しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天長節

2022年02月25日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
明治維新後5人の天皇がいる。
明治天皇、
大正天皇、
昭和天皇、
平成天皇、
令和天皇。
5人の天皇誕生日のうち、
明治天皇と昭和天皇は、日本の四季のなかで、いちばんいい季節に生まれたから、
今も祝日として残っている。←これは個人見解。

特に平成天皇の祝日には少し困った。
12月23日はXマス、月末、年末、年度末で忙しかった。はっきり言って業務に支障・負担があった。
大正天皇のように、祝日を移動してほしい気持ちがあった。

なお、次期の天皇誕生日は5月1日、
その次の天皇誕生日は9月6日。
そのまた次の天皇誕生日は現時点では空白。(男性や、男系とか言っていると)永遠に埋まらないかもしれない。



(アラカン)

・・・・・



「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。


天長節

小学校に入学して初めての式は、4月29日の天長節であった。
この日、校門には、大きな日の丸国旗が交叉して立てられた。
その下をくぐる時、幼い私はいつもと違って晴れがましい気分になった。
友達の顔も、いつもと違って見えた。


「天長節」

今日のよき日は 大君の
うまれたまひし よき日なり



式の当日、校庭の一角に建てられた奉安殿の扉がひらかれる。
奉安殿というのは、天皇、皇后両陛下の写真と教育勅語がしまってある小さな蔵で、
建物自体、神社のつくりになっている。
その周囲は柵で囲み、玉砂利を敷き詰め、神聖な区域とされていた。
私が通学していた小学校の場合、奉安殿の位置が校門からかなり離れたところにあったので、登校下校時に最敬礼をするには無理があって、
普通は省略されていた。

その奉安殿から式場まで、勅語を運んでくるのは、教頭先生の役目だった。
教頭先生は、紫のふくさに覆われた教育勅語の箱を黒い漆塗りの盆にのせ、それを頭上高くかかげながら、
しずしずと運動場を横切って講堂まで歩いてくる。
やがて「最敬礼!」
号令がかかって、私たちは頭を深く下げる。
静かに「直れ」の号令がかかり、やっと頭をあげる。

フロックコートの礼装で絹の白手袋をはめた校長先生は、おもむろに紫のふくさをひろげ、
箱から教育勅語をとりだすと、巻物の紐をといてひろげ、押しいただく。
この時、私たちはまた、頭を下げる。
勅語を読み終わるまで、そのままの姿勢でいなくてはならない。
やがて、
「朕惟フニ、・・・・」
と、重々しい奉読の声が聞こえてくる。--というよりは、頭の上におりてくる。
何しろ、神主が祝詞をあげるときのような荘重な節回しで読まれるので、
子どもにとっては、耐え難く長い時間に思われた。
やっと終わって、元の姿勢に戻る時、あちこちから鼻水をすすりあげる音がおこる。
まわりはほっとした空気につつまれる。

新校長は、緊張のあまり手がふるえ、声がうわずる。
明治天皇のお言葉を代読することになるわけで、緊張するのも無理はなかった。

やがて、意味はわからぬまま、部分部分を暗記するようになった。


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「愛ちゃんはお嫁に」

2022年01月19日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
城見小学校の校長先生や教頭先生が、「子供は流行歌を歌ぉちゃあいけん」と生徒によく話していた。
いや訓示していた。

しかし城見小の生徒が流行歌を歌うのを止めることは微塵もなかった。
村の子供たちに一言説教するようなおじさん・おじいさんもいたが、流行歌については、奨めることはなかったが、それを止めということもなかった。
それもあり先生に言われても、子供は学校以外ではおおっぴらに流行歌を歌っていた。

告げ口をする訳ではないが、歌が嫌いな子が流行歌を歌う子に「歌ぉたらいけんが」と言ったときに決まったように返す言葉があった。
それが「こりゃあ流行歌じゃあねぇ」。


その代表が”愛ちゃんはお嫁に”
〽愛ちゃんはお嫁に・・・、と歌うところを〽〇〇ちゃんはお嫁に・・・と変えて歌う。「愛ちゃんはお嫁に」





〽お~~い、船方さんよ~、と歌うところを〽〇〇さんよ~と歌う。「船方さんよ」
(〇〇は村にいる実名の人)





〽お富さん~、と歌うところを〽おトラさん(漫画の主人公)と歌う。「お富さん」






流行歌を歌うことに家族からも、やめるように言われたことはまったくない。
しかし今思えば、「芸者ワルツ」のように大人専用の歌でなかったから許容範囲だったのかな、とも思う。



・・・・・

「童謡の百年」  井手口彰典  筑摩書房  2018年発行
童謡をうたわない子供たち

1952年『婦人公論』12月号では、美空ひばり、江利チエミ、伊達みどり、草葉ひかる、白鳥みずえなどの名前を列挙し、
少女歌手は子供の自然な世界から無理やりひきはなされて大人の世界に放り込まれている矛盾と不幸を見て取っています。
また童謡歌手・古賀さと子は純粋さがあると持ち上げています。

