モノスヤ☆のまきのテケテケあるある記。

花柳仲登嗣(モノスヤ)&仲真央(のまき)のコンビは2013年もブルワーズ青木を鋭意応援して生きます!!芸道も精進ちゅ♪

ノンプア。

2006-02-25 20:06:41 | いろんな話。
モノスヤです

ノンプア。
プアがノンということ、らしい。

ノンシュガーは、シュガーがノン。
それと同じである。

違うところは、
シュガーは甘くプアは苦いといったところか。

プアは貧しいの『プア』らしい。

貧しさに負けたー、
イエ世間に負けたー。

昭和型の私には、
この貧しさや世間の風当たりのきつさが少しはわかる。
(その曲を知ってること自体が、どうかって話もあるが。)

わかるけれども、
それさえ戦前派・戦中派の諸先輩方に言わせれば。
たぶん、猪口才な。

明治型の祖父ちゃんと大正型の祖母ちゃんに言わせれば、
へな猪口、なんだろう。


今現在、
若者といっても就活真っ最中の人たちの中に、

『ノンプア・コンプレックス』

が広がっているという。

語る自分の苦労体験に欠ける、というコンプレックスらしい。


語るプア体験に事欠いてるなんて、
幸せ
なことじゃないかと思うのだけれど。


「苦労体験」や「貧乏自慢」で、
茶ができたり酒が飲めたりする時代に今の若い人たちは生きていない。
と私は思う。

採用試験の面接で、
「あなたが今まで一番苦労したことは」と問われる。
返す言葉がない。

答えの用意ができない。

面接につまずく。
採用されない。


だから、買ってでもせよとばかりに。
『ボラバイト』という経験をする機会を手に入れるのだという。

『ボラバイト』・・・ボランティア+バイト
 都会の若者が経験したことのない仕事を経験すること。
 地方の人たちと触れ合うことを目的とする。

 お金が目的ではない。
 
 地方で人手を必要としている時期に手伝いに出向き、
 一緒に働きコミュニケーションを図る。

 経験したことがない仕事にチャレンジできることが特徴。
 

そして、そのボラバイト体験を、
「自分が一番苦労したこと」として面接の場などの答えにするという。


不自然だ。
不自然だけど、これが時代なのかな。


企業が新卒学生の採用で、
「苦労体験」をここ数年前からか聞くようになったのだという。

「今までの人生でもっとも困難だったことと、その克服のしかた。」
「あなたの人生で一番難しいチャレンジ」

また小論文の題材として、
「自分の失敗体験」を書かせるところもあるらしい。


答えれば、いいじゃないか。
書けば、いいじゃないか。
というのは簡単過ぎ、また無責任かな。


どんなに幸せな現代っ子にも、
苦労と言わないまでも失敗談や大変だった話の一つ二つあるだろう。

問題は、
そういう体験が稀少なことより、
それを伝える術とか?それを感じ取る感覚の鋭さ??
そっちの方が薄いことなんじゃないかなと思うんだけど。

どうでしょう。


学生たちは、
ほとんど苦労していないことを引け目にも感じ、
そのことでダメ人間の烙印を押されるんじゃないかと怯えてもいるようだ。

どして???

今までは苦労知らずできたけれど、
きっと自分の苦労はこれからじゃないかと言っちゃってはダメなのか。
恵まれていた幸せだったと思う、
でもこれから先の人生は今までのようなわけには行かないだろうと思う。
そう正直に言ってみては、ダメなのか。


他人の目を、
気にし過ぎているんじゃないかなあと。

お姉さんは、そこがちょっと気懸かりだす。


社会常識が身につかないからという焦りから、
バイトを始めたとかいう彼らの話。

そんなこと、考えてバイトしたことあったかな。

欲しいもの買いたいものを手に入れるために、
小金稼いでいたけどそれが自然じゃなかったかな。


社会常識なんて、
社会に出て身に着ければいいじゃん。


なんだかんだといって、
若者といわれる群についてアレコレ言うのはいつの時代も変わらない。
それでいいんだし、
それがきっと自然だ。

あんなに言われて憤慨したくせに、
今では『イマドキの若いもんは』と言ったりする自分に苦笑。
それで、いいじゃないか。


そんな年長者の目を必要以上に恐れずに、
若い者は若い者らしく伸び伸びやれたらいいのに。

失敗も恐れずに・・・(年取りゃ嫌でも守りに入る)


