しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「山陽新幹線全線開通50周年」で思うこと(想い出)

2025年03月10日 | 令和元年~

”夢の超特急”新幹線は、昭和39年(1964)10月、東京五輪に合わせて開業。(東京⇔新大阪)
昭和47年(1972)3月15日山陽新幹線開業。(新大阪⇔岡山)
昭和50年(1975)3月10日全線開通。(岡山⇔博多)

今日(2025.3.10)が山陽新幹線全線開通50周年。


開通前後、鹿児島県鹿屋市に住んでいた。

開通前は寝台の夜行列車で、岡山県笠岡まで帰省していた。
夜行列車は笠岡駅には停車しないので広島駅から乗っていた。

広島の流川・薬研堀で遊び、すこし酔っぱらってから午後10時頃の夜行列車に乗るのがパターンだった。
熊本県の八代あたりで朝になり、車掌さんが来てベッドを座席に転換していた。
西鹿児島に着いてからが、また遠かった。
鹿児島から船に乗って大隅半島の垂水まで行き、垂水からバスか汽車に乗って鹿屋に着いた。


鹿屋から笠岡へは、その往復だが山陽本線の車窓からは、工事中の山陽新幹線が至る所で見えた。
新尾道駅と東広島駅は後年出来たもの。
岡山県では、県内に新幹線の駅が岡山駅一つではメンツにかかわると、倉敷市が運動もしないのに「新倉敷駅」が建設された。


新幹線が博多駅まで延長開業後は、福山駅から博多駅まで行き、鹿児島本線に乗り換えていた。
全線開業で便利になったという思いはなかった。
乗り換えがめんどかった。
開通までは夜に移動、開業後は昼に移動と、時間帯が変わった。

 

 


ある年の春に兄の結婚式が笠岡市労働福祉会館であり、
それに出席するため笠岡に帰ろうとしたら(当時の恒例の)春闘の国鉄ストライキとがっちんした。
これには困った!

鹿児島市の同僚が飛行機の切符を手配してくれた。
そのとき生まれて初めて飛行機に乗った。
空から見る宮崎県の海岸線が地図と同じで、「同じだなあ」と思う間もなく福岡空港に降りていった。

降りてすぐ、生れて二度目の飛行機に乗った。
福岡発広島行の飛行機で、広島空港は現在の山間部でなく、海辺の広島市己斐。
広島空港からは高校の友人が車で笠岡まで連れて帰ってくれた。

笠岡から鹿児島へ戻る時には国鉄ストは終わっていた。(例年通りで終わるのはわかっていた)
当時の国鉄ストは多くの国民にとってほんとに迷惑だった。
国鉄労組とTV討論した海部俊樹さんは、その功績と知名度で首相にまでなった。


新幹線がない当時、下りの山陽本線が下関を過ぎると(海底トンネルになる頃)
同乗者の会話が標準語から九州弁に変ると言われていた。
下関で降りなかった人は全員、九州人または九州に行く人なので、同胞九州人になるそうだが、
自分の場合は夜行列車だったので、その現場を見たことはない。少し残念。

 

 

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第28回べいふぁーむ笠岡マラソン大会  (岡山県笠岡市平成町・笠岡総合スポーツ公園) 

2025年03月10日 | 祭を見る

日時・2025年3月9日 

 

快晴の日、べいふぁーむマラソンが開催された。

 

(ハーフマラソン)


地元のマラソン大会だが、近年はすっかり出場でなく、応援専門になってしまった。

その理由は、
体力が走れなくなった・・・と自分で思い込んでいる。
走るのは体にいいことばかりでなく、悪いことも結構ある。(←膝や腰の治療)

 

 

 

 

しかし
見るのは面白い。
応援するのも面白い。

それで近くの大会には応援・声援・見物でよく行っている。


今年は長女の家族4人出場の応援が主目的で行った。

 

 

(3km)

 

・・・

べいふぁーむ笠岡マラソン大会の場合、
競技種目が限られている。(少ない)
1.5キロ(小3まで)
3キロ(小4~中3)
10キロ(高校以上)
ハーフ(高校以上)


以下のどれか一つでも追加してほしい。
5キロを追加。
ウオーキングを追加。
3キロの年齢制限を撤廃する。


・・・

 

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”飛天双〇能(ひてんふたわのう)鞆の浦”  (広島県福山市鞆町・沼名前神社 )

2025年03月09日 | 祭を見る

日時・2025年3月8日 (土)

 

"鞆の祇園さん"沼名前神社で能楽があった。
地元紙に開催が載っていたので、楽しみにしていた。


”飛天双〇能”は、「ひてんふたわのう」と読み、
全国の能楽師約100人が集うもの。

会場は重伝建地区・鞆の浦の沼名前神社(ぬなまえじんじゃ)。
沼名前神社には国重要文化財の能舞台がある、その舞台で演じられる。

 

「翁」

 

 

 

 

 

狂言「福の神」

 


じつは人生初の能舞台の鑑賞だった。
鑑賞力は持ち合わせてないけれど、能楽の魅力は堪能することができた。

 

能「巴」

 

 

 

 

 

今日の鞆の浦は冷たい気温だった。

 

 

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「東京裁判」”南京虐殺”

2025年03月06日 | マッカーサーの日本

昭和13年秋、父が所属していた部隊は、
大別山を越えて漢口城(武漢市)へ入城した。

日本軍の兵糧は現地調達で大別山を越えこともあり
漢口へ入城後は、
漢口の街の倉庫にある米は略奪、当然のことのように皇軍の兵糧となった。

なにしろ皇軍は正義の戦いであり、
東洋平和のために戦っているのだから・・・米(こめ)の略奪は、平和のへの贈もの・・・ぐらいの意識だったのだろう。

 

同じころ、南京で日本軍の行動が、(日本以外の)世界中に発信され報道されていた。

 

・・・

「年表 太平洋戦争全史」 日置英剛 国書刊行会  2005年発行

極東国際軍事裁判における南京大虐殺判決(昭和12年・12月)


1937年12月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍 [中支那方面軍]が南京市に接近すると、100万の住民の半数以上と、
国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。
中国軍は、この市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した。

1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍5万の大部分は、市の北門と西門から退却した。 
中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、
1937年12月13日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。


日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。
目撃者の一人によると、
日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。
目撃者達によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、
同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、
戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。
兵隊は個々に、または2、3人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人、強姦、掠奪、放火を行った。
そこには、なんの規律もなかった。
多くの兵は酔っていた。

それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、
遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。
他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。
これらの無差別の殺人によつて、
日本側が市を占領した最初の2~3日の間に、少くとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。 
多くの強姦事件があった。
犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。
幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。 
そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。
多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。
占領後の最初の1ヶ月の間に、約2万の強姦事件が市内に発生した。

日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。 
兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調べ、
価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。
非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。
掠奪された物資はトラックで運び去られた。
日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。
最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一劃々々と相ついで焼き払われた。
なんら理由らしいものもないのに。

全市の三分の一が破壊された。
中国の一般人は 一にまとめられ、うしろ手に殴られて、城外へ行進させられ、 
機関銃と銃剣とによって、そこで集団ごとに殺害された。
兵役年にあった中国人男子2万人は、こうして死んだことがわかっている。
ドイツ政府は、その代表者から、「個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのもののと犯罪行為」について報告を受 けた。 
この報告の後の方で、「日本軍」のことを「畜生のような集団」と形容している。