ともあれ、一部の大人たちからどれだけ顰蹙を買おうとも、
美空ひばりの成功によって童謡という頸木から解き放たれた子供たちの歌は次第に社会のなかへと広まっていきました。

その結果、
「童謡は子供が歌うもの」あるいは「子供は童謡を歌うもの」という従来の常識は弱まっていき、
何が童謡なのかをめぐる社会認識にもぐらつきが生じるようになります。



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「わが愛を星に祈りて」

2021年10月25日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
「愛と死をみつめて」の後追いで出版され、歌われ、映画化された。
歌は梶光夫・高田美和のデュエットでヒットした。

映画は福山の船町の映画館で見たが、上演冒頭で起きたことが忘れられない。
それは、
スクリーンに題名と主題曲が始まるやいなや、”うえ~~ん”と観客が鳴きだした。
暗い館内は、観客の半数が、まだ主人公も登場しないうちから涙と泣き声の世界となった。
こういう経験は後にも先にも、無い。
やはり見ている途中に泣くか、見終わって泣くのが、普通。





ちいさな肩を うしろから
抱きしめたい 日もあったっけ
雪どけ道で 声かけて
甘えてみたい 日もあったのに
愛を愛とも 知らないで
たゞみつめてた僕 許しておくれ
あゝ いまはひとりで 空にいる
君が淋しく ないように
わが愛をわが愛を 星に祈ろう


雪割草の 花びらに
願いをかけた 日もあったのに
この手の指が ふれたなら
泣き出しそうな 君だったっけ
恋を恋とも 知らないで
たゞ夢みてたのね 大好きなひと
あゝ いまはひとりで 空を見る
君が淋しく ないように
わが愛をわが愛を 星に祈ろう



歌に出る”雪割草”を一度見てみたい。
いつか見たい、そう思っていた。


「植物民族」 長澤武 法政大学出版 2001年発行

雪割草

11月末から翌年の4月まで、半年を雪の中で暮らす雪国の人びとにとっては、
春は待ち遠しい。
3月も半ばを過ぎる日足が伸びてくると、ふきのとうを探しに行ったりして、
春一番の緑を求めて味わったりする。
そんな中で、雪が消えるのを待っていち早く花を咲かせる草花は人びとの目を引きつける。
それは地方によって異なるが、いずれもスプリングエフェメラル(春の妖精)と呼ばれている植物たちで、
山国の人たちはこのような花を雪割草と呼んで大切にしてきた。
・・・・・
フクジュソウ セツブンソウ イチリンソウ ニリンソウ 
ユキワリイチゲ 
カタクリ ショウジョウバカマ 
・・・・・


なあんだ!
フクジュソウもセツブンソウもユキワリイチゲもカタクリも、
既に見ているではないか!!! 


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テレビドラマ「太陽にほえろ」

2021年10月25日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
テレビを付けたら”太陽にほえろ”を放送していた。

2021年10月24日 日曜日 午後0:00頃 (神戸の)サンテレビ

なつかしいので番組が終わるまで見た。
このドラマは独身の頃、たしか金曜日の午後8時から1時間番組だった。
毎週見ていた。
石原裕次郎がテレビドラマ初主演で話題だった。
裕ちゃんは、テレビの出演料を、映画製作に充てるという報道だった。

番組は裕ちゃん人気の他に、
マカロニ刑事=萩原ショーケンや、ジーパン刑事=松田優作で人気が更に増した。

毎週出演する脇役も魅力的だった。
山さん=露口茂
ゴリさん=竜雷太
殿下=小野寺昭
長さん=下川辰平。



今日のドラマはゴリさんが主役で、青春ドラマ「これが青春だ」を彷彿させる活躍ぶりだった。



主題歌はなかったが、主題曲があった。
これもヒットしたし、番組に欠かせなかった。
井上堯之バンドが演奏。




今日、何十年かぶりに見て、
番組がカラーとは知らなかった。白黒テレビで見ていた。
裕ちゃんの演じる”ボス”は、署長でもなく、課長でもなく、”係長”だった。

不定期だが、長谷直美が出ていた。
可愛い顔をしていた。5年前に矢掛町に車のイベントで来ていた。
その時、顔に面影はあったが、スタイルはまったく変わっていなかった。




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リンゴ村から  ~青森県りんご発達史~

2021年10月18日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
子どもの頃、
昼飯と晩飯の間に腹にとおすものといえば、
ふかし芋やあられのような自給品を戸棚から出して食べていた。

”おやつ”とは町の子が3時ごろに食べるお菓子のようなものを想像していた。
ある時、母に
「皇太子(←今の上皇)が食べるおやつはどんなものかなあ?」と聞くと、
「リンゴやこじゃろうなあ」
リンゴは、現物を見たことはなかった。絵本で見て桃のような形で赤い果物だった。
皇太子は一つのリンゴを兄弟で等分して食べるのではなくて、一個まるごと一人で食べるんだろうな、と子ども心にうらやましく思ったりもした。



