しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

摩利支天大祭  (岡山県井原市西江原町賀山)

2025年01月03日 | 祭を見る

賀山の摩利支天大祭。

 

 

最大の特徴は、   

 

投げて投げて投げまくる。

拾って拾って拾いまくる。

 

 

戦時中は”神州不滅”の武の神様として隆盛を極め、

戦後は福まきで近隣住民の平穏な幸せを招く行事で信仰が衰えない。

 

 

静かな山村で、これほどの福を招く行事は珍しい。

 

 

見た日・2025年1月3日

 

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岡山後楽園初春祭  (岡山県岡山市北区後楽園・岡山後楽園)

2025年01月03日 | 祭を見る

岡山城から後楽園に行く。
後楽園も元旦無料デー。


園内は筝曲が流れお正月らしい雰囲気。

 

正月風景と言えば”鶴と亀”。
後楽園には鶴も亀もいる。

 

今日は鶴が放鳥されて空を飛ぶ。

 

 

自由に空を飛べない飼育の鶴なので、低空飛行しかできないし、飛ぶ時間も短い。
それでも飛ぶ姿は美しい。
日本人の元旦風景に欠かせない。

 

 


鶴を見ようとする人の数は多いが、
かんじんの鶴は人が望んでも、なかなか飛んではくれない。

飛ぶか飛ばないかわからない鶴をじっと待つのは忍耐が必要。

 

見た日・2025年1月1日

 

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烏城初夢まつり  (岡山県岡山市北区丸の内・岡山城跡)

2025年01月03日 | 祭を見る

山陽新聞に12月連日、元旦の岡山城と後楽園のイベントが載っていたので
それにのせられうように元旦は雑煮を食べて家を出て、岡山に向かった。

 

初めに岡山城へ行く。


岡山城では本丸の天守閣前で「少年剣士による初稽古披露」。

 

 

 

本丸・下の段では「烏城DE凧揚げ」。
快晴で、風なし。
凧は揚がらず。

子どもの手前、凧糸をもって必死に突っ走る父親の姿が見ていて楽しかった。

 

 

 

岡山城天守閣は元旦無料デー。

2022年、磯田道史先生の監修でできた新展示。
おもしろくお勉強ができた。

 

 

見た日・2025年1月1日

 

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リビングふくやま

2024年12月29日 | 無くなったもの

場所・広島県東部、岡山県西部  
最終日・2024年12月27日(休刊)
撮影日・2024年12月27日

 


たぶん、広島県福山市、府中市と、岡山県井原市、笠岡市、
4市の各戸に無料で配達されているのが”リビングふくやま”。

(長女が住む倉敷には「リビングくらしき」がおいてあったので、
広島に行けば「リビングひろしま」、岡山には「リビングおかやま」があるのかも知れない)

 


この”りびんぐふくやま”は、割と便利な情報が多くて、
配布の度にイベントや、買い物や、公園や、いろんな記事を広告も含めて楽しみに見ていた。


今回、いつものように郵便受けから取り出すと「休刊」の文字が眼にはいった。
今回の配布で休刊になるそうだ。

 


長い間、地域の情報ありがとうございました。

 

コメント (2)
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かくて天皇は無罪になった

2024年12月28日 | マッカーサーの日本

御前会議で終戦を決意表明した天皇は、自己の戦争責任も覚悟していた。
天皇はその身分を戦勝国に託した。
戦勝国にはさまざまな意見があったが、
占領軍は統治上、天皇制の継続を望んだ。

 

・・・

「文藝春秋にみる昭和史」  文藝春秋編  文藝春秋 1988年発行

昭和23年
かくて天皇は無罪になった

 

田中隆吉陸軍少将

京裁判における当初の最大の焦点は、天皇に戦争責任ありや否やであった。
ソ連、フランス、オーストラリヤ、オランダなどの諸国は天皇有罪を主張していた。
結果は天皇は訴追されることなく無罪とされた。
当時、陸軍少将、兵務局長として戦犯になってもおかしくない身でありながら、
検事側証人として法廷で、つぎつぎに陸軍を誹謗する爆弾発言をなした人が明かすその内幕。
しかし売国奴、卑劣漢としていまなお旧陸軍軍人のなかにはこの人を許していないものが多い。

 

・・・

 