城外の人々は、城内のものよりもややましであった。
南京か二百中国里以内のすべての部落は、大体同じょうな状態にあった。
住民は日本兵から逃れようとして、 田舎に逃れていた。
所々で、かれらは避難民部落を組織した。
日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。
南京から避難していた一般人のうちで、5万7千人以上が追いつかれて収容された。
収容中に、かれらは飢餓と拷問に通って、遂には多数の者が死亡した。
生き残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。
 
中国の大きな集団が城外で武器を捨てて降伏した。
かれらが降伏してから72時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、射殺された。
このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。

南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。
これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。
これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。
これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、 揚子江に投げこまれたり、
またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。

 
〔1948年11月11日判決『極東国際軍事裁判速記録』 


・・・

 

・・・

「昭和第5巻一億の新体制」  講談社 1989年発行


「東京裁判」南京虐殺

日本も批准していたハーグ陸戦条約では、捕虜や投降兵の殺傷を禁じていたが、
そのことは日本軍部隊には徹底されていなかった。
激戦が続くなか、日本兵は中国兵に対して強い敵愾心、報復心をいだき、
当時の日本人がもっていた中国人に対する蔑視意識と相まって、中国兵捕虜や投降兵、敗残兵の虐殺が広範におこなわれた。 
南京攻略を目ざして、徒歩による強行軍を強いられたため、日本軍部隊の軍紀は乱れ、
女性を強姦、輪姦する婦女凌辱事件と、食糧・物資の略奪や、人家を放火・破壊する不法事件が多発した。 
しかし兵士たちの不法行為を取り締まる憲兵はわずかしかいなかった。
日中全面戦争へ本格的に移行した日本は、11月20日に宮中に大本営を設置、
12月1日、大本営は南京攻略を正式に下令した。

以後、中支那方面軍九個師団と数支隊を加え、
総兵力16万とも20万ともいわれた中支那方面軍の大軍が、南京の中国軍に対する包囲殲滅作戦を展開した。
南京は国民政府の首都として、当時、城壁の内部と周辺からなる市部人口100余万、
近郊農村と県城からなる県部人口130万人をかかえた大都市であり、
南京攻略戦の戦域には、市部と農村を含む県部をあわせて、100万を超える住民や難民が残留していて、
南京攻略戦と占領後の残敵掃討戦の犠牲になった。


南京事件の第一段階は、
日本の大本営が南京攻略を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した 12月4日前後からはじまる。
日本軍部隊は、南京近郊の農村地域において、
農作物や食糧を略奪、家畜を殺して食べ、宿営した農家を移動するさいに放火した。
村の成年男子は殺害され、隠れているところを発見された女性は強姦、輪姦されたあげくに、
日本軍憲兵に通告されないよう、証拠隠滅のために殺害された。
輜重部隊をともなわなかった部隊は、農民を拉致、連行して使役した。

第二段階は、
南京城内と城壁周辺区においておこなわれた。
12月12日深夜に南京は陥落し、 13日から日本軍は「残敵掃討」を開始した。 
中国軍兵士や市民はパニックに陥り、長江を渡って逃げようと埠頭のある下関へ殺到したが、
日本軍はここを制圧し、投降してきた中国兵らを次々殺害した。
折から長江を遡上してきた海軍の軍艦が、渡して逃げようと小舟や筏、戸板などで川面に漂う中国兵や市民の群を機銃で殺害した。
南にある中華門外でも投降勧告にしたがって収容された多くの中国兵が殺害された。

第三段階は、
12月14日から16日にかけておこなわれた。日本軍は17日に入城式をおこなうことを決定、
それまでに残った中国軍を徹底的に掃討しようと、市街地を虱潰しに探しながら殺害していった。
多くの成年男子が軍服を脱ぎ捨て、民間服に着替えた「便衣兵」とみなされて殺害された。
欧米人が管理して市民、難民を収容した「国際安全区」にも入り、
兵士が民間人かを明確に区別しないまま数を運行して殺害した。
日本軍は「捕虜はつくらない」という上部の命令で、長江沿岸において、捕虜、投降兵、敗残兵を数千、数百の集団で次々に殺害し、体を長江に流した。 
城内の大掃討作戦において、日本兵は「花姑娘 (若い娘)探し」をおこない、民家に隠れていた女性を探しては強姦、輪姦した。


第四段階は、
入城式以後、長期にわたった軍事占領期間におこなわれた。
日本軍は市民にまぎれこんでいる中国兵を摘発するため「兵民分離」と称して市民登録をおこない、
元兵士の疑いをかけ多くの成年男子を運行して、下関などで殺害し 女性を拉致して、部隊へ連行、炊事・洗濯に 使役しながら強姦、輪姦するケースも頻発した。 
長期駐留した日本兵による商店、倉庫、民家からの食糧や商品さらに財宝などの略奪が横行、略奪後に証拠隠滅のための放火も多発した。


大本営が中支那方面軍の戦闘序列を解き中支那派遣軍に改編した1938年2月14日が南京作戦の終了にあたるが、
南京における残虐事件はその後も続いた。
南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでもずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考えることができる。 
南京事件発生の区域は、南京城区とその近郊の六県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京作戦(中国にとって南京防衛戦)の戦区であり、
南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
南京事件は、事件当時南京に残留していた外国人記者や外国大使館員、
さらには難民や市民の救済にあたった南京安全区国際委員会のメンバーたちによって海外に報道され、
国際世論は、日本軍の残虐行為を厳しく批判した。 

 

・・・

南京大虐殺事件は、当時世界中にかくれるないことであった。
たゞ日本の民衆だけが、この事実から耳目をうばわれ信ずる父や子や同胞たちが、悪虐不倫をかさねつつあるのも知らず、
勝った勝ったと内地では旗行列が行はれてゐた」ことがあらためて国民に知らされた。

(『朝日』4・7・27 「天声人語」)。


・・・

 

(福山市史)

福山には歩兵41聯隊があった。
現在福山市には、聯隊の記念館はない。
が、
なぜか?郷土部隊にまったく関係ない「ホロコースト記念館」がある。

・・・

 

 

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パンパン・オンリー

2025年03月05日 | マッカーサーの日本

国営の売春は道徳を重んじるマッカサーの意思で廃止された。

米兵たちが持つ生活物資を、性の提供で貰おうと、パンパンがあらわれた。
同居する女性はオンリーと呼ばれた。
日本史上初めての、多くの混血児が誕生していった。

 

・・

「昭和二万日の全記録 第七巻」 講談社  平成元年発行  5575~5609

国営の売春施設RAA

8月18日、内務省警保局長から全国警察に通達が出された。
占領受け入れの具体策として打ち出された「性の防波 堤」としての施設づくりである。
警視総監坂信弥が中心となって、関係者を集め協力が要請された。
貸座敷組合、待合組合、料理飲食業組合、芸妓置屋同盟、接待業組合、慰安所連合会、練技場組合の七つの団体によって、
「特殊 慰安施設協会」(RAA)が設立された。
活動資金3000万円の銀行融資を認めたのは大蔵省主税局長池田勇人である。 
8月27日、東京大森の小町園に最初 のRAAが開場した。

8月31日の『朝日新聞』を皮切りに、慰安婦の募集広告が続々と登場した。 
応募した人のなかには、食糧の支給という条件に誘われた人も多く、最初に1.360人が選ばれた。
だが、占領軍兵士の性病罹患率の急激な上昇と、米国本土の世論に押されて、 
21年3月27日、すべてのRAAは閉鎖された。

 

