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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦後の混乱③満州からの引揚げー荷物一つ 命からがら

2021年08月16日 | 昭和21年~25年
荷物一つ 命からがら

「昭和時代」  著者・読売新聞  中央公論社  2015年発行


在留の日本人が最も多かったのは満州だった。
約155万人と見込まれた。

日本政府は1945年8月14日、
満州を始めとする在外機関に訓令を出し、
在留邦人は「出来る限り定着させる」との方針を示した。
ソ連軍の蛮行が続き、満州の危機的な状況が伝えられても、
「早期引き揚げ」へと方向転換できなかった。

満州を占領したソ連は、在満日本資産を持ち去るばかりで、邦人保護には一向に目を向けなかった。
関東軍も、満州国も、満鉄も、9月末までには消滅した。
関東軍の幕僚や満州国の首脳陣はシベリアへ連行された。

45年末から共産党軍が勢力を伸長させた。
46年3月、ソ連軍は撤退を開始。
その後に国民政府軍が現れた。

米国が国民政府に対して輸送用船舶を貸与するなど支援活動を行い、引き揚げが始まった。
邦人を乗せた第一陣の船が葫蘆島を出港したのは46年5月のことだった。



・・・・・・

満州で生まれた漫画家・赤塚不二夫の『これでいいのだ』によれば、
46年6月初め、奉天駅から無蓋貨車で葫蘆島に向かう。
奉天駅には、中国人が大勢集まっていて「その子供売れ!」
母は子に「しっかりつかまるんだよ。離しちゃダメだよ!」

満州の邦人は、46年中に約100万人が引揚を終えた。
約17万人が犠牲になったといわれている。

リュックサックやズタ袋一つに大事なものを収めて、命からがら本土にたどり着いた引揚者のなかには、帰国した後、
新たな苦労に直面した人も多かった。






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公職追放 「好ましからざる」21万人

2021年08月15日 | 昭和21年~25年
「昭和時代 敗戦・占領・独立」  読売新聞  中央公論社 2015年発行

公職追放 「好ましからざる」21万人

GHQによる公職追放は1945年10月、特高警察関係者ら6.000人の追放から始まった。
同年末には軍国教育を行った教員の追放も行った。
これらの追放処理はポツダム宣言第6項〈日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出の過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は、永久に除去せられざるべからず〉に基づいていた。
追放が本格化したのは46年1月4日、日本政府はGHQから「公職追放に関する覚書」を受け取り、驚愕する。
追放されると、その時の地位を追われるだけでなく、将来も「公職」に就けず、退職金や恩給、さまざまな手当ても受け取れなくなった。

GHQは「間接統治」方式を採用したため、公職追放でも、該当人物か否かをまず日本側に審査させ、これを了承するという形をとった。

・・・




交渉追放「奇々怪々」政治家パージ
鳩山一郎

戦後初の衆院選で第一党になった自由党の総裁、鳩山一郎は、首相就任を目の前に、
突然、公職追放された。
日本側の審査委員はシロと判定したが、衆院選前に打ち出した「反共スローガン」が左翼陣営を刺激した。当時朝日新聞編集局長だった細川隆元は自著で「でっちあげられたもの」と書いてある。
石橋湛山
東洋経済新報社の社長だった石橋湛山は第一次吉田茂内閣の蔵相に抜擢された。
日本側はシロだったが、民生局は強権発動した。
面政局は後年「戦前軍部を批判したリベラリストであるとは知らなかった」と証言したという。



作家たち
G項=その他の軍国主義者や超国家主義者は、
軍需関連産業の役員や、国粋主義を鼓舞した言論人などを追放するための強力な武器となった。

新聞・出版社から約1.000人が追放。
企業人では、
東急電鉄の五島慶太・・・東條内閣の運輸逓信大臣
阪急の小林一三・・・近衛内閣で商工相
西武鉄道の堤康次郎・・・衆院議員
朝日新聞の緒方竹虎
読売新聞の正力松太郎
ジャーナリスト・評論家
徳富蘇峰
山岡荘八
尾崎士郎
菊池寛


無名の人々
大政翼賛会の支部長に自動的に就任していた市町村長が、D項=大政翼賛会などの有力分子)を適用されて軒並み対象となった。
就職もままならず生活に窮した多くの人々とその家族にとって、公職追放はまさに「格子なき牢獄」だった。