それは昭和21年の2月初旬のことであったと思う。 
それが何日であったかはっきりしないが、私にはそのときの情景をいまでもはっきり想い出すことができる。
「自分の訊問に対して真実を述べないと、巣鴨に送って、 絞首刑にする」
明治ビルにある極東国際軍事裁判の検察団事務所に出頭した私にむかって、アメリカのヘルム検事は開口一番こう言って脅した。

ウェッブ裁判長の母国オーストラリヤをはじめ、ソ連、オランダ等は、天皇の有罪を主張していたのである。
「もし天皇が有罪になられたら、日本は亡国となる。日本は民の国であり、天皇の国である。即ち君民一体の国である」
これが私の日本に対する信念であった。
建国以来、日本人はこの尊厳無比の国体を護持するために、多数の日本人の鮮血を流してきた。

私は死を賭し 天皇を無罪にするため、軍部の行動について、知る限りの真実を証言しようと決心したのである。
マッカーサー元帥と天皇陛下との会見の模様は、私が松平康昌式部長官から直接きいたところによれば、次の如くであった。
その日、天皇は第一相互ビルの総司令部にモーニング姿で訪問されたが、マ元帥は出迎えなかった。 
天皇陛下がマ元帥に会見を申しこまれた時、マ元帥は来訪されてもかまわないが、出迎えも送りもしないとの返事であった。
天皇陛下がマ元帥の室に入ると、元帥は軍服姿で傲慢な態度で相対した。

面会と同時に切々たる御言葉で、前述の如く、
「ポツダム宣言によると、日本人は戦犯として裁判されるとのことであるが、
彼らはことごとく自分の命令で戦争に従事した者であるから、この人達を釈放して自分を処刑してもらいたい」
と仰せられた。
この神の如き態度に、マ元帥は感激した。 
そして、それまで、天皇を「ユー」と呼んでいたが、直ちに「ユアー・ マジェスティ」(陛下)と改めて尊敬をこめて呼んだ。  
さらに、会見の終了した時には、天皇陛下を玄関に御見送りしたとのことである。


かくして、マ元帥はキーナン首席検事に天皇を出廷させるなと指示したのであった。
もしこの指示がなかったなら、ウェッブ裁判長は有罪論者であったのだから、恐らく天皇陛下は裁判に付せられ有罪となられたであろう。
まことに、マ元帥との会見においての神の如き天皇陛下の態度が、天皇陛下の無罪となられた最大の理由であった。 
天皇を無罪にするために私は、私の恩人板垣大将、また知人であり先輩である土肥原大将等に対して不利な証言も行った。
日本側の弁護人は、私の証言の価値を減殺しようと、あらゆる妨害を行ったが無駄であった。
私の極力攻撃した人は、大東亜戦争の前後にわたり、ライバルとして相争った軍務局長、武藤章氏であった。
その理由は、大東亜戦争の開始には、東條首相より武藤の方が 積極的であった事を、私は知っていたからである。

私が弁護側にたって弁護した人は、 東條陸相の次官として、ほとんど権力のなかった木村大将と、
武藤軍務局長のために陸軍大臣の職を無理に去らしめられた、私の上官、畑元帥、
および、東條内閣打倒のために共に行動した東郷外相、
私と親しく、大東亜戦争に反対であった梅津大将であった。

天皇有罪の最大の危機は、昭和22年12月31日、大晦日に起った。
それは東條被告に対する訊問中のことであった。
木戸被告の弁護人ローガン氏が、東條被告にたずねた。
「天皇が平和を御希望しているのに反して、木戸は行動したり進言したことがあるか」
東條被告は答えた。
「そういうことはない。
日本国の臣民が陛下の御意思に反して、あれこれすることはあり得ない。
いわんや日本の文官においておや」

この東條被告の答えは、換言すれば、すべての日本の行動は、天皇の御意思にもとづいて行われたことを示すものである。
来日中の外国新聞記者は即刻打電したのであった。 
「貴方はすぐに東條に面会して、この答弁を取り消してもら いたい」
そこで私は二日に裁判所におもむき、東條被告に面会し その旨を申し入れた。

2月7日、東條被告の訊問を終了すると、キーナン検事はマッカーサー元帥に、裁判の状況を報告した。
すると、元帥は非常に喜んで述べた。
「米国の占領政策は天皇を中心として進めることにする」 そして、この日天皇の無罪を最終的に決定したのである。