慰安所をオフ・リミットにした性病

RAA施設第一号は、終戦直後の8月27日に東京大森の料亭「小町園」で開業し、以後数は増えて都内だけでも20ヵ所以上、
最盛期には全国で7万人にのぼる女性が従事した。
GIたちがここへ殺到し、一時は非常な繁盛ぶりを見せたが、次第に性病が蔓延するところとなりGHQの頭痛の種にまでなった。
そして21年1月21日、「公娼廃止に関する覚書」がGHQから発せられ、
3月27日にはRAAの占領軍用慰安所の21ヵ所が閉鎖された。
しかし日本政府は赤線区域を指定し、事実上の骨抜きで売春は存続させた。 
兵士に対しても自粛の命令がくだされていたが効力はなく、
結局「オフ・リミッツVD」 (venereal disease = 性病)の黄色い標識が立てられるところとなったのである。
公的売春施設RAA慰安所は閉鎖された。
だが、閉鎖時でも全国で55.000人を数えた女性たちのある者は、そのまま赤線に流れたり街の私娼となって、
その日の糧を得ていくことになる。

・・・

らく町お時の涙

藤倉一

戦後の混乱と貧困の悲しい日本の姿をよく語るものに、闇市場とパンパンの存在があった。 
こんな女にだれがした・・・・・・の歌が巷に流れる昭和22年、
六大都市の夜の女は推定40.000人はいたという。
そして生活のため夜の町角に立って、男の袖をひかざるをえない女た ちの叫びが、NHKラジオから流されたとき、 人びとは粛然たる想いを胸にいだいた。


その頃、ボクは「街頭録音」を担当していたが、
そして放送始まって以来の旋風的反響をまき起したのが、 この第一部の「ガード下の娘たち」
ヤミの女の夜の生態であり、この放送で「らく町のお時」が一躍、全国的に名を売ってしまったのである。
もともと、こういた占領下の暗黒面を放送に取り上げることは、当時としては関係方面に対する遠慮もあり、ま従来、醜悪な世相の実態にはいっさい触れることを避けて来たNHKの編成方針にも反逆する不逞の企てであった。 
何しろ、対象は大衆の好奇心をそそるヤミの女である。

・・・

 

 

マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行

 

多くの米兵は、用意された娼婦と寝るのではなく、「チャーミングな日本女性」 とマトモなデートをしたかった。
しかし、〝聖人"マッカーサーの取締りはかなりきびしく、 占領初期は、米兵が夜11時以降に日本人の家にいることは許されなかった。
そこで占領の最初の時期、米兵たちのかわきをいやす方策といえば結局、「ジョロウヤ」か強姦しかなかった。
「ジョロウヤへ行くこと自体に、何か屈辱感があった。
行列して、便所のニオイのする部屋にはいる順番を待つことに、とてもイライラしたことを覚えている。
せっかく戦争が終ったのだから、もっと天下晴れて、人生を楽しむ権利があると、私は不満だった」


・・

下宿屋やキャバレーに看板を替え、代ってパンパンと呼ばれる私娼が巷にあふれていた。 
当時、売春婦には三つの型があった。
1は身売りでそうなったもの、
2は引揚者などで食うに困って
3は混乱期の生き方としてむしろそのほうを選んだもの。
この3のタイプがふえる傾向にあった。
つまり必ずしも食えないからだけではなく、
ある程度"好き"でそうしている者がふえて行った・・・・・・」 と、教授は回想する。

調べているうちに、ある「民主的女郎屋」から招待があった。
行くと、「うちの女たちは 身柄を拘束する契約書も交わしておらず、休みたいときにはいつも休める。
男友達と外でデートすることもできるんです」と、そこの主人はうれしそうに自慢した。
検診は週一回、料金は女と客が部屋で直取引をする。
大きな浴場に案内してくれた。その壁に、見事にズラリと女性の避妊器具がぶら下げてあった。


・・

 

"オンリー"と"ヤミ"の実像


「日本国民が連合軍将兵からタバコやその他の物資を、街頭や駅で買い受けたり交換したりする事件が最近増加している。
ある者はそれらの物資を高価に転売しているとも伝えられる。
連合軍将兵は、連合軍当局からこれらの物資を販売したり、物々交換したりすることを禁ぜられており...」 (昭和20年11月1日「日本国民に対する発表』)


「”オンリー”とは何か? 
特定のGIと住み、料理し、共に寝る日本女性のことである.........」

終戦まもなくのころの話。日本へ向う一隻の輸送船の中で、GIたちがこれから上陸する日本についての情報を交換し合っていた。
「ジャップは信用できない」と拳銃の手入れを怠らない者もいたが、
早耳の連中は、タバコ、石ケン、チューインガムなどが「日本のトビラをあけるカギ」であることを知っている。
中には、船内で使う石ケンは仲間のを拝借して、 自分の分はせっせと貯め込んでいるチャッカリ屋もいた。

それらの話を聞きながら、期待に胸をふくらませていたのが、24歳の軍曹、ハンク・ミューラーである。
場面は変って数日後の東京・新宿の裏長屋。
ハンク軍曹はジープで東京探検に出かけた際、 道に迷ってある日本人娘と顔見知りになった。
きょうはその「お礼」訪問の日である。
サンタクロースのような大荷物をかついで、「コンバンハ」。
いきなり「ヘイ、ユー!」と大声で迎え入れてくれたのが、アキコさんである。
アキコは、実は、新しく進駐して来るアメリカ人が、「相当金になる」とひそかに期待している現実派の日本娘であった。
ハンクはタタミに上り、「アイ・ネーム・アキコ」と彼女が名乗る。
GIが袋から、チョコレートなどの品物を次々と取り出すと、それは魔法のように彼女の心を捕えた。 
接吻、フトンを敷いて、電燈を消し・・・・・・、という順序は、むしろアキコのほうがリードして行われた。 
一週間後、二人は同じ家で、すでに「いつものように」抱き合っている。

・・

ダンカン・ソープ氏(54) 昭和43年12月取材当時が、海軍大尉として日本占領軍に参加したのは昭和25年9月。
戦後5年目で、日米はお互いにすっかり”占領"という事態に慣れっこになっていた、ともいえよう。 
ソープ氏によると、占領軍人の上から下までがせっせとヤミをやり、"オンリー"を囲っていた。
東京でソープは暇だった。
ほとんどの軍人がオン リーを持っている。
将校たちの集まるクラブにも、大っぴらでオンリーさんを腕にブラさげて来るのがならわしとなっていた。
その女たちが欲しがるものは”物資"タバコ、ウイスキー、軍服の生地、クツ下などの代償として、彼女らはいとも簡単にオンリーになった。 
GIたちの求めるものは、むろんセックスだ。
彼らとしては暴力をふるうことなく、彼女らとしては街角に立つことなく、そのお互いの欲求を満たすことができるすばらしい方法が”オンリー"という形なのであった。

「人形のように、ちょっとさわればこわれそうな」 日本女性の魅力に抵抗できるアメリカ男は少なかった。
本国の細君に、「ハニー」とかなんとか手紙を書いている、謹厳な顔の少佐殿なども、けっこうよろしくやっていた。


・・・

 