公職追放を受けたのは約21万人で、うち16万7千人が陸海軍人、
これに対し、官僚は1.800人程度。
占領軍の間接統治要員として温存されたためで、
これが戦後の官僚主導政治の要因になる。

GHQは昭和23年5月パージ終了を宣言した。




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「公職追放」と「追放解除」 (岡山県)

2021年08月15日 | 昭和21年~25年
「岡山県史現代Ⅰ・公職追放と選挙」
公職追放

いわゆる公職追放は、非軍事化・民主化のための最も重要な占領政策の一つであった。

昭和20年10月4日に連合国総司令部は、治安維持法その他の自由抑圧法規の廃止、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、内務大臣をはじめとする特高警察官の罷免などを使命した。
岡山県では当時の県警部長、特高課長以下特高関係警察官69名が罷免された。

愛国的労働団体の役職員の労働界からの追放。大日本産業報国会、大日本労務報告会、日本海運報国団などの主要役職員が解任された。

第一次追放
ABCDEFG(前述)の一切の者を公職から罷免し、かつ官職に就かせないように命じた。
当時公職にあって、明らかに覚書に該当すると思われた者の多くは、自ら辞職した。
岡山県知事・安積徳也も、大政翼賛会県支部長の経歴があり、他の27人の府県知事らとともに1月25日辞職した。
公職適否審査委員会は、昭和22年1月4日までに3759人の審査を行い264人を該当者と判定した。
以上第一次公職追放の該当者1067人のうち807人が公職から罷免され、260人が政府機関への就職を禁止された。

第二次追放
総司令部は公職追放を地方と経済界まで拡張するよう命じた。
昭和21年10月30日の合同新聞は「公職追放範囲拡大の声におびえて岡山県下の町村長が続々辞表を提出、供米その他の地方自治の運営に支障を来しつつあり」と報じている。
昭和22年1月施行令が公布され、追放が実施されることとなった。
これによって県会議員は主要公職とされ、該当者は退職させらることがはっきりした。
33議員のうち24名が該当するとわかり、審査を待たずに辞職した。
中央公職適否審査委員会は昭和23年5月10日に廃止されるが、それまでに57.116人を審査し、3633人を該当者と決定した。
県選出の犬養健はG項該当者と判定され、立候補できなくなった。


地方公職適否審査委員会
地方には県と5万人以上の市に委員会が置かれた。
全国の審査総数は651.000人。該当者は4081人であった。

潜在的該当者の追求
公職に就いていないため、指定を免れている潜在的該当者にも指定が行われることになった。
193.000人のが指定を受けた。
岡山県地方課が、県内の潜在的該当者を取りまとめたのは、大政翼賛会支部長610人、大政翼賛壮年団長735人、在郷軍人分会長1508人、大政翼賛協力会議長353人、極右団体32人、昭和17年総選挙の翼賛会推薦議員11人、同推薦団体16人、計3265人。このうち死亡264人、既指定25人、未復員41人であった。




「岡山市百年史下巻」 岡山市 ぎょうせい 平成3年発行

明らかに覚書に該当すると思われた者の多くは、自ら辞職したが、
岡山県知事安積得也も大政翼賛会県支部長の経歴があり、昭和21年1月25日に辞職した。

昭和21年11月8日政府は「地方公職に対する追放覚書の適用に関する件」を発表した。
すでに地方政界には波紋が広がっていた。
合同新聞は、「公職追放範囲拡大の声に怯えて岡山県下の町村長が続々辞表を提出」(昭和21年10月31日)
「近く発令される公職追放令該当予想町村長は県下365町村のうち、
かつての翼賛会支部長225人、翼壮8人、計233人。61%の多数にのぼり、同日までの辞表提出者は124人で、許可済が72人、保留52人。
該当しない人は昨年8月15日敗戦後就任したものが大部分を占め、
4市も津山市長辞任、倉敷市長辞表、橋本岡山市長は22年2月22日一身上の都合で退職し、翌年公職追放になった。

22年1月4日、普通公職にあるものでも退職させられる、ということになった。
(※県内等の追放者数は記述されていない)





