対策として、
9月20日に県下の関係業者を集めて広島県特殊慰安協会が設立され、連合軍進駐とともに
船越町・吉浦町・厳島町・広町など5ヶ所に連合軍相手の特殊慰安所が開業していた。


福山市でも進駐に備えて、突貫工事で慰安所を設置した。
この施設は、進駐してきた将兵には非常に好評だったといわれているが、
20年12月、連合軍当局より「特殊慰安所への連合国軍人の立入禁止」の命令が発せられ、
やがて人権尊重・民主化の一環として公娼制度の廃止が議論されるに及び慰安所も閉鎖された。

市当局は、駅前に連合軍向けの公設の土産品即売所を開設した。
これは連合軍将兵の一般市民に対する金銭物品の強要、売買交換などによる紛争を防止するため、
各家庭より出品された品物の販売斡旋を行なったものである。
バザーには羽織・帯・長襦袢・日本人形・煙草入れ・きせる・下駄・日傘・女櫛・かんざし・せんす・ぞうり・うちわ、
など日本情緒のあふれた品物がおかれた。
人形、せんすがよく売れた。

 

・・・

「昭和二万日の全記録 第七巻」 講談社  平成元年発行  


とびかう流言蜚語

敗戦は日本人全体にさまざまな感慨をもたらした。
敗北感、安堵感、これからの生活への不安、戦争が終わった喜び、これらの想いが、人々のあいだに複雑に交差していた。
そして、このような状態の日本人をさらに不安にさせたのは、占領軍が日本に進駐するというニュースであった。
何日か前まで「鬼畜米英」のスロ ーガンのもとに戦っていた「敵軍」が進駐するというのである。
さまざまな流言蜚語がとびかい、人々の不安に輪をかけた。
「控えよ婦女子の一人歩き、 ふしだらな服装は慎もう」。
これは内務省警保局が各地方長官あてにだした「進駐後の心得」の見出しである。

高見順は8月29日の日記のなかで次のように記している。
「舟橋聖一君に会った。彼の話では、彼の知人の娘がスカートをはいて外を歩いていて、憲兵か巡査につかまり、
2時間余り叱られたという。」

・・・

 

「深安教育五十年誌」  深安教師友の会  1999年発行

1945年(昭20) 11月、米軍歩兵大隊約1.000名が、大津野の旧海軍航空隊の兵舎に進駐した。
これにより深安郡の一部と福山市内の国民学校は、6日間の臨時休業となった。
翌1946年(昭21) 3月、米軍にかわってオーストラリア軍約400名が進駐した。
米軍及びオーストラリア軍の進駐により、近隣の各市町村長は国民学校長に対して
「進駐軍に呼び止められたら停止すること、逃げると射殺されることがあるかも知れない」と、
占領軍に対する児童・生徒の心得について通達した。

・・・

「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 昭和61年発行

進駐軍の便所

進駐軍を迎えて困ったのは便所であった。
兵舎・宿舎はもちろんであるが、市中においても同じであった。
そのため市は市内九か所に進駐軍専用便所を造ってこれに供した。
もちろん水洗であったから、戦災による水道管損傷の修復をそっちのけにして、占領軍占用の水道管を敷設したりした。


・・・

「マッカーサーの日本(上)」① 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行


田舎の道路

ある村を走っていた時のこと。
突然、道の真ん中に赤ん坊が寝かせられているのに気づいて、
「全エネルギーをかけて」 急ブレーキを踏んだ。
冷汗三斗、赤ん坊をひかないで済んだという安堵感よりも、
「なんだってこんなところに・・・・・・」
という怒りのほうがこみ上げて来た。