パッシン先生らが指導して、当時の国立世論研究所がおこなった調査によると、
全回答者の70パーセントが公娼制度(遊郭)の廃止に反対し、
77パーセントが”街の女"の存在をきらっていた。
つまり、売春は必要悪であり、それは一定の場所で秩序正しく行われるべきであるという意向だった。
労働者もサラリーマンも、8割以上が売春の必要を認め、主婦ですら「まあ、仕方がないでしょう」と返事した。
結論として、CIE世論調査班は、
「売春はより合理的な統制のもとで存続させ、転業したい売春婦のためには、よりよい更生施設が必要である」との勧告を総司令官に提出した。
しかし、公娼制度は復活せず、占領終了後の昭和31年に売春防止法が成立して、日本では形式上、すべての売春行為が禁止された。


パッシン先生は、これを「占領政策の失敗の一つ」と考えている。
「日本の社会に対するひどい無理解から来ている。
占領軍の中でこの案を出したのは、最初はGIで、彼らは要するに米軍の道徳だけを考えていた。
自分たちの米兵が交わる相手が、人身売買やドレイ労働をしいられている女性であっては困るということなんだ。
しかし、日本では結婚に際して妻が処女であることが通念であり、
独身の男が女友達と性関係を結ぶことは少ない。
一方、 未亡人や、なんらかの理由で結婚の機会に恵まれない女性にとっては、働く場所としては水商売しかないのだ。
GHQというのは、当時ひどく道徳的な団体だったからねえ・・・・・・」

マッカーサー自身も、占領を「神学の問題である」と考えている道徳家で、早く売春防止法を成立させたいと思っていた。
しかし、それを延び延びにして、結局、占領期間中に法制化しなかったのは、この世論調査班の勧告があったからだ。

・・・

 

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国営の売春施設RAA

2025年03月04日 | マッカーサーの日本

戦争に負けて、占領軍が進駐してくる。
この時に、敗戦国がまっさきに準備したのが占領軍慰安婦。

現代人から見れば性の奴隷とか人柱だが、当時の日本国民はふつうの目で見ている。
戦争中の従軍慰安婦も、・・・それが後世で問題になったとしても・・・当時そのことに疑問を持つ日本人は誰もいなかった。

 

 

 

・・・

 

「昭和二万日の全記録 第七巻」 講談社  平成元年発行  


国営の売春施設RAA

8月18日、内務省警保局長から全国警察に通達が出された。
占領受け入れの具体策として打ち出された「性の防波堤」としての施設づくりである。
警視総監坂信弥が中心となって、関係者を集め協力が要請された。
貸座敷組合、待合組合、料理飲食業組合、芸妓置屋同盟、接待業組合、慰安所連合会、遊技場組合の七つの団体によって、
「特殊 慰安施設協会」(RAA)が設立された。
活動資金3000万円の銀行融資を認めたのは大蔵省主税局長池田勇人である。 
8月27日、東京大森の小町園に最初のRAAが開場した。

8月31日の『朝日新聞』を皮切りに、慰安婦の募集広告が続々と登場した。 
応募した人のなかには、食糧の支給という条件に誘われた人も多く、最初に1.360人が選ばれた。
だが、占領軍兵士の性病罹患率の急激な上昇と、米国本土の世論に押されて、 
21年3月27日、すべてのRAAは閉鎖された。

 

慰安所をオフ・リミットにした性病

RAA施設第一号は、終戦直後の8月27日に東京大森の料亭「小町園」で開業し、以後数は増えて都内だけでも20ヵ所以上、
最盛期には全国で7万人にのぼる女性が従事した。
GIたちがここへ殺到し、一時は非常な繁盛ぶりを見せたが、次第に性病が蔓延するところとなりGHQの頭痛の種にまでなった。
そして21年1月21日、「公娼廃止に関する覚書」がGHQから発せられ、3月27日にはRAAの占領軍用慰安所の21ヵ所が閉鎖された。

しかし日本政府は赤線区域を指定し、事実上の骨抜きで売春は存続させた。 
兵士に対しても自粛の命令がくだされていたが効力はなく、
結局「オフ・リミッツVD」 (venereal disease = 性病)の黄色い標識が立てられるところとなったのである。
公的売春施設RAA慰安所は閉鎖された。
だが、閉鎖時でも全国で55.000人を数えた女性たちのある者は、そのまま赤線に流れたり街の私娼となって、
その日の糧を得ていくことになる。



・・・

「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行

日本の大本営だけではなく、軍組織というものは、すべて自分たちに都合の悪い事実は控え目に発表するものだ。
アメリカのジャーナリズムもまた、「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」という一方的な報道をした。

歩兵師団のマルコム・ジームスン少佐が御殿場に駐屯すると、県の代表だという男がさっそくやって来て、
”何かご用はありませんか。
たとえば慰安所でも・・・・・・ と申し出た。
少佐が断わると、次の日、もう一人の男が来て、きのう来た者より位が高い者だと宣言した上で、
慰安所など、作らせていただけませんか"といった。
ノー"と答える と、翌日さらに偉いのが来た。自分は信じがたい話を聞いた。

 


多くの米兵は、用意された娼婦と寝るのではなく、「チャーミングな日本女性」 とマトモなデートをしたかった。
しかし、〝聖人"マッカーサーの取締りはかなりきびしく、 占領初期は、米兵が夜十一時以降に日本人の家にいることは許されなかった。
そこで占領の 最初の時期、米兵たちのかわきをいやす方策といえば結局、「ジョロウヤ」か強姦しかなかった。
「ジョロウヤへ行くこと自体に、何か屈辱感があった。
行列して、便所のニオイのする部屋にはいる順番を待つことに、とてもイライラしたことを覚えている。
せっかく戦争が終ったのだから、もっと天下晴れて、人生を楽しむ権利があると、私は不満だった」と。

 

・・・

「世相おかやま」 山陽新聞社 平成3年発行

 
進駐軍用にダンスホール

進駐軍に贈る岡山県特殊娯楽施設協会のダンサー応募者はすでに百名以上となり、
県下各地から集まったこれらダンサーは、21日午前10時から、岡山市上伊福、傷痍軍人練習所に集合、4~5日間合宿の予定で、 
ダンス教師の指導のもとに軽やかな足どりでダンス練習を開始した。
女学校出の娘さんや元女給さん、あるいは未亡人など18.19歳から 30歳前後までの美人ダンサー群からなっており、
ここで一生懸命ダンスの初歩を習得した上で、目下改築を急ぎつつある岡山市内の三ダンスホールに配置し、25日から開場する。
なお、これら三娯楽場の名称は、
岡山グレートホール (岡山劇場跡)、キャバレーサクラ (日赤支部事務所)、 バーリヴァーティー (三井物産出張所)と正式に決定、
県内ダンサーのほか、近く阪神方面から移入することになっている100名のダンサーと合流して、
岡山市始まって以来の一大歓楽不夜城が進駐軍を迎え、和(なご)やかに開かれることになった。

昭和20年10月22日

・・・

 

「岡山県の百年」 柴田一・太田健一  山川出版社 1986年発行


戦後の混乱と進駐軍

占領軍の進駐

これまで「鬼畜米英」と敵愾心をあおられてきた県民は、昭和20年8月15日を境に、
これまでの敵軍を占領軍としてむかえることになった。
この占領軍をロざわりのよい「進駐軍」とよんだのは、国民のショックを緩和するための支配層の知恵であったかもしれない。
県下へのアメリカ軍進駐がはじまったのは10月23日であるが、
当時広島にあった中国総監府は中国五県の関係者を集めて、進駐軍の受入れについて指示した。 
中国地方に進駐するのはフィリピンの戦闘に参加したアメリカ軍の約二個師団を中心として約7~8万人の見込みで、
1県平均15.000~16.000人であった。 
そのため、宿舎・食糧・自動車・給水施設・通訳・建築大工を用意する必要があった。