昭和22年10月、キーナン首席検事が日本における平和主義者として、
若槻礼次郎、米内光政、岡田啓介、宇垣一成の四氏を小石川のキーナン私邸に招待したことがある。 
その席上、キーナン検事は天皇無罪決定を述べた。
これをきいて若槻氏は、
「自分は今年83歳になるが、天皇陛下が無罪になられたので何時死んでも良い」
といって落涙した。 
岡田、宇垣の両氏も同じく泣いてこの事を喜んだのである。

昭和23年1月15日、田島侍従長より一夕の招待を受けて御馳走になった。 
その席上、田島侍従長は私共にたずねた。
「もし天皇陛下が有罪となられたら、あなたは一体どうするつもりか」
松平式部長官は答えた。
「私は青酸カリを準備していたから、それで死ぬつもりであった」
私は、「軍人であるから切腹して果てたであろう」
と述べた。

松平式部長官の話によると、天皇は裁判に関して、新聞の報道により、私に対して不快の感情を抱かれておられたとのことであった。
松平氏が実情を奏上したところ、「それは結構であった」と仰せられたとのことであった。
私は軍人として、偶然の機会から、天皇陛下の有罪か無罪かの問題に関与して、
いささかではあるが、その無罪判決に貢献しえた事をもって、私の無上の誇りとしている次第である。

しかし、天皇の無罪になられたのは、あくまでも天皇の神の如き性格によるものであることはもちろんである。
この裁判で私の証言により罪の重くなった人があれば、その人に対して心からお詫びを申し上げたい。

(40・8)

 

・・・

「マッカーサーの日本(上)」① 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行


成功のカギ「天皇を利用すること」

 

「間違いのない占領・・・、 その方法は単純だ、日本人にやらせることだ」
日本人にやらせる、という元帥のその時の構想の中に、天皇制の存続とか利用といった意味が含まれているかどうか、
それはフェラーズ氏には分らなかったが、ともかく、
機中のパターン・ボーイズ (注=ホイットニー少将やウィロビー少将など、元帥と長年運命をともにした将軍たち)の中で、
自他ともに随一の”日本通〟と認めていたのが高級副官のフェラーズ准将なのであった。
副官フェラーズは、生粋の軍人である。


天皇とマッカーサーとの最初の会見 (20年9月27日)のことを、フェラーズ副官は淡々とこう回想する。
「最初、外務省の萩原(徹氏)が私のところへ来て、"天皇が元帥に会いたがっている"というので元帥に取り次いだところ、
”よかろう、会おう"という。
元帥の考えで、人目につく第一相互ビルは避けて、赤坂のアメリカ大使館を会見場所にした。
その日、大使館は完全に一般の出入りを禁止にしておき、天皇の到着に際し、私は副官として玄関まで出迎え挙手の礼をした。
車を降りた天皇は手を出して私に握手を求めた。
天皇は落着きがなく、神経質に見えた。

マッカーサーの部屋に案内すれば自分の用は済んだのだが、私は天皇の心中を察した。
そのころ、東条ら戦犯の逮捕(9月11日) が始まっていたし、
元帥を訪れて来た近衛(9月13初訪問)から、天皇が終戦のためにいかに骨を折ったかも聞いていた」
フェラーズ准将の目には、今の天皇は「宮殿に閉じ込められた幽閉者で、孤立無援の男」と映った。
「ドイツで(連合軍が)やったのと同じことを日本でやられたんじゃあ、困る。
天皇はヒトラーとは違うんだ・・」


戦線を転々としていたフェラーズ准将は知らなかったが、
「ワシントンの連中」は、とっくに「天皇には触れない」方針を打ち出していた。 
ジョセフ・グルー元駐日大使を中心に、
「天皇は日本における唯一の安定勢力であり、
米国が日本を降伏させて占領する際に、最も有効で損害の少ない手段は天皇を利用すること」
という主張が、国務省内で昭和18年夏ごろから討議されており、
途中でオーエン・ラチモア(当時、戦時情報局極東作戦部次長) 中国派”の反論
(注 天皇制廃止論や、皇族男子を中国へ連行する意見)もあったが、 
終戦の年の5月には、国務省、陸海軍、大統領(トルーマン)も、
「天皇制を廃止しないで利用する無条件降伏案」いうならば”条件つき降伏〟に賛成していた。
ポツダム宣言にも天皇をどうこうしようと書いた条項がないことは周知のとおりだ。
しかし、本国のお役人と、”野戦〟の軍人の感覚はいつも一致しない。
GHQの軍人の中にも「ヒロヒトを裁判にかけろ」という者が少なからずいた。
その連中は、フェラーズ氏にいわせると、「何しろ日本を知らないから」そういうことをいうのであった。