「母親が駆けて来て、赤ん坊を抱えると、すぐ家の中に逃げ込んで、あとには静寂だけが残った。
考えてみれば、この村道は、一年に一度ぐらいしか車が通ることはなかったのだろう。 
しかし私自身は、ショックで、その場にしばらく呆然としていた。
フト気がつくと、私のジ ーブは、農村の子供たちにすっかり取り囲まれていた。
その子供たちの顔には、都会の子供に見られない、純真なものがあった。
子供たちは、まるで他の惑星から来た生物を見るように、私とジープを熱心に見つめた。 
子供に何かサービスをしたいと思い、カメラを取り出して、シャシン"というと、
子供はサッと横一列に並んだ。
撮った写真をあとで見ると、右に男、左に女と、見事にわかれていた・・」

 

・・・


昭和20年当時、神内国民学校2年生だったIさんの話が忘れられない。
Iさんは国民学校2年生で初めて自動車を見たそうだ。
神島の磯を進駐軍のジープが神島見崎に現れたそうだ。
(陸に道なし、山に遍路道)


しかし、それに類することは管理人にも似たような記憶がある。
城見小学校の修学旅行で広島・岩国に行った。
岩国の基地内で、その時初めてアメリカ人を見た。
基地内に芝生の一戸建て住宅が並び、白人たちの家族が洗濯物を干していた。
(農村の農家の自分たちと比べ)別世界の人たちに見えた。

・・・

 

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疫病

2025年01月19日 | マッカーサーの日本

いつの時代も病気はこわいが、こわい病気も時代と共に変わってきた。
マッカーサーの時代は、
貧困のため栄養失調による基礎体力の不足。
衛生や栄養の概念が国民全体に乏しかった。
そのため、
戦前からの「結核」に加え、
戦後は「伝染病」が猛威をふるった。

 

・・・

「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行


疫病


飢餓対策の次は防疫。

いちばん恐れられていた天然痘については、ワクチンを大急ぎで製造して6千万人に接種したというから、日本人口のほとんどに処置を施したわけだ。
ところがその後も天然痘は消滅しない。
すでにワクチン注射を受けた人の間からも患者が出ている。 
不思議に思ってワクチンを再検査しても間違いはない。
そこでその注射の現場をよく観察すると、接種をする医者や役人が忙しいものだから、腕をアルコールで消毒してすぐにワクチンを植えつけてしまう。
これでは、アルコールがワクチンを殺してしまうわけで、だいぶムダが出たようであった。

21年の2月から、発疹チフスが流行した。
これは、戦時中、夕張炭鉱を中心に強制的に集められた朝鮮人労働者たちが、帰国のために東京、大阪、福岡などに大量移動した際、シラミをバラまいていったのが原因らしく、
シラミ駆除のために、サムス准将の部隊は、フィリピンで実験済みのDDTを大量に空中から散布した。
これは効果的だったし、飛行機が白い粉をまいていく姿は、米軍の〝科学力〟と〝物量"を改めて日本人に思い知らせる象徴的なショーの一つでもあった。
ただしこの〝DDT作戦"も、「池の鯉が死んだ」といった苦情が多く出て、サムス氏の悩みは尽きなかった。
飢餓、性病、疫病、それに医薬分業を巡っての武見太郎氏ら日本医師会との摩擦...。
その間にもうひとつ彼を悩ませたのは、共産主義者との争いだったという。 
日赤病院をはじめ、いくつかの大病院が、医師、看護婦、それに入院患者までが一体になって組合を作り、病院の人民管理"を要求したりした。
都の衛生局でも同様の問題が起った。
「日共とソ連代表部が提携して、反米キャンペーンをやり出す」経過を回想録は詳しく書いている。
「GHQの中の共産主義者」もそれに同調して問題はだんだんやっかいになっていく、と回想録は書く、
職務に忠実で常識人のサムス准将も、〝反共〟という点ではハッキリした態度をとっていたようだ。


・・・

 