(長野県小布施町にて 2017.9.26)

「リンゴ村から」 作詞:矢野亮,作曲:林伊佐緒、歌:三橋美智也

リンゴ村から
覚えているかい 故郷の村を
たよりもとだえて 幾年(いくとせ)過ぎた
都へ積み出す まっかなリンゴ
見るたびつらいよ 俺(おい)らのナ 俺らの胸が

おぼえているかい 別れたあの夜
泣き泣き走った 小雨のホーム
上りの夜汽車の にじんだ汽笛
せつなく揺するよ 俺らのナ 俺らの胸を

おぼえているかい 子供の頃に
二人で遊んだ あの山・小川
昔とちっとも 変っちゃいない
帰っておくれよ 俺らのナ 俺らの胸に



三橋美智也の歌は大ヒット、
映画化され(赤胴鈴之助の)梅若正二で、映画も(小)ヒット。




(青森県黒石市から見る岩木山、秀麗な形は雲に隠れても魅力があった 2018.6.28)





「地方の時代」 山田宗睦編 文一総合出版 昭和53年発行

青森県りんご発達史  波多江久吉

りんご栽培の大集団地 

青森県のりんご栽培は昭和50年に年間45万トンで、青森県と言えばりんごが連想されるほどの主産地を形成している。
その成立のいきさつは偶然ではない。
気候風土などの自然条件の適地性発見に出発しているし、
その地方の人々の取り組み、育てあげてきた集団の長い間の努力の蓄積されたものであることを見落としてはなるまい。

日本のりんご百万トンも、その半分は青森県の生産で、青森県が百年かかって日本のりんご生産を成立させたものであり、
食品消費の習慣もまた同時に創造開拓しながらの産地形成であった。

その8割が津軽に集中している。
津軽平野と岩木山山麓の一帯は、水田でなければすべてりんご園で、
少し高い所にあがれば一望数千ヘクタールの大集団が展望できる。
よくもこれほど植えたものだというほどの大集団である。

風と雪のきびしさのなかで
青森県は雨、雪、風という気象条件からいうときびしい環境のもとにある。
豪雪地帯に欧米のりんご園はない。
致命的なのは台風の襲来で収穫の前に大量の落下をする。
にもかかわらず、りんごのふるさとになったのはなぜか。
それは、ここに住む人々は生きる道をりんごに求めざるを得なかった、
稲作の冷害凶作から逃れる唯一の道としてりんごを発見し、りんごに命運を託した。
過去250年間に70数回の冷害凶作があった。凶作のたびに数万人の餓死者が出る地帯であった。


文明開化の落し子

北海道開拓使の黒田清隆次官がアメリカから莫大な種苗を持って帰った。
このなかに75品種のりんご苗木もまじっていた。
開拓使は、次の年から接木をして苗木の国内生産を始めた。
この接木作業に従事したのは、東京の植木屋で、江戸時代からのすぐれた接木技術が早速応用された。
江戸時代の植木屋は和リンゴを接ぐのにカイドウを台木にして接げばよく活着することを知っていた。
接木繁殖した苗木は59府県に配布した。
各県とも失業旧士族に配布され、青森・秋田・山形・岩手などが反応した。
旧弘前藩の菊池盾衛という熱心な士族が先頭にたって栽培を始め、
明治13年(1880)には、この地方の産業となる確信を得るまでになった。

士族と地主とキリスト教

アメリカ人宣教師イングが信徒にりんごの実を食べさせた。
信徒はりんご栽培に大農場の「敬業社」を創業し、高収益をあげた。
士族は自分たちが作った苗木を地主たちに売りつけた。
士族は苗木業者として生活の自立を得た。
西南戦争後、政府は初期の園芸保護から米麦・養蚕農政へと転回した。
とり残されたりんご栽培は、かえって士族の指導の手にゆだねられ活躍の場を与えられた。
病害虫はじめとする障害を研究し、指導した。うまくいかないと苗木は売れない。
「品評会」を開き、消費者の高い品種をえらび出し、「りんご1本、米16俵の収入」という誇大宣伝まで行われた。
当時見放されていた失業士族が、反官僚的気性の強さをもってりんご栽培に情熱を傾けた気風が、その後の主産地形成の精神的風土になった。