 

・・・


天皇を政府の役人と同じレベルで見ることは不敬である。
もし彼を戦犯とすれば、
それは日本人にとって神を汚されたことであるのみならず、
精神の自由の否定となる。

開戦の詔勅は確かに天皇の責任において発せられた。
しかし最も信頼すべきソースによれば、戦争は天皇自身が起したのではなく、
東条が天皇を利用したのだ。
もし日本人が機会を与えられて、元首を選ぶとしたら、彼らは再び天皇を選ぶであろう。 
終戦の詔勅で国民に語りかけた時、いままでになく国民は天皇を近いものと感じた。
天皇が一人の人間として語る際、国民は天皇があやつり人形でないことを知った。
国民は天皇制の存続が決してリベラルな政府のジャマになるものとは感じなかった。
われわれの無血上陸の裏には、天皇の力があずかっていた。
彼の命令で7.000万人が武器を捨てた。
武装解除はすみやかに行われた。
この天皇の力によって、何十万人のアメリカ人の命が救われた。
そして、戦争はスケジュールよりもはるかに早く終了した。
このゆえに、かく天皇を利用しながらかつ彼を戦犯とすることは、日本人の信用を裏切ることになる。
日本人はポツダム宣言でいう無条件降伏が、
天皇を含む国家の機構が存続するものだと信じている。


もし天皇が裁判にかけられれば、政治の支配機構は崩れ去る。
国民の蜂起は必至であろう。
国民はふたたび戦い、たとえ武装は解除されていても、混乱と流血は避け得られないところだ。
長い目で見たアメリカの国益という立場からすれば、東洋との関係は相互理解と尊敬にもとづくものでなくてはならない。
(中略)これは、アメリカにとって、至上の必要な事柄である」
学者や外交官の論文ではない、軍人の文章である。
論理的というよりは、有無をいわせない気を持って綴られている。
これが、おそらくマッカーサーの気に入ったのだろう。
「皇室のことで問題があるたびに、元帥はこれを引出しから出して何回も読んでいた」(フェラーズ)


そのころすでに、GHQは天皇に”手をつけない"ハラを決めていた。
進駐前の8月29日にワシントンがマッカーサーに与えた指令(注=「降伏後における米国の初期の対日方針」に
「天皇を含む日本政府機関及諸機関を通してその権力を行使すべし」と
〝天皇を生かし利用する”ことはハッキリしていたし、
また11月3日になって米統合参謀本部が出したさらにくわしい「基本的指令」の中にも、
「貴下はあらかじめ統合参謀本部と協議なく、また当部から発せられた勧告なくしては、
天皇を退位せしめたり、あるいは退位せしめるような措置を講じてはならない」と命じていた。


しかし、むろんこのようなアメリカ側の手の内"を日本人は知るよしもない。
天皇退位説、
戦犯説、
あるいは天皇制そのものを廃止するといった論議は、
国の内外でやかましく繰り返されていた。
現に、"人間宣言〟が掲載された元旦の朝日新聞の解説記事も、
「もはや旧来の天皇制度は倒壊せざるを得ない」と書いている。


・・・

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「私はその点については門外漢だ」

2024年12月27日 | マッカーサーの日本

昭和20年8月17日、東久邇宮首相は「一億総懺悔」を声明した。
その言葉を借りれば、
開戦も終戦敗戦も,一億国民の上から下まですべて人が、「一億総門外漢」だったことになる。
いったい対米戦争はなんだったのだ。

 

・・・


・・・


「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行

「戦略爆撃調査団」⑥東久邇

皇族であり、また大戦中、最高戦争指導会議に名をつらねて、軍の要職にあり、
しかも終戦直後の首相として政局を担当した東久邇宮稔彦王。
この重要人物の喚問に際して、
戦略爆撃調査団が、より核心に触れる答えを期待したとしても無理はない。
だが、ここでも、 調査団はアイマイな返答に困惑した。