しかし、中国総監府は、ほかに特殊接待婦を各県200人ほど用意しておくよう指示した。
特殊接待婦とは 売春を業とする慰安婦のことである。
これを指示した理由は、「予想される一般日本婦女子に対する進駐軍兵士の暴行を避けるため」であった。
すなわち、一般の婦女子の貞操をまもるための犠牲としてアメリカ軍の前に差しだされたのが、特殊接待婦といわれる女性たちであった。

岡山県はこの指示にしたがって、9月29日県知事安積得也を長とする岡山県進駐軍受入本部を県庁内に設け、
また市町村ならびに関係方面との連絡協議のため岡山地区進駐軍受入連絡委員会を設置した。
また、進駐軍用の特殊接待婦の調達については、岡山県特殊娯楽施設協会が設立され、
一般から募集した100人のダンサーにダンスの講習をおこなうとともに、
阪神方面からも約一100人のダンサーをまねき、
岡山劇場・三井物産岡山出張所・日赤岡山支部の建物の内部を改装してダンスホールとし、
10月256日に開場した。
またこの日、岡山市の東西中島の遊郭では、遊郭の組合が共同経営で東中島に61室・西中島に31室、合計92室を用意して開店した。
進駐軍の先遣隊としてローバー代将以下28人が岡山にはいったのは同年10月12日であり、
当時県庁分館となっていた内山下小学校の校舎を宿舎とした。
ついで、同月23日にはコート代将のひきいるアメリカ軍第十軍団第二十四師団所属の第二十連隊約5000人が進駐した。

・・・

 

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高梁川流域かわのわマーケット(岡山県倉敷市本町・倉敷アイビースクエア)  

2025年03月03日 | 祭を見る

日時・2025年3月1日  (土)  

 

倉敷アイビースクエアで「高梁川流域かわのわマーケット」というイベントがあるので行ってみた。

 

ここでいいう、”高梁川流域”とは、
岡山県の倉敷市を盟主にした7市3町による地域振興活動のことで、広島県の東城は流域だが含まれない。

 

じじばばは、素隠居(すいんきょ)と呼ばれ、阿智神社の秋祭りに出ていたが、
これからは年中、観光大使として倉敷美観地区川筋あたりに現れる感じ

 

 

 

このイベントに来た目的は「下津井節」を生歌で聴くため。
中・四国地方では、民謡を生歌で聴く機会はめったにない。

 

 

 

 

このイベントには「日本遺産」の街からも出展があり、広島県呉市と兵庫県赤穂市の2市。

 

呉市は海軍鎮守府の街、および

王朝ミカンの大崎下島。御手洗港は北前船。

 

 

早島町の「花ござ」。

昭和40年代の末、
突然藺草の栽培が消滅した。

山陽本線に乗ると広島県松永市、岡山県浅口郡~都窪郡。
吉備線に乗ると全区間。
宇野線に乗ると全区間。

車窓風景の田んぼは、藺草だった。
今は面影すらないが、目を閉じればすぐに蘇る。

茶屋町や早島はイ草の加工工場が発達した。

 

 

 

笠岡からは?

笠岡ラーメンに列ができていました。

 

・・・

 

倉敷美観地区。

 

春の天気の土曜日だったが、予想外に観光客が少なかった。

 

 

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「戦略爆撃調査団」自殺攻撃

2025年02月27日 | マッカーサーの日本

日本国内では、今でもトッコータイと呼ばれている”必死”の自爆攻撃、特別攻撃隊。
米国の言う”自殺攻撃”という言葉は、
日本人である我々にとっては、英霊に対してあまりに不躾であり、とても使えない。

しかし、特攻隊を発案し、命令・実行したのは日本人であり、
軍上層部の関係者の正当性を認めることも、とてもでないが、できない。

 

 


・・・

「ジャパニーズ・エア・パワー」 大谷内一夫訳 光人社 1996年発行


パイロット

日本軍は、熟練パイロットの価値を低くみていた。
その結果、飛行機の安全性は性能の犠牲とされた。
連合国軍のような海上に不時着したパイロットを救助するためのシステムは、
まったく計画したこともなければ、開発したこともなかった。

また、パイロットの第一線勤務をローテーションでおこなうことの重要さも考えたことがなかった。 
少数の熟練パイロットよりも、多数のパイロットをつくりだすことに全力をあげた。
このようにパイロットの質を量の犠牲にしたことは、自殺行為であった。

1942年末ころまでに熟練パイロットの大部分がうしなわれてしまったあと、のこったパイロットは充分な訓練をうけていないものばかりであり、
連合国空軍に効果的に対抗するのが不可能となった。
日本での航空機および航空機エンジンの開発は、連合国よりもはるかに遅れていた。
開戦時、日本は少数の高速かつ運動性能の優秀な戦闘機をもっていた。
これらの戦闘機の武装は貧弱であったが、対抗する連合国空軍機は旧式機、あるいは開発途上の戦闘機であり、日本機は全般的に質がまさっていた。
日本空軍はまた、実戦経験をもつ爆撃機や偵察機をもっていた。
しかし、戦争の最初の2年間、日本空軍は主として開戦当時の基本タイプに依存し、あまり機種の改良をおこなわなかった。
 

工場疎開
やがて、連合国軍は飛行機の質で日本を大きくひき離すことになる。 
1943年と1944年初頭、日本は一連の新型機を登場させた。
このころ、日本の航空機工業は急速に拡張しつつあった。
しかし、ほとんど同時に、連合国軍の空襲を回避するための工場疎開が計画された。
拡張と疎開の混乱のなかで、新型機は完成しなかった。
個々の機体の仕上がりの質やテストの質は、日を追って低下した。 
連合国軍機のもつ質的優位との差は、終戦の日まで拡大の一途をたどった。

 

レーダー
日本はまた、レーダーの分野でさらに開発がおくれていた。
レーダーは、連合国空軍の高能率な作戦に寄与した重要なファクターのひとつであった。
一方、日本では高性能レーダー・セットが量産できず、
日本軍は、近代的航空作戦を実施するために要求される整備、補給、施設の規模の大きさについて、まったく認識がなかった。

飛行場
飛行場の建設は粗末なものであり、作戦用飛行場の大部分は小さく、しかも舗装されていなかった。
エンジン交換や大修理のためのデポは数がすくないうえに、分散していた。
デポに送ることができないため、多数の飛行機が見捨てられた。
燃料補給は、通常はドラム缶からポンプをつかっておこなった。
給油トラックがつかわれたのは、 少数の大飛行場だけであった。
部品の大量補給の必要性を日本軍は考えなかった。

 

自殺攻撃と最後の大海戦

1944年夏、マリアナ諸島をうしなったのち、連合軍の進撃を遅らせる手段のひとつとして、
集団自殺的体当たりを大本営は考えはじめた。

1944年10月15日の有馬正文海軍少将、かれは台湾沖のアメリカ空母に自殺攻撃をかけたが、失敗におわった。
彼の死は愛国熱(パトリオティック・フィーバー)のスパークをおこした。
そして、在フィリピン陸海軍航空隊の正規部隊において、自殺部隊の編成がはじまった。
自殺部隊による最初の大規模攻撃は、10月25日の艦隊会戦たけなわのさいにおこなわれた。 
この攻撃は、護送空母一隻撃沈、他の数隻撃破というそうとうな成功をおさめた。
このあと特別自殺部隊は、日本本土にある部隊、主としてパイロット訓練部隊から編成された。 
日本軍がフィリピンから撤退するまでに、自殺攻撃に出撃した飛行機はのべ650機にたっし、
アメリカ水上艦船に174機が、命中あるいはニアミスによる損傷をあたえた。