「金光町史」 金光町 平成15年発行

公職追放

内務相の解体、特高警察の廃止、
手始めは、戦争指導者の各界から除去するという公職追放である。
特高警察の追放が始まりとなった。
昭和20年10月30日、教職員の追放に関する覚書が発せられた。
12月14日には産業報国会、労務報告会などの主要役員が解任された。町内に結成されていた各種報告会も解散に向かった。
12月15日、国家神道に対する政府の保証・支援・監督等が廃止。
昭和21年1月、大政翼賛会の活動者が対象となり、岡山県知事をはじめ県内で該当者1.067人のうち807人が公職から罷免された。
11月8日、「地方公職に対する追放覚え書」で、翌22年初めまでに県内の町村長は122名が辞表提出した。
金光町では5期務めた町長が辞任した。




「倉敷の歴史 18号」 2008年発行

聞き書ぎ昭和史・私の歩んだ道

叔父も親父も神職でしたので東京の国学院大学に進学しました。
ルソン島のジャングルの中、食べるもの、薬もなく、みんなばたばた行き倒れになっていきました。
昭和20年9月に士官から「日本軍は負けた、戦闘任務を解除した」、で復員した。

復員してきて、とりあえず召集を受ける前に勤めていた学校に電話で挨拶したら、
君は追放がかかっているから、学校へは出てくるなと言われたんです。
公職追放も知らないし、理由も聞かされてないんです。
ただね、私は国学院を出ているでしょう。
そこが引っかかったのかもしれないですね。
それで野菜売りの商売をしました。

6年間追放を受けていてね、それから昭和26年に玉島高校に勤めました。
兵隊上がりで動くのは苦じゃなかったから、考古学の発掘調査をよくやりました。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追放解除

「岡山県政史」  岡山県 昭和44年発行

公職追放の解除

昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発し、国際情勢は急速にその様相を変えた。
とくにわが国には、その影響が大きく、GHQの占領政策は、日本政府の国連への協力決定および
講和条約の早期締結の対応する挙国体制の必要などから転換されることになり、公職追放者の大量解除方針が伝えられるにいたった。
かくして、昭和25年10月の解除発表(本県関係者191名)を初めとして、翌26年6月(本県関係者2.300名)、
同年7月と解除がつづき、昭和27年4月の平和条約発効直前までに、全国の被追放者21万余人のうち20万余人の解除が行われ、
平和条約発効とともに公職追放はすべて消滅した。






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真備町「岡田更生館事件」その3・・・「逃げるな、火を消せ!」から

2021年08月06日 | 昭和21年~25年
戦争で発生した最も悲惨な犠牲者である孤児は、
国家の責任で立派に育て上げる方針であったが、戦後は一転して浮浪者、国家の厄介者となった。
犯罪者扱いで、街角から一掃され劣悪な施設へ強制収容させられた。
 
下記の本は、岡田更生館に関する記述はないが、同時代にどこの町(主に県庁都市)にも存在したことを書いてある。
 
 
 
 
「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版  2016年発行

戦災孤児たち

殉国者の遺児
厚生省は昭和20年6月28日、空襲で親を失った子どもを「殉国者の遺児」と位置づけ、
遺児は国力として立派に育てる、という国策である。
戦後は、遺児を闘士に育てあげるという目標が消え去った。
養子縁組斡旋、集団保護施設の設置を盛り込んだが、戦後の混乱期ゆえ国家財政や施設整備には限界がある。
行くあてのない戦災者・戦災孤児が駅前広場や地下道に座り込む光景が広がった
戦災孤児たちは、生き抜くために靴磨きや吸い殻あつめ(モク拾い)をした。


「狩り込み」と鉄格子

厚生省が昭和21年4月15日に定めた通達、
「浮浪者その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」は、
警察官が巡回して浮浪者を発見し、児童保護施設に収容することとした。
これは「狩り込み」と呼ばれた。
居場所を失った戦災孤児は、徘徊する犯罪者と同じ扱いになった。

狩り込み後の収容先は劣悪だった。
静岡県浜松市の施設「葵寮」では、15人ごとに鉄格子の監禁室に閉じ込め、
2ヶ月後に軟禁室に移していた。
厚生省もこれを追認したという。
昭和21年2月1日現在の孤児は12万3.511人。
そのうち戦災孤児は28.274人、引揚孤児は11.351人、一般孤児8万余。
生き残った孤児は苦難の戦後をあゆんでいく。
 