最初の繁栄から挫折へ 

日本鉄道会社の開通

明治以前には、東方地方から移出される商品は米・馬・砂金などであった。
北前船で、下関・瀬戸内海・大坂までの航路が開けていた。米はこの航路で運ばれた。
明治になって、りんごのような腐敗性食品を中央に運搬する手段はなく、せいぜい一地方の自給的商品としてとどまる以外になかった。
ところが思いがけない繁栄の道をたどることになる。
日本鉄道会社の上野青森間が、1891年(明治24)に開通した。
これほど早く開通したのは帝政ロシアのへの北方国防対策として促進されたものであった。
また北海道開発のためにも開通は急がれた。
にちに東京の文化は、東北を素通りして北海道へいったと評された。
東北線によってりんごが東京に出荷されるようになったことは、青森県にとって大きな恩恵だった。
直通列車が、わずか26時間で上野に到着するのであるから輸送革命である。
津軽平野の農村から馬車を連ねて青森駅へりんごを運んだ。
3年後青森・弘前間が開通した。
日清戦争後の賠償金ブームは都会における消費の旺盛をもたらし、これに乗り青森県のりんごは最初の繁栄期が訪れた。


挫折と再建

全国いっせいに出発したりんご栽培は、明治30年代続々と脱落が始まる。
病害虫の発生である。
弘前城下の士族の邸宅の畑はすべてりんご園、夏の日に樹の下をくぐれば白衣が黒く汚れるほどの惨状となった。伐り倒す以外になかった。
九州四国の暖地のりんご県は20年代末に脱落。
東北も後退、青森と北海道が孤塁を守るにすぎなかった。
日本のりんご栽培は終わったかもしれない。
立ちがったのは、
稲作だけに頼っては生きていけないとの信念を持つ多くのりんご栽培農家である。
伐木から始まり
国光・紅玉など経済品種に改植された。
樹列間隔も従来の二間半を三間半に改めた。
害虫駆除のため、樹によじのぼりタワシで樹洗いをした。
果樹の一つ一つに紙袋をかぶせた。
この人海戦術でどうにか切り抜けたのが日露戦争後の1906(明治39)年である。
もうこのとき、青森県と競合する産地はなかった。


農政と農学への不信

明治期以降の農政は国際収支の改善にすぐに役立つ米麦・生糸・茶・綿・煙草などの奨励であった。
果実の栽培などは一種のぜいたく品で国益になる農産物ではないとの考えが強かった。
国益農産物には政府の手厚い保護が加えられ、青森県にも桑苗の配布、養蚕教師の派遣などが繰り返し行われた。
園芸方法もフランス流の整枝法をまねてもさっぱり実はつかなかった。
学者の説く栽培法は信ずるに足らず、自らの経験のなかから技術を生み出す以外になかった。


技術体系の成立

1911(大正14年)から大発生した落葉病は「夏の土用に一葉をとどめず」くらい落葉し、第二回目の挫折となった。
県の技師によるボルドー液の散布によって防いだ。
これにより科学への目が開かれ、害虫駆除や剪定法など農と学が共同して技術体系を作り上げた。
栽培を初めてから50年の歳月を要した。
大正末期、一度はりんご栽培をあきらめていた諸県が再び始めた。
大正12年長野県でも栽培が始まった。


りんご産業の成立から戦時荒廃へ 

農村恐慌

昭和初期、日本は経済恐慌のどん底に落ち込む。
昭和2年金融恐慌、
昭和4年世界恐慌、
昭和6年東北地方の米の大凶作、満州事変が始まった。
米の冷害凶作は昭和7年、9年、10年と青森県を襲い、いわゆる”昭和農村恐慌”を現出した。
朝鮮・台湾米もなだれ込み米価は急落した。
農家は冷害と暴落の二重苦を受けた。
りんごの価格も低落したが、りんご農家には娘の身売りも欠食児童も出なかった。


りんご産業の成立

日本のりんご栽培が産業として成立したのはこの時期であった。
一方、肥料・農薬・農機具などの生産手段も急速に発達した。
農薬・農機具工業が成立したのもこのときである。
青物問屋から、中央卸売市場の公開セリ制度に移ったのも昭和初期である。
県営検査制度を実施したのは昭和8年、不公正な取引を追放した。


国賊扱いされたりんご作り

昭和15年には待望の一千万箱生産を実現した。
ところが、翌昭和16年に太平洋戦争に突入してからのりんご栽培農民は国賊扱いに近い統制の抑圧を受ける。
りんご生産が、戦力増強のための米麦主要食糧の増産に役立たないばかりか、
その妨げになるという非難からである。
昭和16年から本格的な配給統制にはいったが、取締りのきびしい大都市を逃れて中小都市に流れた。
警察はもとより大政翼賛会まで監視摘発の目が厳しくなり、
ついに国家総動員法の適用によって、田植え優先、田の三番除草(7月上旬)が済まないうちにりんご作業をしたものは検挙される、という有様であった。
昭和18年頃のりんご村では、
村の駐在巡査が火の見やぐらの上にあがって双眼鏡でりんご園を見張り、
木にあがって袋掛けをしているのを見つけ次第走って行って検束、留置するという厳しさであった。
このためりんご園は放任され、
おびただしい害虫の繁殖となり、樹は食い荒らされて廃園状態になった。
昭和20年には最高時の2割出荷となった。
戦争がもう2~3年続いていたらりんご園はほとんど枯死したであろうといわれたが、そのぎりぎりのところで平和が戻ってきた。