昭和20年11月14日。
場所は、皇族の身分を配慮してか、東久邇邸へ調査団のほうから参上した。 
調査団は、初め、日本の戦時経済と軍の戦略について質問したが、これは、どうやらお門違いだったようだ。
答えは、「私はその点については門外漢だ」の一点張り。
そこで調査団 終戦工作〟に話題を変える。


東久邇「私は戦争中、防衛総司令官であり、マリアナが日本から奪われ、B29がやって来ると聞いた時、
戦争は負けそうになったと思った。
米国でB29が製造されていることは、外電から情報を得ていた。
それが1万3千メートルの高空を時速6百キロで飛ぶことは知っていた。
日本には、このような兵器に対抗して使用できるものは、何もなかった。
防衛総司令官の観点から、私は戦争は負けだと思い、当時、そう話した。
その時私は、日本で1万3千メートルの高空を飛べる飛行機を作れるかと尋ねてみたが、できない、ということだった。
それで私は 戦争は日本の負けだと確信した。
B29が日本へ来るようになれば、何もできない、と思った」

 


「その事実を知らせるために、あなたには、どういう方法が可能だったか」
東久邇
「私には、この見解を公表することはできなかった」


「その後、1944年(昭和19年)に小磯内閣が成立してから、政府の要人の間で、日本を戦争から救い出すために何かしなければならないという会談が、非公式、個人的に始まったと聞いているが」
東久邇
「私は皇族なので、その当時は、見解を公に表明することはできなかったが、親しい友人には、茶飲み話ですべてがダメだという見解を話した」


「近衛公やその他の人々との会談で、和平にはどんな方法が必要だと考えたか」
東久邇
「私には、たとえ米国に直接和平を申し入れても、受けないことはわかっていた。 
それで、私の考えでは、まず重慶 (蒋介石政権)との和平を実現し、彼らを通じて米国との 和平を達成するというものだった」

 

当時の日本で、和平を求める具体策としては、ソ連を仲介にアメリカとの交渉の道を開こうという考え方があった。
しかし、蒋介石を仲に立てて、対米交渉を始めようというのは、考えてみれば、奇妙な論理であった。
なぜなら、
対中国との戦争を打開するために、日本軍部がさらに戦火を拡大して太平洋戦争となったその、いわば火元の相手とまず交渉しようというのである。

調査団は、やんわりとこの点を突く。


「ところで、アメリカが直接の申出を受けても和平を承知しないと、なぜ宮は考えたのか」
東久邇
「真珠湾のせいで、諸君がカンカンに怒っていると聞いたからだ」


「そのころ、宮はどんな和平を考えたのか」
東久邇
「日本は負けてしまったのだから、戦争前の状態に戻す、というものだった」


「では、宮は、中国のほうがアメリカより怒っていないと、いかなる根拠のもとに考えたのか」 
東久邇
「いや、シナがアメリカより怒っていない、という問題ではなく、われわれは隣人だから、まずシナと交渉するほうがよいと思ったのだ」


・・・

 

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問「で、何をしたのか」 木戸「見解を表明しただけで、何もしなかった」

2024年12月27日 | マッカーサーの日本

問題が起きた時、「何も知らなかった」「知ってはいたが何もしなかった」
と令和の今も、新聞やテレビでいつものように見る。
人間は自分がいちばんかわいいのはわかるが、
いざという時に逃げることしか考えないのは、(残念ながら)近代日本の国民性かもしれない。
しかし、指導者と呼ばれる人が、その見本になるようでは、日本の未来は暗い。


・・・

(Wikipedia)

木戸 幸一
1889年~1977年は、日本の官僚、政治家。
侯爵。
昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。
敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。

 

・・・

「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行


「戦略爆撃調査団」⑤

木戸幸一内府の日記にはこう記されている。
「11月10日(土)晴
11時、戦略爆撃調査団のワイルヅ中佐来訪、調査の目的等につき話ありたり。 
団長ドーリエ氏、 ニッツェ 主任等と会談、5時迄約3時間に亘り、
主として終戦時の状況、意見、及び戦争全体の観察見透等につき質問に応じ話す。