「昭和二万日の全記録 第七巻」 講談社  平成元年発行  5575~5609

DDTの洗礼
公衆衛生思想と「DDT改革」

蔓延する伝染病

進駐して占領軍に最も屈辱を感じたこととしてDDTの強制散布をあげる人は少なくない。
駅、街頭、職場といたるところで頭から白い粉を浴びせられた苦い思いを、当時の国民は経験した。
このころの日本の衛生状態は極度に悪化しており、いつ伝染病が蔓延してもおかしくない状態にあった。
空襲で上下水道や廃物処理施設は損傷を受け、
人手不足もあって機能はマヒに等しく、
さらに医療設備や医薬品も底をついていた。
また国民の体力は長年の栄養失調状態著しく低下していた。
こうした抵抗力のなくなった状態のなかに、
海外からの病原菌の侵入、ネズミ、ノミ、 シラミなど伝染病媒体の繁殖などが加わって、
天然痘、発疹チフス、赤痢、ポリオ(流行性小児麻痺)などの伝染病がまたたくまに蔓延したのである。
なかでも発疹チフスは、衣服や髪に生息していたシラミが媒介し、昭和21年1月から7月にかけて33.500人にのぼる患者が発生した。
発疹チフスと並んで恐れられたのは天然痘であった。 
患者は終戦後一年間で、17.000人にのぼり、死者は21年6月で227人に達した。

GHQによるDDTの大量散布

こうした事態に最も恐れを抱いていたのは占領軍であった。
進駐すれば兵士とその家族に感染することは時間の問題である。
米軍は早くからその点を予測し、大規模衛生斑を編成したうえで進駐してきた。
GHQに置かれた公衆衛生福祉局は、21年3月7日にDDTの大量散布の計画を発表。
クロフォード・F・サムス局長の指揮のもと、シラミ、ノミ、蚊、ハエなどを駆除するために、
どぶ溝、便所、そして人体への大量のDDT散布を開始した。さらに発疹チフスや天然痘のワクチンを各自治体に提供、
都市部を皮切りに接種を実施し、あわせて性病の蔓延防止のために「狩り込み」や「オフ・リミット」も並行して行われた。
一方、これと前後して新聞では連日のように発疹チフスの恐怖が伝えられた。
「愛すべき大阪は今恐ろしい悪疫の猛威下にあります。
大阪、堺、布施の全住民は一人残らずマ司令部の特別指令によるDDTの散布を受けなければなりません。
もしこれを受けないならば、あなた方の生命維持も保障しがたいのです。 
人類の敵”発疹チフス"を撲滅しましょう 大阪府」(昭和21年2月16日)。

公衆衛生を飛躍させた「DDT改革」

後年有害物質として使用が禁止されるDDTを、マッ カーサー指令として容赦なく散布され屈辱感を味わったものの、
ワクチンの接種とあわせて効果はてきめんにあらわれ、
21年には東京だけで9864人いた発疹チフス患者が、22年には217人に激減した。
DDT散布に象徴される伝染病の防疫とあわせて、ペ ニシリンの普及は各種の感染症の特効薬として多くの生 命を救った。一時は需要が追いつかず、破格のヤミ値までついたが、GHQ指導のもとでつくられた日本製の品質の高さが認められ、次第に国内生産による量産化へと向かった。
肺炎や性病に効力を発揮し、戦後の輸出医薬品第一号の抗生物質となったのである。
このほか「DDT改革」と総称されるGHQ公衆衛生福祉局の政策は、
BCG接種の義務化、
人糞から化学肥料への切り換え、
保健所の設置、
近代的保険統計の導入、 
看護制度・病院管理・赤十字社の改革など多岐に及んだ。 
日本人の心理に敗戦の悲哀と屈辱感を残したものの、
日本の公衆衛生の飛躍的な発展に大きな役割をはたすことになった。

 

・・・

同級生の女子全員がオカッパ頭か、それに近かった。
城見小学校では女子生徒だけDDTを掛けられていた。
見ていて、少し気の毒だった。
だがそれも小学校の3年生の頃は、無くなっていたような気がする。

