いつの時代も病気はこわいが、こわい病気も時代と共に変わってきた。
マッカーサーの時代は、
貧困のため栄養失調による基礎体力の不足。
衛生や栄養の概念が国民全体に乏しかった。
そのため、
戦前からの「結核」に加え、
戦後は「伝染病」が猛威をふるった。
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「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫 昭和58年発行
疫病
飢餓対策の次は防疫。
いちばん恐れられていた天然痘については、ワクチンを大急ぎで製造して6千万人に接種したというから、日本人口のほとんどに処置を施したわけだ。
ところがその後も天然痘は消滅しない。
すでにワクチン注射を受けた人の間からも患者が出ている。
不思議に思ってワクチンを再検査しても間違いはない。
そこでその注射の現場をよく観察すると、接種をする医者や役人が忙しいものだから、腕をアルコールで消毒してすぐにワクチンを植えつけてしまう。
これでは、アルコールがワクチンを殺してしまうわけで、だいぶムダが出たようであった。
21年の2月から、発疹チフスが流行した。
これは、戦時中、夕張炭鉱を中心に強制的に集められた朝鮮人労働者たちが、帰国のために東京、大阪、福岡などに大量移動した際、シラミをバラまいていったのが原因らしく、
シラミ駆除のために、サムス准将の部隊は、フィリピンで実験済みのDDTを大量に空中から散布した。
これは効果的だったし、飛行機が白い粉をまいていく姿は、米軍の〝科学力〟と〝物量"を改めて日本人に思い知らせる象徴的なショーの一つでもあった。
ただしこの〝DDT作戦"も、「池の鯉が死んだ」といった苦情が多く出て、サムス氏の悩みは尽きなかった。
飢餓、性病、疫病、それに医薬分業を巡っての武見太郎氏ら日本医師会との摩擦...。
その間にもうひとつ彼を悩ませたのは、共産主義者との争いだったという。
日赤病院をはじめ、いくつかの大病院が、医師、看護婦、それに入院患者までが一体になって組合を作り、病院の人民管理"を要求したりした。
都の衛生局でも同様の問題が起った。
「日共とソ連代表部が提携して、反米キャンペーンをやり出す」経過を回想録は詳しく書いている。
「GHQの中の共産主義者」もそれに同調して問題はだんだんやっかいになっていく、と回想録は書く、
職務に忠実で常識人のサムス准将も、〝反共〟という点ではハッキリした態度をとっていたようだ。
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「昭和二万日の全記録 第七巻」 講談社 平成元年発行 5575~5609
DDTの洗礼
公衆衛生思想と「DDT改革」
蔓延する伝染病
進駐して占領軍に最も屈辱を感じたこととしてDDTの強制散布をあげる人は少なくない。
駅、街頭、職場といたるところで頭から白い粉を浴びせられた苦い思いを、当時の国民は経験した。
このころの日本の衛生状態は極度に悪化しており、いつ伝染病が蔓延してもおかしくない状態にあった。
空襲で上下水道や廃物処理施設は損傷を受け、
人手不足もあって機能はマヒに等しく、
さらに医療設備や医薬品も底をついていた。
また国民の体力は長年の栄養失調状態著しく低下していた。
こうした抵抗力のなくなった状態のなかに、
海外からの病原菌の侵入、ネズミ、ノミ、 シラミなど伝染病媒体の繁殖などが加わって、
天然痘、発疹チフス、赤痢、ポリオ(流行性小児麻痺)などの伝染病がまたたくまに蔓延したのである。
なかでも発疹チフスは、衣服や髪に生息していたシラミが媒介し、昭和21年1月から7月にかけて33.500人にのぼる患者が発生した。
発疹チフスと並んで恐れられたのは天然痘であった。
患者は終戦後一年間で、17.000人にのぼり、死者は21年6月で227人に達した。
GHQによるDDTの大量散布
こうした事態に最も恐れを抱いていたのは占領軍であった。
進駐すれば兵士とその家族に感染することは時間の問題である。
米軍は早くからその点を予測し、大規模衛生斑を編成したうえで進駐してきた。
GHQに置かれた公衆衛生福祉局は、21年3月7日にDDTの大量散布の計画を発表。
クロフォード・F・サムス局長の指揮のもと、シラミ、ノミ、蚊、ハエなどを駆除するために、
どぶ溝、便所、そして人体への大量のDDT散布を開始した。さらに発疹チフスや天然痘のワクチンを各自治体に提供、
都市部を皮切りに接種を実施し、あわせて性病の蔓延防止のために「狩り込み」や「オフ・リミット」も並行して行われた。
一方、これと前後して新聞では連日のように発疹チフスの恐怖が伝えられた。
「愛すべき大阪は今恐ろしい悪疫の猛威下にあります。
大阪、堺、布施の全住民は一人残らずマ司令部の特別指令によるDDTの散布を受けなければなりません。
もしこれを受けないならば、あなた方の生命維持も保障しがたいのです。
人類の敵”発疹チフス"を撲滅しましょう 大阪府」(昭和21年2月16日)。
公衆衛生を飛躍させた「DDT改革」
後年有害物質として使用が禁止されるDDTを、マッ カーサー指令として容赦なく散布され屈辱感を味わったものの、
ワクチンの接種とあわせて効果はてきめんにあらわれ、
21年には東京だけで9864人いた発疹チフス患者が、22年には217人に激減した。
DDT散布に象徴される伝染病の防疫とあわせて、ペ ニシリンの普及は各種の感染症の特効薬として多くの生 命を救った。一時は需要が追いつかず、破格のヤミ値までついたが、GHQ指導のもとでつくられた日本製の品質の高さが認められ、次第に国内生産による量産化へと向かった。
肺炎や性病に効力を発揮し、戦後の輸出医薬品第一号の抗生物質となったのである。
このほか「DDT改革」と総称されるGHQ公衆衛生福祉局の政策は、
BCG接種の義務化、
人糞から化学肥料への切り換え、
保健所の設置、
近代的保険統計の導入、
看護制度・病院管理・赤十字社の改革など多岐に及んだ。
日本人の心理に敗戦の悲哀と屈辱感を残したものの、
日本の公衆衛生の飛躍的な発展に大きな役割をはたすことになった。
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同級生の女子全員がオカッパ頭か、それに近かった。
城見小学校では女子生徒だけDDTを掛けられていた。
見ていて、少し気の毒だった。
だがそれも小学校の3年生の頃は、無くなっていたような気がする。
男子は坊主頭だったので虱はいなかったが、
ノミはいた。
自分の下着にいたノミを母は何匹も潰してくれていた。
さすがのDDTもノミには効き目がなかったのだろう。
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DDTは頭から腹まで
【姉の話】 2002.1.3
イヤダネェ!!!