「サイパン陥落 (昭和19年7月)以後の戦争の展開について、あなたはどう予測したか。
戦争を続けられそうだったのか。
それ以後の戦局の進展について、あなたはどの程度、見通していたのか」

木戸
「サイパンが陥落し、B29の日本空襲が始まると、日本の戦略ではそれに対処できないことが明らかになった。
大都市ばかりでなく、中小都市の産業が破壊され、軍需品生産の能力を奪われたからだ。
それにもうひとつ、連合軍による日本本土上陸が万一行われたら、という懸念も私にはあった。
さらに、日本の都市に加えられる破壊のために、国内の一般国民の士気が失われてしまうことも、私は非常に心配したのだ」


「一般国民の士気が失われてしまえば、その結果どうなっていただろうか」
木戸
「この質問について、私の想像を述べるのは、いささかむずかしい。 
一般国民が士気を失えば、日本が戦争を継続するのは不可能になっていただろう。
国民の間に、和平への動き、もしくは反戦運動が起っていただろうことは、想像にかたくない。
ただし私は、こうした運動が、それほど早くから起るとは思っていなかった」


 「"それほど早く"とは?」
木戸
「前に述べたことを繰り返すが、私は実際に反戦運動が発展すると予期していたわけではない。
むしろ、都市が破壊され、そのために生じる家屋の損失、損害の増加、それに食糧不足などから、
きわめて扱いにくい緊張状況が発生するだろうと考えていたのだ」


「サイパンが陥落した時、戦争完遂を考え直すという点で、あなたと同じように考えていたグループは、どういう人たちか」
木戸
「一般的にいって、クラブに集まっていた日本のいわゆる自由主義者、貴族院と衆議院のかなりの議員、それに、いわゆる元老たちのほとんどが、
なんとかしなければならないという意見だった」


「で、何をしたのか」
木戸
「意見や見解を表明しただけで、何もしなかった」


 「なぜ、何もしなかったのか」
木戸
「その答えは、私にもわからない。
私や他の者は、何かがなされるように願っていたが、何も現われなかった」

 

戦争に勝目がない、という認識が政界要人のなかに広がってから、なお1年も戦争が続いた。
その間、日本の政治を預かる人たちは、何もしなかった----

現実主義の国アメリカからやって来た調査団にとっては、いかに日本についての専門家だったとしても、これは不可思議な現象だった。

同じことは、開戦についてもいえた。
開戦直前まで首相をしていた近衛公が、「私は開戦に反対だった」と答えた時、調査団は「そんなはずはない」と、執拗に質問を繰り返した。 
だが、このような答え方をしたのは、近衛公だけではない。
調査団に喚問された、他の首相クラスの要人のほとんどが、同じように「開戦に反対だった」と答えたのである。
では、なぜ、戦争は起ったのか――。

 

調査団は、ここで、戦前・戦中を通じての日本の軍部、特に陸軍の権力がいかに強大なものであったかということを、改めて思い知らされる。

木戸内府との問答を続けよう。

 


「何もしなかったという点については陸軍の態度がおもな原因だったのか」
木戸
「おっしゃるとおり、陸軍がおもな原因だった。それに、(陸軍は)監視網を広げて憲兵を強化し、反戦的な意見の表明を抑圧したのだ」


「その時、天皇の終戦の詔勅が出ていたとしたら、陸軍にはそれに従う忠誠心があっただろうか」
木戸
「ドイツの降伏(注=昭和20年5月)以前に陛下が和平の勅命をお出しになっていれば、クーデターの危険があった。
そのとき陛下が詔勅をお出しになったとして、どんなことになったか、私には判断することがむずかしい。
実際のところ、そういった機運、もしくはフンイキは、一般の政治家のあいだにさえ、十分に広がっていなかったのだ」


「どんなことが起れば、陸軍は和平の詔勅に従う気になっただろうか」
木戸
「陸海軍の指導者たちが、そうするよりほかはないという見解に達しなければダメだったと思う。
だが、少なくとも、ドイツの降伏以前には、陸海軍にそうした兆候は見られなかった」


「では、それ以後、フィリピンでの負け戦さのころはどうだったのか」
木戸
「フィリピンでの戦いのとき、それはまだハッキリしていなかった。当時は、沖縄でなんとかなるだろうというのが、一般の考えだった」