・・・・
 
「新聞と昭和」 朝日新聞  朝日新聞出版  2010年発行

「始まっている『死の行進』餓死はすでに全国の街に」

戦後間もない昭和20年11月18日の朝日新聞の見出しだ。
東京の上野駅で「処理された浮浪者の餓死体は多い時で日に6人」、
大阪市内でも「8月 60名、9月 67名 10月69名」と「増加の一途を辿っている」。
国民が飢餓状態なら、当時の新聞は朝刊だけの1枚裏表2ページだった。
 
・・・・
 
子供を粗末にする国

昭和21.6.11  天声人語  朝日新聞

マ元帥の四月占領報告の中に、少年犯罪は上昇をつづけている、とある。
東京における犯罪の五割八分が少年によるものだと指摘している。
今の日本ほど子供を粗末にする国はあるまい。
子供たちは無視され粗略にされている。
国家として子供に、とりたてていうほどの保護を与えているか。
学校では腹がへれば休めという。
それが文部省の善政とされる。
戦災孤児がいつくような保護施設もない。
子供のことなどかまっておれぬというのが、今の状態であろう。
 
・・・・

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昭和南海地震(昭和21年)のこと

2021年03月18日 | 昭和21年~25年
3月11日、「東日本大震災」10年に関して


テレビや新聞で東日本震災が大きく報道された。


(2021.3.11 朝日新聞)


(2021.3.12 朝日新聞)




山陽新聞では、災害の記録記事も載った。↓


2021年3月12日 山陽新聞


昭和南海地震

Nさん(84)は9歳の時の災禍を今も鮮明に思い出す。
終戦直後の1946年12月、夜明け前に襲った昭和南海地震。
マグニチュード8.0の大地震は、干拓地の旧三蟠村(現岡山市中区)を容赦なく揺らした。
屋外に逃れたが、立っていられず畑の木にしがみついていると、100m先の民家がごう音とともに崩れた。
その場で泣き叫ぶ女性の姿が忘れられない。
徐々に明るくなると。村の家々は軒並み傾き、旭川の堤防には幅1mもの裂け目ができていた。



三蟠から笠岡まで直線距離で約45kmほどある。

ところが、この地震について茂平の村人から一度も地震についての話を聞いたことがない。
その頃(昭和21年12月)家には父・母・祖父・祖母が住んでいた。
災害や被災のことが(近所の人の話を含めて)出ることは何度もあったが、
昭和21年の地震については全くでなかった。

父は、大正時代の「関東大震災」で茂平が揺れ石碑が倒れた記憶が強かったようだ。
その時、笠岡ふきんは震度2程度の揺れだった。
昭和21年の震度は三蟠が震度8なら笠岡は震度5位揺れても不思議でない。


義母に聞くことにした。
義母は、当時16才。
義母は、岡山県井原市芳井町に住んでいた。

義母談・2021.3.14
「(地震や揺れは)まったく覚えていない
(近所も併せて家や田畑や山や川の被害はなかった)

とのことであった。予想通りだった。
岡山市が震度8で笠岡市や井原市が、ほとんど揺れた記憶や記録がないのも不思議な話だ。


もう少し調べてみよう。


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戦争調査会

2021年01月21日 | 昭和21年~25年



戦争調査会
「昭和時代」  著者・読売新聞  中央公論社  2015年発行


1945年10月30日、東久邇宮の後継首相になった幣原内閣は「敗戦の原因及実相調査の件」を閣議決定する。
ふたたび戦争の誤謬を犯さないように、敗戦の原因と実相を明らかにする政府機関として「戦争調査会」が設置されることとなった。

開戦原因の調査を重視すべきとの意見が強く、
「満州事変の戦闘経過」
「教育の軍国主義化」
「支那事変の直接原因と日本政府の対策」
など68の調査項目が決定された。
呼称は「大東亜戦争調査会」だったが、大東亜戦争の用語使用を禁じるGHQ指令により戦争調査会に変更された。