アメリカ軍がレイテ島に上陸してからの10日間、日本空軍の損失は大きかった。
しかし、11月になると1000機を越える増強があり、上陸軍追いおとしに全力をあげた。
しかし、日本の未熟練パイロットたちにとって、船団をアメリカ機の空襲から守るという任務は重すぎた。

 

ウルシー

日本の自殺部隊があげたもっともめざましい偉業のひとつは、
1945年3月11日、日本海軍の中型爆撃機24機が九州から発進し、ウルシー環礁にあるアメリカ艦隊に攻撃をかけたときにあげられた。
整備不良のため士気が低下し、5機がとちゅうで引きかえした。
計画のまずさもたたって、日没後のウルシーに到着できたのは15機だった。
このうち1機は空母ランドルフに体当たりして、同艦を大破させた。1機は環礁中の島のひとつに墜落した。 
しかし、他の機は目標地域ふきんに到達しなかった。
かくしてこの攻撃は、自殺部隊の絶望的な性格を極端なまでに表示したものだったが、
同時に、日本のパイロット、整備員、航法士、そして作戦計画者の質が、きわめてプアーであることを立証した。

 


沖縄

フィリピンから航空部隊を撤退したのち、大本営は台湾と沖縄への上陸にたいする防衛準備を開始した。 
大本営は、上陸は3月か4月にあるものと推測した。 
この推測にもとづいて、九州の航空兵力の大増強が計画され、海軍の第5航空艦隊は急速に拡充された
第5航空艦隊も、その指揮下の陸軍航空部隊も、主要攻撃兵器として自殺部隊をつかう方針であった。
しかし、未熟練な自殺パイロットたちや、目標をさがすための偵察機には戦闘機の護衛が必要であることも認識していた。
また、オーソドックスな爆撃や雷撃ができる熟練パイロットも、まだ少数がのこっていた。

そこで、自殺攻撃ではなく、オーソドックスな作戦をおこなうためのエリート部隊が、のこっていたベスト・パイロットを結集して編成された。
3月15日から沖縄本島上陸 (4月1日)までの間、
アメリカ第五艦隊は九州に一連の攻撃をかけた。これに対抗したのは、主として前述したエリート部隊であった。
そのうちの1機の急降下爆撃機は、雲のすき間から空母フランクリンにラッキーなヒット1点のスコアをあげた。
他の艦船にもヒットがかぞえられた。
アメリカの主要艦艇が、 日本機によるオーソドックスな航空攻撃によって大打撃をうけたのは、開戦以来はじめてのことであった。

一方、日本側は接近してくる水陸両用部隊に、集団自殺攻撃をかけるため、使用可能な飛行機とパイロットのすべてを九州に集結した。 
数週間前からオーソドックスな訓練はほとんど中止状態になっていた。
教育機関にいた訓練途上のパイロットと彼らの飛行機は、大いそぎで部隊に編成された。

 

集団自殺総攻撃

4月7日、この日、日本軍は36時間にわたる期間に、のべ350機以上の自殺攻撃機を出撃させ、
ほぼ同数機を掩護や偵察、そしてオーソドックスな爆撃に出撃させた。
この結果、すくなくとも25隻の連合軍艦船に自殺攻撃機が命中した。
これ以後、1週間以上にわたり、2日の間隔で9回の集団自殺攻撃を日本軍はおこなった。
どの攻撃も第1回より規模が小さく、しだいに小規模となり、間隔も大きくなった。
集団自殺攻撃の合間は、小規模攻撃で埋められた。
これには、自殺攻撃隊と雷撃および爆撃隊の両方が出撃している。 
沖縄作戦3ヵ月のあいだ、このようなかたちで435回の自殺攻撃がおこなわれた。

このうちの250回は、第5航空軍が定期的に1月中旬以来、主要航空基地を攻撃したのにもかかわらず、台湾から出撃したものだった。
沖縄作戦中、飛行学校をまだ卒業していないパイロットの実戦使用数が増加した。 
出撃あたりの命中率は、フィリピン作戦時よりも低かった。
フィリピン作戦でのパイロットの大部分は、訓練が不十分とはいえ、
すくなくとも飛行学校を卒業し、戦術部隊でいくらかの経験をつんでいたのであった。


自殺攻撃のエスカレーション

フィリピン作戦後にたてられた日本軍の作戦計画は、自殺攻撃をかけ、
連合軍の戦闘機と対空砲火による防御の効果を低下させることだった。
しかし、実際に運用された兵力は、そのような目的を果たせるほどに大規模でなく、集中されてもいなかった。
その理由は三つあった。
第一は、4月1日までに、十分な兵力を九州に配備できなかったこと。
第二は、アメリカ空母機とB29超重爆撃機による攻撃により修理施設を破壊され飛行機の散開をよぎなくされたこと。
第三は、自殺攻撃パイロットたちはあまりにも経験があさく、大編隊の集合を、こころみることすらできなかったことである。

・・・

本土防衛

 全般

待ちうける自殺攻撃部隊
日本軍は6月22日ごろ、沖縄での敗北を認めるようになり、日本本土侵攻にたいする防衛に注意をむけはじめた。
アメリカ軍の上陸がもっとも可能性の高い地域は九州とされ、上陸の時期は当初は8月と予測された。
アメリカ統合参謀本部が実際に計画したオリンピック作戦では、上陸予定日は1945年11月1日に仮決定されていた。

日本側の計画
日本空軍は、沖縄作戦の場合とおなじように、集団自殺攻撃によって本土侵攻を撃退しようと計画した。
しかし、作戦距離が短いことと基地の数がはるかに多いことから、もっと多数の飛行機を出撃させ、短期間に攻撃を集中できると、日本空軍は信じていた。
彼らは、300機から400機の自殺攻撃機の大群が、一時間おきに一波また一波と飛行するありさまを想像した。
そして、自殺攻撃機6000機とそのパイロットを、11月までに実戦配備に間に合わせようと望んだ。

計画の進捗状況
日本軍の諸計画は、終戦時までにかなりの進捗をみせた。
とくに日本海軍は約2700機の小型複葉練習機をそろえ、自殺攻撃用の装備をほどこした。
そして、これらの大部分を、舗装あるいは未舗装の小型飛行場や地下格納庫に散開させた。
陸軍の計画はおくれ気味だったが、約900機の戦闘機と約1750機の高等練習機を自殺攻撃機に改造し、
初等練習機の改造にも 着手したところだった。

 

・・・

成功の可能性

日本は最大の努力をつくした。

まず、連合軍の封鎖線をやぶって燃料を輸送するために、輸送潜水艦と主要艦船をつかった。
つぎには、航空燃料の代替品としてアルコールの使用を増大した。
しかし、南方地域からの補給線が1945年の初頭に阻止されたため、備蓄燃料が消費しつくされるのは、単なる時間の問題となった。

燃料不足の見とおしにより、学校でも他の機関でも、訓練を目的とするパイロットに割りあてられた飛行時間は、短縮をよぎなくされた。
この短縮により、日本空軍が希望をもてる作戦は、自殺攻撃しかないことがいっそう明白になった。
ただし、燃料不足が訓練の制限因子になる以前でも、連合軍パイロットに太刀打ちできなかったのはもちろんのことだった。