なお、前出のワイルズ元海軍中佐は、木戸侯爵についても、一つの思い出を持っている。 
「木戸侯がひとつだけ、大へん心配していることがあった。
それは、天皇がわれわれ調査団に尋問されるのではないか、ということだった。
実際のところ、天皇を尋問するかどうかは、われわれ戦略爆撃調査団の会議の議題になったのである。
しかし、その結果、すでに多くの天皇側近や政治家から尋問ができていたので、改めて天皇に会う必要はない、という結論だった」


当時、調査団はこういう考え方をした天皇に会って聞いてみても、それはちょうど、 
海水をすくって調べてみて、塩分が含まれているのを確認するようなものである。

 

・・・

幕末から明治にかけての指導者は、西洋諸国を非常に恐れた。
日本は文明が低開発国家であることを自覚していたから。
今も全国に残る”お台場”、西日本に多く残る”要塞”の遺構は西洋国家への恐怖が強く感じられる。

ところが、
昭和の指導者は国を護る意識がなく、攻守のうち、”攻”しかなかった。
さらに、開戦には「勝てない」「反対していた」のオンパレード。
アメリカから来た調査団は、不思議がり、あきれて、どうしても日本指導者層を理解できなかっただろう。

・・・

 

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石見神楽「八岐大蛇」 (岡山県笠岡市用之江・城見小学校)

2024年12月18日 | 祭を見る


神楽で欠かせない演目「八岐大蛇」。

明日は大蛇に食べられてしまう、と悲嘆にくれる姫と、その老親。

 

そこへ須佐之男命(すさのおのみこと)があわられ、
「姫をくれるなら」大蛇を退治してやると条件を出す。

 

 

酒を大蛇に呑ませ、身体を不自由にしてから大蛇を退治する。

 

 

八岐大蛇(やまたのおろち)は頭が八つある。
八人の若者が演じる。
何種類ものとぐろを巻く。
これが石見神楽最大の見もの。

 


見た日・2024年12月15日

 

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石見神楽「土蜘蛛」  (岡山県笠岡市用之江・城見小学校)

2024年12月17日 | 祭を見る

スキー場で有名な広島県山県郡北広島町から、管理人の母校へ神楽団がやってきた。

 

 

石見神楽は、石見(島根県)と芸北(広島県)の伝統芸能。岡山県の備中神楽と、庶民娯楽の芸能という共通点は感じるが、別物という点も感じる。

 

 

舞台や演出が派手なのが石見神楽。


それと、今日の演目である「土蜘蛛」は備中神楽では演じられない。
”土蜘蛛”は歌舞伎や能だと思っていたが、神楽で見ることができた。

 

 

「土蜘蛛」(つちぐも)は、
源頼光を亡き者にしようとする妖怪(土蜘蛛)を、四天王が退治するお話。

途中、妖怪が投げる白い蜘蛛の糸が見どころ。

 

見た日・2024年12月15日

 

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「もし戦争が始まったら、日本の勝味はないと見ていた」

2024年12月08日 | マッカーサーの日本

雑誌社と新聞社が競うように週刊誌を発行し、その週刊誌の文化が絶頂期の頃
週刊新潮に「マッカーサーの日本」という記事が毎週掲載された。

その連続ものが掲載中、自分の今までの人生で唯一、週刊誌を毎週購入した。
おもしろい記事だった。
それを何ヶ所か当ブログに記事にして残そうと思う。

 


・・・


「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行


「戦略爆撃調査団」④ 
 

質問者は調査団の中でも最も切れ者の、副団長ポール・ニッツ氏になる。


ニッツ
「陸軍は戦争終結のためにどんな計画を持っていたのか」
近衛
「陸軍の指導者が持っていたプランはただひとつ、あくまで戦い抜くということだ。
だから、もし天皇の決断がなかったら、われわれはいまだに戦っていたであろう」

ニッツ
「私の質問は1941年(昭和16年)の秋、陸軍はいかなる方法をもって戦いを終らせようと思っていたのか、ということだ」
近衛
「私はそのようなことは聞いたことはない。事実、そんなプランは何もなかったと思う」

ニッツ
「ではあなたの意見だと、陸軍は何ら戦争終結の見込みのないままに戦争に突入したことになる。
終りなき戦いを挑んだというわけか」
近衛
「局外者として見ていると、結論として陸軍は、何ら終結の具体案を持っていなかった、ということになる」