初総会は46年3月27日に開かれた。
ところが、ソ連やオーストラリアから「戦争原因の調査などは東京裁判に属するものだ」などの異論が相次ぎ、
マッカーサーの決定により、政府(吉田内閣)は9月末、調査会を廃止した。

調査会の廃止は、日本人自身による戦争責任の研明を断念するものでもあった。




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天皇③天皇の戦争責任

2021年01月19日 | 昭和21年~25年
天皇の戦争責任



(東京裁判)


「昭和時代」  著者・読売新聞  中央公論社  2015年発行


ポツダム宣言に戦犯追及は明記されていた。
日本側にも自主裁判を模索する動きはでたものの、「東京裁判」の場に委ねられた。

マッカーサーは1945年8月30日、ソープ准将に
「日本で最初の命令をする、東条将軍を逮捕しろ。
できるだけ早く同種のリストを作ってほしい」と指示した。

ソープ准将は、東条内閣の閣僚を中心に東郷外相、島田海相ら39人のリストを作った。
逮捕令が出た9月11日の夕、米軍の到着を確かめた東条は軍用ピストルで自らの左胸を撃った。
医師団の措置で未遂になった。

終戦とともに自決した軍人・軍属らは599人に及ぶ。
50.60代の幹部から20代の若者まで、大将から二等兵まで多岐にわたる。
戦争責任を取っての自決もあれば、戦犯として処断されるのを避けるものもあった。


「共同謀議罪」適用

英国は当初、裁判でなく即時処刑を主張した。
審議が長期化することを懸念した。
これに対しスティムソン米陸軍長官らは裁判方式を訴えた。
時間がかかる問題点は「共同謀議罪」を提案する。
二人以上の者が違法な行為をなそうと合意したことを以って犯罪とする。
米政府は、米国主導とするため権限を連合国最高司令長官に集中させることにした。

昭和20年12月2日、59人の逮捕令が出た。
衝撃的だったのは、梨本宮の名が含まれていた。
「皇族も例外扱いされない」という悲観的な見方が広がった。

12月6日、元首相近衛文麿に逮捕令が下る。
近衛自身は自らが追訴されるとは予想しておらず、
10月4日のマッカーサーとの会談でも「軍閥と極端な国家主義者が今日の破局に陥れた」と述べ、
すべての責任を軍閥などにかぶせる発言をしていた。
12月16日、近衛は邸宅で服毒自殺した。

拘禁した100人超の容疑者の中から誰を起訴するかの検討に入った。
この詰めの作業に天皇側近の内大臣だった木戸幸一が尋問に積極的に応じた。
対米強硬派だった佐藤賢了や武藤章を挙げ、さらに、いわゆる「木戸日記」を提出した。
もう一人、陸軍省局長の田中隆一も尋問に協力した。
田中は張作霖爆破の河本大作、満州事変の板垣征四郎、石原莞爾の名を挙げるなどした。



天皇の処遇問題

1945年8月29日、昭和天皇は内大臣木戸幸一に戦争責任者を連合国に渡すのは忍び難く、
「自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」と述べた。
木戸は、皇室廃止に結びつく可能性があると反対した。

9月から、米国務省、陸軍省、海軍省の三者調整委員会で昭和天皇の処遇をめぐる議論が始まった。
そこでは、
昭和天皇を退位させ、戦犯として追訴すべきだという意見と、
それでは混乱が生じるとの意見が拮抗していた。

10月2日、マッカーサーは腹心のフェラーズ准将から天皇制に関する覚書を受けたとった。
「もし、天皇が戦争犯罪に問われれば、政府の機構は崩壊し、大規模な暴動が避けられない。
占領期間は長引き、我々は日本人の信頼を失う」と記されていた。

1946年1月25日、マッカーサーは米陸軍参謀総長のアイゼンハワーに返信した内容は、フェラーズの覚書にほぼ沿っていた。
天皇が政治上の諸決定に関与したことを示す明白な証拠は発見されていないこと、
天皇を告発すれば大騒乱が起き、これを抑えるには100万の軍隊が必要なことも併せて伝えた。
これにより、マッカーサーが昭和天皇を裁判にかけないという方針は明確になる。
一方でオーストラリアは1月9日、昭和天皇が含まれた戦犯リストを出した。