鉄道網や道路網もはげしく攻撃され、補給物資を前線飛行場や地上軍へ輸送することは事実上、 不可能になるであろう。
侵攻時には、侵攻軍の上空にはもちろんのこと、日本の主要飛行場の上空にも、たえまなくエア・パトロールがおこなわれるであろう。
自殺攻撃機の命中率は、沖縄作戦ではフィリピン作戦よりも低くなった。
使用されるパイロットの訓練がしだいに粗雑になっていったことを考慮すると、
命中率はさらに低下したと思われる。

・・・

「岡山県の百年」 柴田一・太田健一  山川出版社 1986年発行


たびたび空襲をうけたが、迎撃する戦闘機はみえず、高射砲の音さえ聞こえなかった。
ときの岡山県知事小泉梧郎は、
「岡山市がやられたからといって県全体の戦力から見れば大した影響はない。
われわれは広大な農村をもっているし多くの工場を保持している」と県民をはげましたが、
県民の多くは心のなかで敗戦の日の遠くないことを予知していた。
その県民が敗戦 「終戦の詔勅」を耳にしたのは、最後の空襲から20日後のことであった。 

・・・

 

日本全国の学校が動員された。
近代の20世紀になっても、国策として松から油脂を採取した日本国は、世界史のなかの奇妙な史実となってしまった。

中等学校の高学年は航空機工場へ学徒動員。
中等学校の低学年は松根油。
小学校の高学年は松脂を採取した。

・・・

・・・

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「戦略爆撃調査団」台湾沖航空戦とレイテ戦

2025年02月27日 | マッカーサーの日本

有名な”台湾沖航空戦”。
昭和19年10月12日~21日、大本営は大戦果を発表し、国民は勝利に湧きかえり、天皇から勅語もあった。

その大戦果にともない、フィリピンの戦いは「ルソン島」で守る、
ことから「レイテ島」で米軍殲滅へと戦場場所を作戦変更した。
結果は、殲滅したのは米軍でなく日本軍となった。

戦後になって、台湾沖で戦果はなかったことが発表された。

 

・・・

 

「ジャパニーズ・エア・パワー」 大谷内一夫訳 光人社 1996年発行

 


昭和19年10月、台湾沖航空戦


空母機による予備攻撃

1944年10月中旬、アメリカ空母部隊は琉球、台湾、ルソン島をあいついで攻撃し、
レイテ島上陸作戦の企図を隠蔽した。
空母部隊を支援して、中国からのB29超重爆撃機(複数)が、フィリピン、台湾、日本本土をむすぶフェリー・ルート上にある主要修理デポや航空基地を爆撃して、
日本からの新造機補給の流れを遮断した。

九州の海軍航空部隊は、最初は不意をつかれたが、10月12日に行動を開始し、夜間に魚雷攻撃と急降下爆撃をかけた。
攻撃から帰還したパイロットたちは、正規空母5隻を撃沈と報告した。 
このあと、すべての他の作戦はとりやめとなり、出撃可能機のすべてが、アメリカ艦隊撃滅をめざして出撃した。
10月12日から16日まで、のべ700機が出撃し、連合軍艦船30隻撃沈の大勝利が日本の大衆に発表された。
実際には、1隻も沈没せず、巡洋艦2隻が損傷しただけであった。

一方、日本側はすくなくとも飛行機400機と、そのパイロットを喪失した。
連合軍の標準からみればきわめて未熟といえるが、これらのパイロットたちは、
おそらく日本海軍航空隊にのこっていた最良のパイロットたちだった。
かれらの損失は、海軍航空隊の質をさらに低下させた。


台湾沖航空戦について、大本営は6回発表を出したが、それによる戦果はあまりにも誇大だった。
10月19日18時発表の総合戦果によると、

轟撃沈、
空母11隻、 
戦艦2隻、
巡洋艦3隻、
巡洋艦もしくは駆逐艦1隻となり、
撃沈合計17隻。

撃破したもの
空母8隻、
戦艦2隻、
巡洋艦4隻、
巡洋艦もしくは駆逐艦、
艦種不詳13隻、そのほか大火災を認めたるもの12をくだらずとあり、撃破合計は27隻にたっする。

飛行機については、
撃墜112機〈実際はゼロ)、 

日本側損失312機 (地上での損失をふくむ〉と発表された。
ひさしぶりの大戦果に、10月21日には 勅語も下賜された。
その後、戦果が過大評価されていたことが判明したものの、勅語を大本営は訂正するわけにはいかなかった

・・・

 

 

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「戦略爆撃調査団」 敗戦後間もなく、戦略爆撃調査団がやってきた

2025年02月26日 | マッカーサーの日本

戦略爆撃調査団は軍・民の約1.200人で構成された調査団。
終戦とほぼ同時に、対戦国だった日本国民の上から下までの人々を尋問した。
第二次大戦の戦勝国も、そして敗戦国も、
戦後すぐ、国家としてこういう調査をしたのは米国以外はないと思う。
当時の国際政治では国家のレベルが他の国と比べて、はるかに上をいっている。

・・・

アンコン号

(画像・Wikipedia)

 

・・・

 


「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行

 

敗戦後間もなく、戦略爆撃調査団がやってきた

 

敗戦後間もなく、トルーマン大統領の直属として編成され、戦時日本の内幕の調査にやって来た"隠密機関〟があった。
戦略爆撃調査団と呼ばれた彼らは、日本の政界、軍部の要人たちを次々に喚問し、戦前、戦中の日本の”真相"を問いただした。
呼ばれた中での最重要人物、近衛文麿元首相は、きびしい尋問に強烈な衝撃を受けた・・。 
ここに、今まで極秘とされていた、その尋問報告書の全貌をスクープする。


戦略爆撃調査団とは何か? 

戦争中、
アメリカでB29という航続距離の長い爆撃機が開発され、それを用いての徹底的な戦略爆撃によって、ドイツも日本も、生産力や士気を破壊されて降伏に至った。
そこで、これからは戦争というもののやり方が全く変って来る。
さっそく将来の戦略構想を立てるために、B29による空襲の実際の効果を、その被爆国で具体的に調べてみなければならない。
こうして、大統領直属の機関として生れた戦略爆撃調査団は、まず、その活動をドイツ降伏と同時に欧州で展開した。
「このあとすぐ、われわれは日本へ行かされることになる」
トル ーマン大統領からの手紙が置いてあった。昭和20年8月15日のことである。

日本で行うべき調査の目的はずっとふえていた。
原爆についてだけでなく、
〝真珠湾〟から終戦に至るまでの間に、日本の政治・経済人心などが、どう移り至ったかを詳しく調べ上げるという方針が決められた。


9月17日には、東京・日比谷の明治ビル7.8階を本拠に定めた。
10月2日、優秀な通信設備をそなえた上陸作戦指揮艦アンコン号(9946トン)が、四隻の駆逐艦を従え、
”浮べる司令部"として東京湾に碇泊した。
調査団が名古屋、大阪、広島、長崎などで仕事をする際には、駆逐艦はそれらの都市の沖合で通信の役割を果し、宿泊所にもなった。


10月24日、ドリエ団長がワシントンから東京に着くと、
1.150人の団員(注=民間人300、陸海軍将校350、下士官兵500人)は、
いっせいに「日曜返上の猛烈な仕事」にとりかかった。
「ドリエ以下〝団長室"の人々が、日本の重要人物たちに対する尋問を始めた。.....」