戦後のりんご園 

りんごの唄

復員や引揚で戻ってきた労働者がすぐに廃園復興の作業に立ちあがった。
折から、
日本中にはサトウ・ハチロー作・並木路子唄の”りんごの唄”が大流行していた。
廃墟となった灰色の町で、ヤミ市に赤いりんごの実がどれほど人々に平和の尊さを感じさせたことであろう。
りんごはヤミ市で飛ぶように売れた。
農地改革で、りんご園が自分のものになった喜びが訪れる。
戦後わずか3年、昭和23年には戦前の最高水準を突破の生産をあげるにいたった。


安定生産運動

青森県のりんご栽培には、風土病とさえいわれたモリニア病という病害がある。
花腐れ病ともいう。
この病菌は空中飛散するので、自分だけでは守り切れない。
りんご協会は一大人海作戦を展開した。
春先の清掃、
5日に1回の薬剤散布、
人工授粉、
摘果作業、
これをみんなにやってもらう意識改造運動と巡回講座が毎週ひらかれた。


高度経済成長

農村の労働力は半減した。
りんごの生産の方向は”量より質”への時代に移る。
大量な大衆果実より小量の高級果実が、生産・流通・消費とも支持される情勢になった。
昭和43年約二百万箱も売れ残って腐敗した。
ここで国光・紅玉に見切りをつけて、スターキングとかふじに切替える高接ぐ更新を始めた。
回復までの数年間は大都市の土建労務者となった。


りんご百年祭

昭和49年、青森県ではりんご百年祭が催された。
アメリカからりんごの恩人イングの遺族らを招いて盛大に祝い、
将来への決意を表明された。
りんごを守ることがまず生存を守る道であることを三万戸の農家は信じている。
納得しなければ動かない、この人間集団が”無意識の組織”として数多い挫折の歴史をくぐり抜けてきた。
ときによみがえる伝統が危機にのぞんでものをいうことであろう。




(青森県平川市津軽SAから見る岩木山、この日も岩木山は雲だった 2018.6.29)



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比島決戦の歌、西條八十「私の履歴書」

2021年08月15日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行


♪いざ来いニミッツ マッカーサー

昭和20年1月、マッカーサー率いる米軍がフィリピンのルソン島に上陸した。
この期に至って、ラジオの国民合唱で良識を疑わざるを得ない「比島決戦の歌」が流し始めたのであった。

作詞界の大御所西條八十と、軍歌戦時歌謡作曲の第一人者古関裕而が作曲していた。

「いざ来いニミッツ マッカーサー」痩せ犬の遠吠えに似た品のないこのフレーズは、軍部将校から敵将を入れてくれとの要望に発している。


西條八十は、「私の履歴書」の中で戦後に次の通りに述べている。

終戦直後、ぼくが疎開地で読んだ新聞紙には西條八十が進駐軍によって絞首刑にされるだろうと書いてあった。
それはぼくが読売に発表した「比島決戦の歌」の中にある、
出て来いニミッツ マッカーサー
出てくりゃ地獄へさか落とし
というひどい詞句のためだと添え書きしてあった。
それを読んだ読売記者で評論家の吉本が、ぼくに手紙をくれて
「あの繰返句はあなたの創作ではありません。
参謀本部の軍人たちが創作して無理に入れさせたものだ。
いざという時には、ぼくが生証人になります」といってくれた。
それでもぼくは一時多少の覚悟はしていたが、幸い事実にならずにすんだ。



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「露営の歌」~死んで還れと励まされ

2021年08月15日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
笠岡市西本町のの古刹・威徳寺に生まれた音楽評論家長田暁二さんは、”露営の歌”は
「軍国歌謡の最大傑作の一つと称された」と記述されている。

管理人が幼いころ、戦争は終わっていたが、近所の年上の男の子は「勝ってくるぞと勇ましく」と歌いながら遊んでいた。
よほど大ヒットし、国民の愛唱歌となっていたのだろう。

映画やテレビでも、村の神社や駅や港での出征兵士を送るシーンでは、決まったようにこの歌が画面に流れる。





「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。

露営の歌


提灯行列も旗行列も、子どもにとっては、お祭りに似た面白い行事だった。
出征兵士は神社で武運長久を祈ってから、駅で電車に乗る。
この時、
駅頭で決まって歌われるのが、『露営の歌』だった。