天皇はなぜ開戦を阻止できなかったか
その説明が求められていた。
昭和21年3月18日~4月8日まで、計4日間天皇からの聞き取りが行われた。
(昭和天皇独白録)
「開戦の閣議決定を私が拒否していたなら、国内は必ず大内乱となり、日本は亡びる事になったであろうと思う。
終戦の際は、首相が裁断を求めたので事を裁いた」

オーストラリアの天皇追訴の主張は米国が抑え込む形となり、
極東委員会は46年4月3日、昭和天皇不起訴を決定した。


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食べるものがない③食糧危機

2021年01月14日 | 昭和21年~25年
進駐軍からチューイングガムやチョコレートをもらう子供たち


(「戦後50年」山陽新聞社)



・・・・・・・・・・・・・・・・

「岩波講座・日本歴史22」  岩波書店 1977年発行



食糧危機


敗戦後の生活窮乏化をもっとも端的に、しかもするどくあらわしているのは、食糧危機であった。

戦時経済の下で農業生産は、農機具・肥料などの素材不足と労働力不足のために押しなべて減少傾向にあったが、
特に敗戦の1945年度の主要作物は、米が天候不順と収穫期の風水害がたたって、平年作を3割も下回る減収となった。
小麦・大麦・野菜・果物いずれも大幅な減少であった。

辛うじて甘藷と馬鈴薯が増収だった。

日本人にとって重要な蛋白資源である水産物も、船舶・燃料・労働力不足、
米軍攻撃の危険のため遠洋は1939年の1/10、沿岸も1/3以下に減少した。

朝鮮からの米移入も当然なくなった。


石炭不足と占領軍の輸送で鉄道輸送の大混乱が重なり、食糧・物資の供給不足を一層ひどくした。
もともと乏しい食糧の配給そのものを続けることがむつかしくなり、遅配がひろがっていった。


東京・横浜などで最もひどかった1946年4月~5月の食糧不足がそのまま続いたならば、大量の餓死者か広範な疾病者が生ずるのは、
ほとんど時間の問題だとされた。
成人男子は標準1日2400カロリー摂る必要があるが、
東京都民の摂取量は都庁調査で、1.064カロリー。(配給723カロリー、ヤミ341カロリー)
まさしく餓死線上にあった。



「米よこせ」住民運動

民衆は生き抜くために必死の思いで食糧の確保にあらゆる努力をはらい、
農村に買い出しに出かけ、
狭い土地でも菜園に利用した。

しだいに隣組や町内会と連帯し「米よこせ」運動が組織的にのりだした。
不正な配給を許さず、
隠匿物資を摘発し、
自主的に公平に分配するなどの戦いが住民主体に行われた。

軍需物資の放出・隠匿は、敗戦直前の鈴木内閣時代から、すでにはじめられていた。
繊維・鉄鋼・木材・油脂・原油・石炭などを企業に交付しはじめられていた。
8月14日、軍と政府は軍需資材の放出と隠匿を秘密裏に指令した。
膨大な物資が企業やヤミ物資として放出された。
軍用米だけでも30万石と推定された。


5月12日世田谷で行われた「米よこせ」大会は宮城デモにまで発展した。
「朕はたらふく食っているぞ、ナンジ臣民飢えて死ね」のプラカード「不敬事件」までおこし、
天皇批判が大衆運動の中で強くなる傾向をもたらせた。
天皇は二度目のマッカーサー元帥訪問を行った。


マッカーサーは「多数の暴民によるデモと騒乱に対し警告を発する」と声明を発表し、
占領軍は輸入食糧緊急放出を行った。




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食べるものがない②戦後(終戦~昭和25年)

2021年01月14日 | 昭和21年~25年
戦争中は、なんとか調達できていたものが、終戦後は衣・食・住、そのすべてが不足した。

農村に住む人は
着るものがない。
食べるものはある。
住むところが不足した。←復員や焼失のため引揚で一家が大家族


生活する苦労は、町の人も田舎の人も、戦中よりも戦後の方が苦しかった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「昭和・平成家庭史年表」 河出書房新社 1997年発行



昭和20年


9.- ヤミ市氾濫。
-.- メチルアルコールの使用による死者が続出。
-.- ”タケノコ生活者”
-.- 米の収穫量が587万トン(前年比68.8%)。昭和最大の凶作。




