終戦間際の日ソ交渉ほど、みじめな外交交渉はない。
「溺れる者は藁をも摑む」を、国家が実行した。
ここまできても、なお
「死中に活を求める」案すら出せず、ソ連にすりよるだけで、最後に侵攻された。
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
「対ソ静謐(せいひつ)」
「一億玉砕」本土決戦
太平洋の島々での戦いではことごとく敗戦を重ね、もはや日本の敗戦は必至とも見えるこの時期、軍部はどのような心づもりで本土決戦をのぞもうとしていたのか。
対外政略の唯一の目標としてあげられたのが「対ソ静謐(せいひつ)の保持」であった。
アメリア軍を迎え撃って本土決戦を行うためには、北方のソビエトとの安定が絶対条件であった。
唯一絶対の条件であった。
1943年11月、
テヘランで開かれた米英ソ首脳会談で、改めてソビエトの対日参戦は確認された。
12月15日、スターリンはハリマン大使に対日参戦の政治的条件として
「千島列島と南サハリンはロシアに返還されるべきだ」と述べ、
さらに旅順・大連、満州鉄道・中東鉄道、外モンゴルの承認を要求した。
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最高戦争指導会議(5月11日)
東郷は世界情勢を説明しつつ、激しく反論する。
「もはやソビエトを軍事的・経済的に利用しえる余地はない。
日本が手をこまねいてる間にカイロ宣言、テヘラン会談、さらにヤルタ会談となったのだ。
好意ある態度を誘致するとかいっても手遅れである」
鈴木首相の提案で、
ソ連の参戦防止、
好意的中立、
戦争終結に仲介させる。
とくに戦争の終結がはじめて正式に検討されたという点で重大な意味を持つ。
5月14日にも開催され、
まずソビエトに提供すべき代償について話し合われ、次のような代償提供を覚悟することで意見の一致をみた。
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「終戦史」 吉見直人 NHK出版 2013年発行
東郷の謎
東郷が当時推し進めようとした対ソ工作は、戦後「幻想の対ソ工作」などとも称されてきた。
なぜ、すでにヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしたソ連に対して甘い期待を抱き、
米英への和平仲介を頼むなどという理解に苦しむ外交交渉をやったのか。
当時外務省政務局第一課長だった曽祢益も戦後、
「泥棒に警察官を頼むようなもの」と回想している。
天皇の意向
そもそもモスクワに特使を派遣する案は、東条内閣、小磯内閣と
繰り返しソ連に申し入れ、いずれも拒絶されている。
この時(7月12日)、昭和天皇は戦争終結を急いでいた。
アメリカは、東京の東郷外相とモスクワの佐藤大使の往復電報をすべて傍受、解読していた。
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「スイス諜報網の日米終戦工作」 有馬哲夫 新潮選書 2015年発行
1945年5月14日、最高戦争指導会議は、ソ連を仲介として終戦交渉を行うことを決定していた。
この時、交戦国である英米が、日本が受け入れられる条件を示していたなら、この段階で戦争は終わっていた可能性がある。
その条件とは国体護持と天皇制存置だった。
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
ソ連外交への甘い期待
1945年1月の時点では、ソ連は4月までに中立条約破棄を通告することは決めていたが、
中立条約の無視・対日参戦については、結論を出すに至っていなかった。
ところが現実には、2月のヤルタ会談で「ドイツ降伏後、2~3ケ月で対日参戦する」という密約が取り決められた。
戦局の予想外の進展である。
ソビエト軍の大攻勢で独ソ戦が予想より早く帰趨が明らかになり、対日参戦にできると考えられた。
また、
太平洋の米軍の進撃状況から、一年もたてばもうソビエトの参戦は必要としなくなるという判断があった。
戦後を見据えていたソビエト
駐日ソビエト大使・マリクは1944年7月21日にモロトフに報告書を提出している。
マリク大使は
日本の無条件降伏後、米英が日本に対して取ろうとしている措置に無関心であってはならない。
とくに、ソビエトの極東地域に隣接していて現在日本の支配下にある地域
(満州、朝鮮、対馬、千島列島)
が、日本から他の大国に手に渡ることを決して許してはならない。
同じ頃、
「絶対国防圏」を突破された日本は、ソビエトの中立条約尊守を希望するだけにとどまらず、・・・・
再開された広田・マリク会談
6月24日、
しばらくぶりに広田・マリク会談が再開された。
広田は、
和平を望む日本に対しソビエトが好意的態度をとるかどうか?
その場合、どの程度の代償を日本に要求してくるのか?
感触をつかもうとした。
しかし議論はまったく噛み合わなかった。
6月29日
広田は日本からの具体的提案を用意した。
日ソ間の永続的親善関係を樹立し、東亜の恒久的平和維持に協力することとし、
日ソ不侵略の協定を締結する。
この条件として、次の三点をあげていた。
一、満州国の中立化(日本軍の撤兵)
二、ソビエトから石油を供与してもらえる場合は、ソビエト水域での漁業権放棄
三、そのほか、ソビエトの希望する諸条件について論議する用意がある
広田は、これを早くモスクワに伝えてほしいと述べた。
マリクは「考慮する」とだけ述べた。
実際、日本の提案は、検討にも値しないようなものだった。
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ソビエトと米英の協力関係に楔を打ち込み、
ソビエトを枢軸国に取り込むという現実離れした構想を本気になって推進しようとしていた。
ご都合主義にはしった日本の外交が、いかにお粗末なものであったかを実感せずにはいられない。
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ソビエトへの和平仲介依頼
6月29日の広田・マリク会談で、日本側からいちおうの具体的提案を提起したにもかかわらず、マリクからの返答はなかった。
モスクワの佐藤大使のもとに7月13日、緊急電報が届いた。
「(ポツダムの)三か国会談開催前にソビエト側に戦争終結に関する大御心を伝え置くこと」
日本政府は、はじめて戦争の終結に関して、ソビエト政府に申し入れるよう命じたのである。
天皇の親書を携えた近衛文麿を特使として派遣したい旨をモロトフに直接申し入れよというものだった。
日本への回答はまたもや遅れる。
佐藤は7月15日東郷外相へ、
「無条件」という条件はつけない無条件降伏を主張し、
同時に、
近衛の交渉次第で無条件降伏でない講和が可能だと考えるような「幻想」は打ち砕こうとしたのである。
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7月17日佐藤大使の親展が届いた。
それは、事実上の特使受けれの拒否の回答だった。
「ソビエト政府にとって特派使節の使命がいずれにあるやも不明瞭であります」
天皇の威光がソビエトに届くはずもなかった。
7月20日、
佐藤は東郷外相に最後の意見電報を打電した。
「敵の絶対優勢なる爆撃砲火のもと、すでに交戦力を失いたる将兵および国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救わるべくもあらず。
7千万の民草枯れて上御一人ご安泰なるをうべきや。
すでに互角の立場にあらずして無益に死地につかんとする幾十万の人命をつなぎ、
もって国家滅亡の一歩手前においてこれを食い止め7千万同胞を塗炭の苦より救い、
民俗の生存を保持せんことをのみ念願す」
日本国内ではまだ誰も言い出せなかったことを、佐藤は意を決して、モスクワから政府に訴えかけようとした。
「祖国の興亡この一電にかかるとさえ思われ、書き終えて机に伏す。涙滂沱なり」
と日記に記している。
7月25日、
再度佐藤は特使派遣の仲介を申し入れた。
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