男子は坊主頭だったので虱はいなかったが、
ノミはいた。
自分の下着にいたノミを母は何匹も潰してくれていた。
さすがのDDTもノミには効き目がなかったのだろう。

 

・・・・

 

DDTは頭から腹まで

【姉の話】 2002.1.3

イヤダネェ!!!
運動場で。
一列に並んでね。

掻けてもらったんよ。気持ちわるぃ。

くしゃみは出るし。真っ白にはなるし。
粉をかけまくるんよ。
おじさんはどうしてこんな事を。と、憎らしゅうてね。

きゃーきゃー言いながら。

パタパタ粉を叩いて(服の粉を落としていた)


2002・1・3

・・・・

 

小学生ではないが、
大人も海外からの復員時に掛けられた。

【おば(父の妹)の話】 2002.4.30

 

博多港へ着いたがすぐには降ろしてもらえなんだ。


3日間船に泊まって・・・・
DDTを頭から掛けられ、大便の検査、尿の検査。船の中で、お医者さんが検査をして。
三日目にやっと船から下ろされた。
そしたら国防婦人会の人がおにぎりをみんなに一個づづくばった。
その時はじめて米のおにぎりを食べた。

 

・・・・

「戦争中の子どもたち」  (広島県福山市)引野学区まちづくり推進委員会 2015年発行


赤痢、焼け跡に猛威をふるう


引野では空襲による死者は幸いでなかったものの、
戦争直後、いくつかの地区で赤痢が猛威をふるい、そのため人命を失うことになった。
空襲の四・五日後から下痢を訴えるものが続出し、患者は谷地池上手にあった隔離病舎に収容された。
戦災をこうむった家庭からも患者が出、被災家族は二重の苦しみを受けることになった。
隔離病舎に収容された患者の看病は、ほとんど家族の者に任された。
十数名に一人ぐらいの割合しかいない看護人の数では皆に十分手が回らないのは仕方ないことだった。
家族の中の健康な者が隔離病舎に寝泊まりして、患者の食事から便の処理一切の世話にあたった。
当時は医薬品が極度に不足しており、たとえあったとしても高価であった。
それでも家族は医薬品を求めて八方に手を尽くした。 
ブドウ糖を三本手に入れるため、米二斗(三六リットル)と交換したという。
努力しても医薬品を手に入れられるのはごくまれで、患者には牛馬に飲ませる下剤(瀉利塩)すら投薬されるありさまであった。
牛さえ見るに堪えぬほど悶狂する代物である。
その下剤のため死人を増やしたとさえ言われている。
夏の暑さに加え、戦災による疲労、さらに食糧難のための栄養不足も多くの命が失われる要因になった。
体力がない子どもや老人は、発病後二・三日で息絶えた。
十数名の者が亡くなり、毎日のように 葬式が行われた。
当時でも赤痢に有効な薬はあった。
戦争という状況が、医療環境を悪くし、救える命を奪ったと言える。
これも戦災といえよう。


・・・

強力な合成殺虫剤DDTのブーム

「食糧と人類」 ルース・ドフリース  日本経済新聞社 2016年発行

オーストリアの大学生ツァイドラーは1874年にDDTという化学物質を合成したが、
20世紀後半、農業分野で大きな変化を引き起こすことになろうとは夢にも思っていなかった。

DDTはイエバエ、シラミ、コロラドハムシに対してすばらしい効果を発揮した。
1942年には商品化され、人類と病害虫との闘いに終わりを告げるという華々しい謳い文句とともに市販された。

DDTの威力が証明されたのは第二次大戦中のことだ。菊を原料とする除虫菊剤が使われていたが、それが品不足になるなか、
シラミを媒介する発疹チフス、蚊が媒介するマラリアから、DDTの白い粉を振りかけると、歴史上初めて発疹チフスの流行に歯止めがかかった。
マラリアの抑制にも効果を発揮した。