ニッツ
「われわれは、戦争を企てた諸君は非常に有能な人々だと考えている。 
プリンス近衛、われわれは彼らが終結の構想をまったく持たずに戦争を始めたとは思わない。
私はあなたの発言に納得がいかない」
近衛
「いや、もし陸軍がかりに構想を持っていたとしても、そんなことはわれわれに洩らしはしなかったでしょう。
しかし、どうも、そのようなものは持っていたとは思えない」

 ニッツ
「これまでの印象では、あなたはいかに勝利を得、いかに戦いに終結をもたらすかについてまったく情報を持たずに、
合衆国との戦争を始めることに同意した・・」
近衛
「たしかに同意という形だが、それは条件付き同意だった。 10月の中旬までに交渉が妥結するだろうと踏んだ上で、同意したのだ」


ニッツ
「ひとつだけハッキリしておきたい。
われわれはあなたの責任いかんに興味を持っているのではない。
われわれはあなたが戦争に同意したとき、戦いがどのようなものになるかということを、あなたがどう見ていたのか、
その点の、正直なところを知りたいのだ。
くりかえして聞くが、あなたは戦争になった場合、日本がどのような状態になると考えていたのか。
また戦争をどのような計画を持って、どう展開しようと していたのか」
近衛
「私が強く印象づけられたのは山本(注=五十六連合艦隊 司令長官)の〝戦争になれば最初の一年はやって行けるが、
その後のことはうけあえない”と いう発言であり、
私はできる限り戦争は避けようと決心していた。
もし戦争が始まったら、日本の勝味はないと見ていた」


ニッツ
「いいかえれば、あなたは1941年12月の時点ですでに、日本は戦争を成功に収拾することはできないと思っていた、と、こういうわけか」
近衛
「まったく、あなたのいわれるとおりだ。全然、チャンスはないものと思っていた」


こうして、調査団としては納得のいかない、近衛公にとっては小突き回されたような、緊張の三時間が終った。
このアンコン号上の尋問で強い衝撃を受けた近衛公は、帰途、
しばらくは「やられた、やられた」とひとり言のように繰り返していたという(牛場氏の話)。

11月22日、公は改憲についての意見書を天皇に提出したのち、栄爵拝辞の手続きをとった。
月が変って12月6日、近衛公、木戸侯爵に対する戦犯容疑の逮捕令が出る。
そして戦犯として出頭するよう定められた16日早朝、服毒自殺を遂げた。55歳であった。

・・・

近衛「まったく、あなたのいわれるとおりだ。全然、チャンスはないものと思っていた」
こうして、調査団としては納得のいかない、・・・・

一億国民は何も知らず・知らされず・知ろうともせず戦争へ、銃後へと向かった。
戦後になってみると「国民としては納得のいかない」戦争が始まった。

 

・・・

・・・

 

「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行

 

近衛公の戦後の動き

近衛公が、東久邇内閣の副総理としてマッカーサー元帥を初めて訪問したのは9月13日。 
その2日前に東条英機元首相が自殺を図って果さなかった。
10月4日、マッカーサー元帥と2回目の会談。
この席上、マッカーサーは、「公はまだ若いのだから、これからの日本は、あなたが背負ってくれなくては」といって、
近衛公を立てるような発言をしたといわれる。
そして11日、天皇も公を呼んで、改憲の準備をするよう命じた。
つまり、ここまでは、 周囲からも、そういわれたし、また自分でも、なんとなく戦後の政局を担当しなければならないようなつもりになっていたわけである。

10月21日には外人記者団と会見して、「天皇退位」をほのめかすような発言までした。 


ところが11月1日、GHQは突如として声明を出した。
「占領軍当局と近衛とは何の関係もない」――。
これは、公を〝戦犯〟とみなすニューヨーク・タイムスなどが不満を書きたてたことにも関連があるようだが、
ともかく、公としては、完全にハシゴをはずされた形となった。
彼の「天皇退位説」も、ワシントンの統合参謀本部の、
「本国政府の承諾なしに、GHQが独断で天皇を退位せしめることは相成らん」という訓令で、
とんだ場違いのものとなっていた。
これと前後してやって来たのが、戦略爆撃調査団の喚問だったのである。


・・・

 

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