運動場で。
一列に並んでね。
掻けてもらったんよ。気持ちわるぃ。
くしゃみは出るし。真っ白にはなるし。
粉をかけまくるんよ。
おじさんはどうしてこんな事を。と、憎らしゅうてね。
きゃーきゃー言いながら。
パタパタ粉を叩いて(服の粉を落としていた)
2002・1・3
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小学生ではないが、
大人も海外からの復員時に掛けられた。
【おば(父の妹)の話】 2002.4.30
博多港へ着いたがすぐには降ろしてもらえなんだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/e2/0d890d2dfa4c87e61b11fe6d7f3a4d43.jpg)
3日間船に泊まって・・・・
DDTを頭から掛けられ、大便の検査、尿の検査。船の中で、お医者さんが検査をして。
三日目にやっと船から下ろされた。
そしたら国防婦人会の人がおにぎりをみんなに一個づづくばった。
その時はじめて米のおにぎりを食べた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/c5/3a0789074ef79176b3b87b4274be3921.jpg)
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「戦争中の子どもたち」 (広島県福山市)引野学区まちづくり推進委員会 2015年発行
赤痢、焼け跡に猛威をふるう
引野では空襲による死者は幸いでなかったものの、
戦争直後、いくつかの地区で赤痢が猛威をふるい、そのため人命を失うことになった。
空襲の四・五日後から下痢を訴えるものが続出し、患者は谷地池上手にあった隔離病舎に収容された。
戦災をこうむった家庭からも患者が出、被災家族は二重の苦しみを受けることになった。
隔離病舎に収容された患者の看病は、ほとんど家族の者に任された。
十数名に一人ぐらいの割合しかいない看護人の数では皆に十分手が回らないのは仕方ないことだった。
家族の中の健康な者が隔離病舎に寝泊まりして、患者の食事から便の処理一切の世話にあたった。
当時は医薬品が極度に不足しており、たとえあったとしても高価であった。
それでも家族は医薬品を求めて八方に手を尽くした。
ブドウ糖を三本手に入れるため、米二斗(三六リットル)と交換したという。
努力しても医薬品を手に入れられるのはごくまれで、患者には牛馬に飲ませる下剤(瀉利塩)すら投薬されるありさまであった。
牛さえ見るに堪えぬほど悶狂する代物である。
その下剤のため死人を増やしたとさえ言われている。
夏の暑さに加え、戦災による疲労、さらに食糧難のための栄養不足も多くの命が失われる要因になった。
体力がない子どもや老人は、発病後二・三日で息絶えた。
十数名の者が亡くなり、毎日のように 葬式が行われた。
当時でも赤痢に有効な薬はあった。
戦争という状況が、医療環境を悪くし、救える命を奪ったと言える。
これも戦災といえよう。
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強力な合成殺虫剤DDTのブーム
「食糧と人類」 ルース・ドフリース 日本経済新聞社 2016年発行
オーストリアの大学生ツァイドラーは1874年にDDTという化学物質を合成したが、
20世紀後半、農業分野で大きな変化を引き起こすことになろうとは夢にも思っていなかった。
DDTはイエバエ、シラミ、コロラドハムシに対してすばらしい効果を発揮した。
1942年には商品化され、人類と病害虫との闘いに終わりを告げるという華々しい謳い文句とともに市販された。
DDTの威力が証明されたのは第二次大戦中のことだ。菊を原料とする除虫菊剤が使われていたが、それが品不足になるなか、
シラミを媒介する発疹チフス、蚊が媒介するマラリアから、DDTの白い粉を振りかけると、歴史上初めて発疹チフスの流行に歯止めがかかった。
マラリアの抑制にも効果を発揮した。
戦後、DDTは公衆衛生上のマラリア対策として導入された。
DDTは疾病対策に使われたあと、農業分野の市場に進出した。
人類を苦しめる病害虫を駆除できるという宣伝文句で、
家庭の庭の雑草から大草原地帯の牧場のハエまで守備範囲が広がった。
これが飛ぶように売れた。
人気の絶頂期は1960年代前半。
新しい害虫が出たり、副作用の被害が深刻化した。
蚊やハエを退治しようとDDTを噴射すれば、鳥や動物が巻き添えになった。
病害虫は進化し効果が薄れていった。
殺虫剤メーカーは絶えず新しい化合物をつくって耐性と闘わなくてはならない。
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