勝ってくるぞと勇ましく・・

勇壮というよりは悲壮だ。
二番以下の歌詞になると,歌詞そのものにも悲壮感がみなぎってくる。
そのためかどうか、一番の歌詞のみ繰り返し歌っていた。 

ちなみに四番と五番は、

思えば今日の戦いに

戦する身は予てから

一緒によく歌ったもう一つの軍歌は、
『日本陸軍』

天に代わりて不義を討つ 

出征兵士の見送りに小学生がぞろぞろついていくことは、特別な時以外、次第に見られなくなった。
特別な、というのはその小学校の先生の応召の場合である。
つまり、それだけ出征は日常的になってきていた。
普通の出生は、家族と近所の人たちの見送りだけで、あとは、
かっぽう着にたすきをかけた国防婦人会の人たちが、線路際に並んで、日の丸の小旗を振る程度になった。
電車はあっという間に走りすぎてしまう。
出征兵士が、普通の乗客と同じ電車に乗っていくことが、子どもの私には不思議でならなかった。






「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

露営の歌

支那事変は、
「暴戻支那の膺懲」が合言葉であった。
連日新聞の紙面は戦争記事で埋められ、”暴支膺懲(ぼうしようちょう”の強硬論で統一された。
新聞の戦争支持ぶりは熱狂的であった。

支那事変から大東亜戦争の間に、最も愛唱されたのが「露営の歌」。
歌詞は一番から終番まですべてに「死」の影が揺曳していた。

露営の歌  作詞:薮内喜一郎  作曲:古関裕而


勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか
進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える
果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜
馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る

弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
しばし露営の 草まくら
夢に出てきた 父上に
死んで還(かえ)れと 励まされ
醒(さ)めて睨むは 敵の空

思えば今日の 戦闘(たたかい)に
朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が
天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

戦(いくさ)する身は かねてから
捨てる覚悟で いるものを
ないてくれるな 草の虫
東洋平和の ためならば
なんの命が 惜しかろか


東京日日新聞の「進軍の歌」懸賞募集の第2席の詞について選者の一人北原白秋が、
「優れている、もし曲がつくなら」と発表された。

満州から帰途の船内で古関裕而は依頼の電報を受けた。
山陽線の各駅ですでに見られた光景で、武運長久の旗をなびかせたり、日の丸の旗をふるリズムの中で、
ごく自然に作曲してしまった。
十五年戦争下の最高の傑作とされる「露営の歌」は、発売二か月後、前線の兵士が合唱する風景が夕刊に報道された。




(岡山駅)



「千田学区地域誌」 福山市千田学区町内会  2008年発行

召集と出征
体験・男性 大正15年生れ

 
突然、赤紙が届きました。
入隊に際しては、町内の人々や婦人会の方々など大勢の見送りで、壮行会をして頂き、私は次ような挨拶をしたのを思い出します。
「男子の本懐、これにすぐるものはございません。
入営した暁には、一意専心、軍務に勉励し、皆さまの万分の一にも報いる覚悟でございます。
皆さま方におかれましても、銃後の守り、よろしくお願いします。
”今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出立つ吾は”
では、行って参ります。」
昭和20年初め、19歳で大坂の聯隊に入営する前日、日の丸の旗を振りながら、
福山駅まで坂田の方の見送りを受けました。

私は家族と隣人たちに「武運長久」の寄せ書きをしてもらった日の丸の旗を肩にかけて出発しました。
福山駅では、出征する仲間が多くいて、日の丸の旗がうちふられ、
「天に代わりて不義を討つ忠勇無双の我が兵は・・・」
「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国をでたからにゃ 手柄たてずに死なりょうか・・・」
の大合唱。
大勢の見送りを受けました。
ぼくの姿を見つめていた母の姿が思い出されます。
息子を戦場へ送る母が、人前で泣くのは許されなかった時代でした。






「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行

露営の歌

日支事変が勃発すると各新聞社等のマスコミは挙って,沢山の時局歌・愛国歌を募集選定した。
「露営の歌」は毎日新聞の公募入選2位の作品。
北原白秋が「2席に上手く曲が付けば第二の「戦友」になるとコメントしていた。
古関裕而が作曲、
コロンビアの第一線男性歌手を総動員、中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章が歌唱、大衆は飛びつき発売後半年で60万枚を売るレコード界の新記録を作る大ヒットになった。
軍国歌謡の最大傑作の一つと称された。
「死んで帰れと励まされ」の文句に人気が出て仕舞ったのである。


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「湖畔の宿」

2021年08月14日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
動画サイトの「湖畔の宿」では、50代の高峰三枝子が歌う前に、
本人が、次のように曲を紹介している。

特攻隊慰問に唄った歌
「日の丸の鉢巻きをきりりと結んだ特攻隊員が、こぶしをぎゅっと握り締めて、一生懸命に私の湖畔の宿を聴いてくださいましたかたがた、今でも目にちらついております。
夜明けともに飛び立っていってしまう、二度と還ることのできないかたがた。
「湖畔の宿」は、戦争のつらい思い出とむすびついて、私の心から離れることはありません。」




東条首相「湖畔の宿」を所望

昭和18年に入って相次ぐ悲報に、国民の気持ちは沈む一方だった。
だが日本が米・英・蘭などと開戦した理由は、欧米各国からアジア解放であったから、
なんとか隠蔽しなくてはならなかった。
5月31日の御前会議で、占領下のインドネシアやマレー半島は日本領土に編入され、ビルマとフィリピンに「独立」政府がつくられ、
さらにインド仮政府も結成された。