団長室と呼ばれる頭脳センターには、
当時『フォーチュン」誌の編集者だったジョン・ ガルプレイス氏(注=その後ハーバード大学教授、ケネディ政権の駐インド大使)を始め、
都市工学の 権威、商務省民間航空課長、 鉱業会社重役、農務省企画課長などが選抜されて集まっていた。

 

・・・

「ジャパニーズ・エア・パワー」 大谷内一夫訳 光人社 1996年発行


調査団の団員はシビリアン300人、将校350、下士官兵500人で構成された。
軍人のうちの60%は陸軍から、40%は海軍から抽出された。 
陸軍も海軍も、人員、補給品、輸送手段、情報を調査団に提供するにあたってあらゆる援助を惜しまなかった。
調査団は、1945年9月上旬に東京に本部を設置した。
さらに、名古屋、大阪、広島、長崎に 地方本部を設置した。
日本の他の地域、太平洋の島々、およびアジア大陸は、移動チームがカバーした。

戦時中の日本軍の作戦計画と実施の大部分を、交戦のひとつひとつ、会戦のひとつひとつについ 再構成することが可能となった。
日本の経済と軍需生産については、工場ごと、産業ごとに、かなり正確な統計を入手することができた。

また、日本の全般的な戦略計画と日本が戦争に突入した背景、
無条件降伏受諾にいたるまでの国内討議と交渉、
一般市民の健康状態と士気の推移、
日本の民間防衛組織の効率、
原子爆弾の効果
についての研究がおこなわれた。

これらの面については、別々の報告書が作成される。
調査団は、日本の軍部、政府、および産業界の幹部700人以上を尋問した。
また、調査団はおおくの書類を再発見し、翻訳した。 
これらの書類は、調査団に役立っただけでなく、他の研究にも 貴重なデータを提供するであろう。

 

・・・

「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行


「戦略爆撃調査団」
終戦の直前には、64%の人が負けると思っていた


明治ビルでの重要人物たちに対する尋問は、一日当り10人から20人を対象に、能率的に行われた。
一例を(昭和20年)11月26日にとると、
午前9時から陸海軍の将校2人に司法省の役人1人を呼び、9時半からまた別の3人、
10時からは児玉誉士夫氏をふくむ9人を尋問している。
午後1時半から7人・・・島津日赤社長、三井財閥の池田成彬氏、河辺虎四郎陸軍中将などの名前が見られる。
池田成彬氏には、ドリエ団長がじきじきに尋問している。 
尋問の記録はすべてその日のうちに完全な英語でプリントされ、翌朝には、3局15部に分けられた各専門デスクに配布されているといったシステムだ。
調査団の組織は、団長の下に〝団長室"が高級参謀の形で従い、軍事、経済、民事の三局に分れる。
〝編集局〟が大きな部分を占めている。
編集局は、編集部、原稿作成部、写真部などに分れ、ちょっとした新聞社並みの機能を持っていた。

 

民事局の一つ、"士気"調査部は、200人の大所帯だった。
爆撃が、日本国民の戦闘意欲にどんな影響を与えたか。
その変遷を津々浦々の庶民のレベルについて調べ上げようという、心理調査活動である。
部長のB・フィッシャー教授以下、人類学者、コロム ビア大学の学生などで編成されたこの部の調査員たちは、
各地方に分散するのに先立って、 1日あたり40人の面接に耐える体力、調査技術などの特訓を受けた。
そのうちの一班10名は、10月25日から25日間の予定で秋田県の片田舎にはいった。
 
持物はガソリンをドラム罐五つ、毛布、タイプライター、食糧、石ケンなど。
すべてジープに積んで出かける。
万一の用心に、ピストルと弾薬も携行した。
なるべく占領軍の駐とんしていない地方を選んで、普通の日本の旅館に泊り、日本人とジカに接触する努力から始める。 
そして標本抽出、名簿作り。
インタビューは1人2時間、ジープで旅館に連れて来て、帰りも送る。
どうしたら、西洋人など見たこともない日本の地方人からリラックスしたナマの話を聞くことができるか・・・。

すべての面接記録はその場でマイクロフィルムに収め、10人に1人は、声を録音盤にとった。
すぐに輸送係が東京へ運ぶ。
そうすると東京ではフィッシャー教授以下が待ち受けていて、ただちに集計分類、分析をして、ワシントンへ送る。
今ならさしずめコンピューターがやるような作業を、人の手と、そして組織の力でやったわけだ。
全国縦断で3.500人が 面接対象となった。
標本の数は多くないが、その密度の濃さで、かなりの統計学的価値はあったという。


その心理調査の結論として出された、戦時日本の”最大の強味”は「ヤマトダマシイ」。 
天皇と祖国のためなら、生命をふくむ犠牲を惜しまぬ精神である。
そして”弱点”は、物質的な乏しさにあった。


開戦時の国民の反応は、不安と希望が混然としたものであった。
対中国十年の戦争に疲れていた反面、真珠湾奇襲、シンガポール陥落など、緒戦の勝利に楽観した。
日本軍の後退が始まってからも、サイパン陥落までは、まだ「最後には勝てる」自信があり、
栄養不足、インフレに耐えた。
しかし、昭和19年7月、サイパンが落ちると、インテリ層がまず「敗けるだろう」と感じ出し、
それは国民の2パーセントに達した。
19年12月には10パーセントが「敗け」、
20年3月、夜間空襲が始まると19パーセント、
6月には46パーセント 
終戦直前には64パーセントがそう思っていた――という。

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玉音放送を聴いて、皇居外苑で「陛下に申し訳ない」と泣き崩れる写真は、どの程度信憑性があるのだろう?
茫然自失とか、そういう人は多くいたとは思うが、
終戦によって頭を垂れた人は、終戦によって踊った人よりも少ないと思える。

昭和20年8月15日の外苑の写真は史書には不適切と思う。

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かくて、「マッカーサーの舞台」すなわち、敗戦日本に登場したインテリ忍者集団は、
終戦の年の12月5日までに現地でのすべての仕事を終えてサッと引揚げ、故国でクリスマスを楽しんだ。

極東裁判の始まったころ(21年5月)には、
日本の開戦、作戦展開、終戦のいきさつについては、とっくにその全貌を分析しつくしていたというわけである。
すばやい展開であった。
副団長のポール・ニッツ氏自身が当時、「調査団の作業は迅速で、急所をバッシパシッと押えて行った」と、いささか自讃的に演説している。


戦略爆撃調査団は、その報告書の結論として、「将来の米国戦略への勧告」を次のようにまとめた(昭和21年7月)。

「日本は、われわれの弱点を正確に知っていたから、攻撃をしかけて来た。
もし、目につくような弱点がなかったら、真珠湾攻撃は行われなかっただろう。
またアメリカが、日頃から、万一攻撃されたら力いっぱいやり返すのだぞ、という戦意を見せていたら、
日本人は攻撃しかけて来なかっただろう。
戦争防止のためには、"力"を持つことを無視してはいけない。 
かといって軍事力だけに頼るのもよくない。
軍備拡張競争は、相互不信を増すばかりだ。
要は外交、国内政策と軍事政策の統合、そういった政府組織が必要となろう。
命令系統の統一明確さ、トップの決断力、文官支配の確立が重要である。
国連による安全保障を、将来の方向として考えるべきである......」
文官支配、国連による安全保障など、22年前の結論としては、かなり進歩的な意見といえよう。

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コメント
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