もしかしたら、そんな若い人の芽を摘んでるのって。
実は大人のほうかもって思ってしまった。

それも、永遠に巡るものなのかしらん。

村主さん。

2006-02-25 09:27:10 | いろんな話。
モノスヤです

荒川選手、おめでとう。
荒川選手、ありがとう。
日本中が渇望していた、
理屈なしに盛り上がれる喜びのニュースで沸き立てば立つほど。

私は、村主さんが気になって仕方ない。


昨夜、トリノのフィギュアスケートの総集編の番組を観ていた。
その中で、
初めて村主さんの今回のフリーの滑りを通しで観た。

ショートプログラム1位のコーエン選手と2位のスルツカヤ選手、
二人の滑りも合わせて観た。
村主さんが二人を超えてメダルを手にできなかったのは、
ショートプログラムでの点差を埋められなかったと思っていたけれど。

果たして、どうだったんだろう。
それだけ、だったんだろうか。

村主さんのフリーの滑りは、本当に良かった。
ミスとして3回転ジャンプが2回転になってしまったところがあっても、
それは『女王・荒川』でさえもあったこと。
ましてや銀・銅メダルの両者が数度転んだりする中では、
村主さんの滑りはほぼ完璧といえるものではなかったのか。

それでも残念ながらメダルには手が届かなかった。


もちろん私はフィギュアに関してはまったくの素人で、
TVを通して観た印象でしか考えることはできないのだけど。
私の目から観ても、村主さんの滑りのレベルは相当高いと思う。
もしかしたら金メダルを取った荒川選手も超えるのではないかと、
そう思うくらい村主さんのレベルは高いように見える。


もし、これが。
芸術として競っているのだとしたら。
荒川選手を最優秀賞として、
それよりはやや劣るとしても間違いなく優秀賞は与えられた。
スルツカヤと同率で3位の台に上れた演技だったと思う。

でも、つくづく痛感する。

これは、スポーツなんだ。
フィギュアスケートは冬季オリンピックの華、
氷上の舞だけれど。

あくまでもフィギュアスケートはスポーツ種目であって、
勝ち負けを競っているものなんだということを実感した。

点数が足りなければ、
メダルを手にすることはできない。

順位が競技種目の勝敗の分かれ目であり、
点数やタイムという数字でバッサリと切って落とされる。


あんなに華やかで優雅なのに、
でもやっぱり競っているのは勝ち負けなんだ。

荒川選手が金メダルを取ったから思うわけでもなく、
あの人はスポーツ選手なんだなと前々から思えた人だ。
ビューティだが、それだけじゃなくクールだ。

子供時代の指導者が、
しごきがいのある選手と評していたように。
顔に根性が滲み出ている。

その一方、村主さんは「村主選手」と呼ぶのに違和感を覚える。
スポーツ選手っぽくないところが、
きっと彼女の魅力でもあるのだろうけれど。
リンクに登場すると、
いつもどこかしら哀しげで儚げで。
「どうしたの?」「大丈夫??」と、
内心ハラハラドキドキしながら見守ることになる。


すごく、性格がいいのだろうなと思える。
いつも、いろいろなものに感謝していて。
滑ることのできる幸せを、噛みしめているのが伝わってくる。

今回、村主さんが全ての結果が判明した後にインタビューに応えていた。
多くの観客の応援と、たくさんの支えてくれた人たちへの感謝と、
滑ることのできる幸せを涙ながらに語っていた。

本当なら、荒川選手の金メダルの結果を受けて、
「憎い」とか「悔しい」とか。
そういう気持ちで胸中はグチャグチャになっているところだろう。

「私に構わないで、放っておいて。」
「今は何も話す心境にありません」
「そっとしておいてください」

そう言い放って、その場を立ち去りたいのが人間の心情じゃないだろうか。

健気に質問に答える村主さんを観るのが辛かった。
そして、
まだこの人は競技人生を続けるのかなと思ったら苦しくなった。


スポーツ選手は、
”いい人”だけじゃ結果は出せない。


荒川選手の金メダルを見るたびに、
村主さんのことが気になって仕方ない。


これは人生にも通じることなのだろう、きっと。