そして11月5,6日には、これら諸政府代表を東京へ招いて、大東亜会議なるものを開催したのだった。
東条英機首相の晴れの舞台であった。
実はこの時、東条は遠来の客を歓迎する晩餐会に、女優高峰三枝子を招いて、「湖畔の宿」を歌わせたのだという。

孫の東条由布子さんの『祖父東条英機』の中に、次のように書かれている。

祖父は高峰三枝子さんの歌が大好きで、タイの首相の歓迎晩餐会でも高峰さんは「湖畔の宿」を歌った。

高峰三枝子の自伝を読むと、
「湖畔の宿」を所望したのはビルマのバーモウ長官だったと述べている。
退廃的につき発禁を喰った軟弱な「湖畔の宿」を歌った経緯は↓

東京は空襲にさらされる日々が多くなりました。
ちょうどその頃のことですが、大東亜省からの電話で
「東条閣下が、ぜひ「湖畔の宿」を聞きたいとのこと・・」と連絡がはいりました。
湖畔の宿がビルマですごく流行していて、日本の兵隊さんが愛唱しているこの歌を、長官がぜひ聴きたいと東条首相に懇望されたのだそうです。
あの歌はお国の指示で発禁になったはずなのに、それを国の首相から唄ってほしいと言われたのは本当に驚きました。

由緒ある料亭に招かれて行ったが、灯火管制課、部屋は黒布を張りめぐらされていたという。

電灯はついていましたが、人の顔がかすかに見える程度の明かりです。
東条首相のにこにこ顔と、頭にターバンを巻いたバーモウ長官がうつりました。
そこで灰田勝彦さんのギター伴奏で、「湖畔の宿」「純情二重奏」「南の花嫁さん」の三曲を歌いました。
唄い終わって家に帰る時にいただいたお土産は、もう私たちの手に入らなくなったお砂糖やチョコレート、お米などで、
そのありがたかったこと。

「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行






「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行
湖畔の宿

昭和15年のヒット曲に、有名な高峰三枝子さんの『湖畔の宿』があります。
戦意高揚でアドレナリンがどんどん分泌していくような時代に、こういうさびしい、
センチメンタルな歌が大衆の間で支持されたことがおもしろいと思います。
また、軍部や当時の支配層が、こうゆう歌を頭から「そんなのはだめだ。もっと元気な歌にしろ」と弾圧しなかったことも不思議です。

「湖畔の宿」 作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一

山の淋しい 湖に
みずうみに ひとり来たのも 悲しいこころ
胸のいたみに たえかねて
昨日の夢と 焚きすてる
古い手紙の うすけむり

水にたそがれ せまるころ
岸の林を しずかに往けば
雲は流れて むらさきの
薄きすみれに ほろほろと
いつか涙の 陽が堕ちる

ああ、あの山の姿も、湖水の水も、静かに静かに黄昏れて行く、この静けさ、この寂しさを抱きしめて、わたしはひとり旅をゆく、誰も恨まず。
みんな昨日の夢とあきらめて、幼児のような清らかなこころを持ちたい、
そして、そして、静かにこの美しい自然を眺めていると、只ほろほろと涙がこぼれてくる。

ランプ引きよせ ふるさとへ
書いてまた消す 湖畔のたより
旅のこころの つれづれに
ひとり占う トランプの
青い女王(クイーン)の 淋しさよ







(榛名湖 2017.9.8)



(Wikipedia)
曲は1940年の2月には完成していたが、戦時色がないとの理由でレコード会社が難色を示し、発売は晩春頃となった。
その後、前線の兵士からのリクエストに応じる形でラジオ番組では高峰にこの曲を歌わせるようになり、最終的には内地でも大ヒットしたという。
曲はヒットしたが、感傷的な曲調と詞の内容が日中戦争戦時下の時勢に適さないとして、まもなく発売禁止となった。
しかし前線の兵士には人気があり、慰問でも多くのリクエストがあったという。




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「明日はお立ちか」

2021年08月14日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
この歌は母を唄っているのではないかと、自分で一人思っている。
たぶん、日本中の女性が家族を兵隊として送り出すときはこの歌と同じ気持ちだっただろう。
それが妻であれば、まだ嫁ぎ先の家族や地域も不慣れ、残されて家事や農作業や子育てもいっさいが身に降りかかる。
不安と、その日から始まるであろう激務に、夫の見送りは晴れの日の真逆であった悲しい歌のような気がする。


「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

明日はお立ちか

戦争は激化の一途を辿っていた。
働ける男性は赤紙一枚で、いつ召集されるかわからない。
銃後に残されるのは妻や子、母や姉妹、老幼の男たちの様相が濃くなった。

しかし、召されて征くのは大和男児の晴れ姿ではないのか。
この別れの悲しみを秘めて、夫や子の無事を祈る女ごころを歌った「明日はお立ちか」が、
小唄勝太郎の美声で流れるようになったのは開戦から数か月後である。