昭和21年


1.22 食糧難のため人口10万以上の都市への転入が禁止される。
1.- 文部省、学校農園による給食の普及を奨励
2.- 食糧の遅配が始まる。
春- 食糧難で京浜地方の餓死者1.300人。
5.- 食品に水溶性サッカリンの使用許可。人工甘味料ズルチンの製造販売許可。
6.6 農林省、1ケ月に10日間の食糧休暇を決定。
6.- 宝くじの賞品にサッカリンがつく。
8.- 露店の飲食店などでメチルアルコールが飲用に販売され、各地で中毒による死者・失明者が続出。
9.- GHQ放出のメリケン粉によるコッペパンが全国の児童に配給される。
9.- 東京都、都民一世帯当たりにズルチン5gを配給(15円)。
12.12 ガリオア資金による小学校給食が開始される。
12.- 大蔵省、国民の生活費を発表。生計費の70%が飲食費。




昭和22年

1.28 小学校でララ物資による給食が再開(副食のみ)。
8.12 皇居前広場で食糧確保国民大会が開かれる。
9.- 米・甘藷の供出割り当てが難航し、GHQは供出量確保に強行指示。
10.- 食糧難のため、東京中央郵便局などで大量の欠勤。
10.- 少量難のため、登校時を狙って児童から弁当を奪う少年が激増。




昭和23年

4.- メチルアルコールを多量に含むヤミ・ウイスキーが横行。
10.- 砂糖の輸入が激増、菓子業界も活況を呈す。
10.- カボチャの人気が急降下。
11.2 主食の米が配給で1人当たり2合7尺に増配された。
-.- みそ、配給切符制になる。一世帯1日当たり22.5g。




昭和24年

1.- ヤミ米防止のため、米を以って旅行する場合は食糧事務所長の証明が必要になる。
2.9 尼崎市で武装警官1.200人を動員して密造酒を急襲、130人を逮捕。この頃、カストリやドブロクなどの密造酒が激増。
2.15 第1回栄養士試験。
5.7 全国の料理・飲食店が再開、屋台も出現。
9.- ユニセフから児童に、脱脂粉乳や原綿の贈り物が届く。
11.3 第1回全国栄養週間が始まる。




昭和25年

3.1 池田勇人蔵相「所得の多い人は米を、少ない人は麦を食べるように」と発言。
4.- 寿屋、「トリスウィスキー」を発売。(昭和26年にはトリスバーができる)
4.- お茶の水大学に栄養学・食品学・調理学の3つの講座ができる。以前は調理割烹のみ。
7.- みそ・醤油が自由販売になる。
9.1 大都市の小学校で完全給食開始。
-.- 米や食料品が値下がり。
-.- 食用ガエルの輸出が674屯で、最高を記録。朝鮮戦争の米軍用。


・・・・・・

昭和24年 紙芝居

(「日本の歴史を見る・10」 世界文化社  2006年発行)





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男女共学・・・金光学園の場合

2020年12月02日 | 昭和21年~25年
男女共学

戦前までは「男女7才にして席を同じゅうせず」で、小学校の場合
笠岡でいえば
大きな笠岡は、男子校と女子校に分れ
中位の金浦は、男子クラスと女子クラスに分れ、
小位の城見は、一クラスを男女に二分の塊にした。

戦後の男女共学はクラスごと男女半々、席も男女男女で左右・前後に並んでいたと思っていたが・・・
金光学園では、そうではなかったようだ。


・・・・・


「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行




創立以来、男子校であった学園も、戦後の新しい学校制度のもとに、女子生徒の受け入れに踏み切った。
学園に初めての女子生徒が入学したのは、中学校では昭和23年4月に中学1年生200人のうち、約50名。
昭和26年、高校1年生の生徒250名のうち、女子生徒80名の入学があった。


スタート時は男女別クラス。
昭和29年ごろは共学の研究期間であり、たえず検討を続けた。
「どこまでも男は男らしく、女は女らしく成長せしめ、自覚せしめることが大切である」
その観点から数年を費やし、その結果
昭和36年から中学校から完全共学、高等学校では昭和39年入学の1年生からであった。


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