戦後、DDTは公衆衛生上のマラリア対策として導入された。
DDTは疾病対策に使われたあと、農業分野の市場に進出した。
人類を苦しめる病害虫を駆除できるという宣伝文句で、
家庭の庭の雑草から大草原地帯の牧場のハエまで守備範囲が広がった。
これが飛ぶように売れた。


人気の絶頂期は1960年代前半。
新しい害虫が出たり、副作用の被害が深刻化した。
蚊やハエを退治しようとDDTを噴射すれば、鳥や動物が巻き添えになった。
病害虫は進化し効果が薄れていった。
殺虫剤メーカーは絶えず新しい化合物をつくって耐性と闘わなくてはならない。

・・・

 

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隣町生まれの有名人

2025年01月15日 | 令和元年~

千葉県から古里の井原市に帰省中の従姉は、歌手・藤井風さんの大ファンだという。
それなら藤井風さんの縁の地を案内しましょうと岡山県浅口郡里庄町へドライブに行った。

 

 


管理人は藤井風さんのことは、ほとんど関心がないが、ここ2年間くらい
あきらかに風さんのファンと思える人たちを里庄町で何度か見てきた。
里庄町は原子力の仁科芳雄博士で町おこしをしてきたが、今は藤井風さんにシフトしているようにも感じる。


藤井風さんは昨年のNHK紅白歌合戦では、外国からライブ中継の特別扱いされるほどの大物歌手になった。

 

 

 


行った日・2025年1月10日
撮影場所・岡山県浅口郡里庄町里見「椿の丘運動公園」ちいせぇガーデン

 

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井原線感謝デー  (岡山県井原市・井原駅ほか)

2025年01月15日 | 祭を見る

恒例の「井原線ワンコインデー」。

500円で井原線を一日乗り放題。

 

井原駅前では郷土物産の市や食べ物。

各地からゆるキャラも来て記念撮影に応じている。

この「井原線感謝デー」は主要駅の真備駅・矢掛駅・神辺駅などでも開催されている。

 

 

 

この日は井原線の車内はぎゅーぎゅーになる。

ホームに立つことすら、不可能に近い人であふれる。

 

今年で開業26周年だそうだ。

 

 

 

行った日・2025年1月12日

 

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中世夢が原「とんど」 (岡山県井原市美星町)

2025年01月13日 | 祭を見る

中世のお城、「中世夢が原城」。

 

 

 

中世の三斎市。

 

 

今日は中世夢が原の「とんど」。

 

 

 

お餅を焼いて、そのあと。そのお餅を入れたぜんざいをいただきました。

 

大勢の子どもに囲まれていっしょに焼いた。

子どもの頃の素朴なというか、質素なとんどを思い出した。

 

茂平では、とんまの磯で焼いていた。その行事は(とんどに限らないが)大人はいない、子どもだけの行事だった。

 

 

この日(2025.1.12)は日本各地で「とんど」「出初式」「成人式」が、ほぼ重なる日。
井原市では、それに加え「井原線感謝デー」があった。

今は消滅した行事だが、昭和30年ごろまで、岡山県内では「鍬染め」という大きな行事があった。
各地で多少違うが、農家では庭に鍬をゴザに並べて、甘酒を呑む。
「やれぼー」とも呼ばれる。
正月が終わって農作業が始まる儀式だった。

 

 

行った日・2025年1月12日

 

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福山城の「とんど」 (広島県福山市丸之内)

2025年01月13日 | 祭を見る

福山城。

 

 

天守閣の前には、七つの「とんど」(左義長)が並んでいる。

 

 

 

伝統行事である福山の「とんど」は、今年は1月12日(日)に開催される。
イベントの出陣式は中央公園、
その後、商店街を練り歩き、
最期は、芦田川の河川敷で燃やされる。

 

 

 

 

 

「福山城天守閣」と「とんど」。

それを眺めに訪れる人は、ほとんどいなかった。

 

 

行った日・2025年1月11日(土) am11:30

 

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