「明日はお立ちか」

明日はお立ちか お名残り惜しや
大和男児(おのこ)の 晴れの旅
朝日を浴びて いでたつ君よ
拝むこころで 送りたや

駒の手綱を しみじみとれば
胸にすがしい 今朝の風
お山も晴れて 湧きたつ雲よ
君を見送る 峠道

時計みつめて 今頃あたり
汽車を降りてか 船の中
船酔いせぬか 嵐は来ぬか
アレサ夜空に 夫婦星






(戦地慰問の小唄勝太郎)




「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行

明日はお立ちか

当時、大変人気のあった小唄勝太郎に『明日はお立ちか』という曲があります。
この歌を聴くと、ああ、こういう気持ちに支えられて男たちは戦場に向かったんだなあと、
当時のことを思いだします。
見送る女性たちもこんな気持ちで手を振って、夫や恋人を戦場に送り出したのかと、
深い感慨を覚えますね。
いい歌ですが、罪深い歌だとも思いますよ。


「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行

明日はお立ちか
ビクターから発売された軍国歌謡の秀作。
表面的には応召の夫を戦地に送り出す若妻の気持ちを心強く詠いながら、裏面では哀れ深い女心の嘆きと感傷をさり気なく詩情豊かに詠い上げている。
この歌詞の中には”軍”という文字も”戦””兵”という文字も一字も出てないが、一番で”大和男児の晴れの旅”と間接的に歌い、その後も”拝む心で送りたや”と歌い終わらせている。
二番の”お山も晴れて湧き立つ雲よ”の辺りも生かされていて,如何にも軍国妻らしい凛々しさを思い浮かばせる。
三番は一転して“汽車を降りたか船の中船酔いせぬか嵐は来ぬか”と真に夫を思う若妻らしい気の遣い様を描いている。

この頃になると町でも村でも一家の働き手を戦争に取られ、生活の重荷は総て主婦の肩に伸し掛かかって来た。
強くなければ生きて行けず、女性ももてる力のことごとくを発揮して”御国のため”と、戦争協力を強制させられた。
男性を赤紙一枚で戦場に狩り出し、悲しみの心も”名誉”に置き変えて、
何の感傷も批判も口に出すことが許されなかった時代、
大衆の心のはけ口となってこの唄がヒットして行った。




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「若鷲の歌」

2021年08月14日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
若鷲の歌は、まちがいなく当時の少年たちを大空へ駆り立てるほどの影響があったに違いない。
予科練にいったおじは
「まだ子供じゃった。入ったら隔離された塀の中で教育される。
世間の事はまったくわからない」と言っていた。
純な少年を”命惜しまぬ”少年に変えるのは、国家にとってたやすいことだったようだ。


「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行

予科練の歌
私たちのような子どもでも『予科練の歌』などを聴いているうちに、いつのまにか自分たちも一日も早く少年飛行兵になりたいと考えるようになりました。
『予科練の歌』は「七つボタンは桜に錨」と勇壮ないい歌ですが、ただ元気がいいだけではなく、叙情的でセンチメンタルなところがあって、大衆の心の琴線に触れるのです。
そんなことで、国民の思想が無意識のうちにどんどん戦争の方へ向いていく。
歌の持つ力は大きいものだとつくづく思います。




(おじ=母の弟=松山予科練)



「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行

若鷲の歌(予科練の歌)
太平洋戦争の戦局が不利に傾き始めた昭和18年、海軍は航空隊甲種予科練習兵(通称・ヨカレン)の大募集を始めた。
戦意昴揚映画「決戦の大空へ」、その主題歌「予科練の歌」として親しまれ18年9月コロンビアから霧島昇、波平暁男の歌唱で発売した。
作曲は古関裕而で「露営の歌」「暁に祈る」とともに、古関の3大名作軍歌のひとつにあげられている。
制服が7つ釦になったのは昭和17年からで、戦後までに20万人以上の飛行兵を養成し巣立っていった。
西條は「ぼくは流行歌、軍歌の如き歌謡は、芸術品でなくとも、これらは百万人の人間を動かす力があるのだ。
そういう点で男子一生を賭ける仕事として価値がると信じたのだ」と書いている。





「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

若者を駆り立てた「若鷲の歌」

「若鷲の歌」は、戦時下に生まれた五指に入る傑作歌謡だった。
西条八十、古関裕而が霞ケ浦航空隊に一日入団の体験を生かしてつくったもの。

映画とその主題歌に刺激されて、甲種飛行予科練習生を志願する中学生が激増した。

若鷲の歌

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み

仰ぐ先輩 予科練の
手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神
大和魂にゃ 敵はない

生命惜しまぬ 予科練の
意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を
母へ写真で 送りたい






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