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忖度天下り裁判官!

2017年04月04日 | 社会・経済

高浜原発、再稼働判決の裏に裁判所と原発ムラの癒着が! 電力会社と政府の意を忖度し国民の命と安全を蔑ろにする裁判官たち

                   リテラ 2017.4.3

  関西電力高浜原発3、4号機について、3月28日、大阪高裁(山下郁夫裁判長)は大津地裁の命じた運転差し止め仮処分決定を取り消し、関西電力が訴える運転再開を認めた。今年3月の毎日新聞の調査でも、半数以上が原発再稼働に反対する結果が出たが、しかし、これで高浜原発2基の再稼働が可能となってしまったわけだ。

 高浜原発については、これまでいくつかの裁判所によって再稼働差し止めと容認が繰り返されてきた。まず、2015年4月に福井地裁において「新規制基準に適合したとしても安全性は認められない」と再稼働差し止めの仮処分が決定されたが、同年12月には同地裁において、出された仮処分決定を取り消し、再稼働を容認。さらに16年3月、大津地裁が再び運転差し止めの命令を下していた。

 この際、大津地裁の山本善彦裁判長は「関西電力側の主張では安全性確保の説明が尽くされていない」と厳しい言葉で関西電力を批判。運転中の原発が裁判所命令で停止されたのは史上初で、原子力ムラに大きなインパクトを与える決定だった。

 だが高裁で一転、再稼働の容認。今回の判断は、大津地裁が危惧した過酷事故対策や、耐震設計の目安となる基準地震動(想定される最大の揺れ)についてなんら考慮されることなく、また「新規性基準は福島原発事故の教訓を踏まえた最新のもので、合理性がある」と福島原発事故後、原子力規制委員会が策定した新規制基準を単に追認したものだ。さらに、山下裁判長は「(電力会社が)新基準に適合することを立証した場合、基準自体が合法性を欠くことを住民側が立証する必要がある」と、新基準を盲信する形で原発の安全性の立証を住民側に押し付け。「周辺環境への放射性物質の異常な放出に至ることはまず想定しがたい」など、福島原発の甚大な事故の教訓を省みるどころか、事故など“なかった”かのような物言いまでしているのだ。

 今回の再稼働の許可は、まさに政府、行政、そして電力会社に司法が追随したものであり、“忖度”の末の暴挙といえる。そもそも今回の判断が大きく依拠する新基準にしても、これまで裁判所だけでなく専門家の間でも疑問が呈されてきたものだ。ヨーロッパの基準に比べても、日本の新基準の安全対策は緩く、実際、当の原子力規制委員会でも新基準は「安全審査」ではなく「適合性審査」と位置付けられている。その証拠に2014年7月の新基準発表の会見の際、原子力規制委の田中俊一委員長自身、「基準の適合性は見ていますけれども、安全だということは申し上げません」となんども強調していたほどだ。さらに15年12月の福井地裁判決で再稼働した直後の16年2月には高浜原発4号機の原子炉が緊急停止するトラブルも起こっているのだ。

しかし、山下裁判長の判断は予想の範疇だろう。なぜなら、これまで電力会社や政府が“国策”として目指す再稼働に都合の悪い裁判所や裁判官に対し、最高裁とそれを牛耳る安倍政権は、人事権を発動し、その決定をことごとく覆してきたからだ。

 すでに本サイトでも指摘しているが、15年4月、高浜原発再稼働差し止めの仮処分を決定した福井地裁の樋口英明裁判長(当時)は、その判決を下したのち、名古屋家裁に“左遷”されてしまう。これは懲罰人事であり、今後原発訴訟に関わらせないための追放人事だった。そして、樋口裁判長の後任として福井地裁に赴任してきたのが林潤裁判長だった。林裁判長(当時)は同年12月に高浜原発3、4号機の再稼働差し止めを覆し、事実上、再稼働を決定。さらに、林裁判長は大飯原発についても周辺住民らが求めていた再稼働差し止めの仮処分の申し立てを却下する決定をした。

 林裁判長は1997年の最初の赴任地が東京地裁で、2年後に最高裁判所事務総局民事局に異動。その後も宮崎地裁勤務以外、東京・大阪・福岡と都市圏の高裁と地裁の裁判官を歴任している。この最高裁事務総局というのは、裁判所の管理、運営、人事を仕切る部署でエリート中のエリートが集まるところ。林裁判長は人事権を握る事務総局から目をかけられ、将来を約束された最高裁長官さえ狙えるようなエリートだったのだ。さらに、林裁判長と一緒に高浜原発再稼働を認めた左右陪席の2人の裁判官、中村修輔裁判官と山口敦士裁判官もまた最高裁判所事務局での勤務経験があるエリート裁判官だった。そんなエリート裁判官たちが高浜原発のある福井という地方地裁に赴任したことは、異例のこと。つまり、政府や電力会社に都合が悪い決定を下した樋口裁判官を左遷し、代わりに最高裁がお墨付き与えたエリート裁判官たちを原発再稼働容認のために送り込んだのだ。

 それだけでなく、裁判所は電力会社や原子力産業とも直接癒着もしている。これまで数多くの電力会社と住民との訴訟において、電力会社に有利な決定を下した裁判官や司法関係者が原発企業に天下りするなど、原発利権にどっぷりと浸かっているからだ。

  その典型的な例を「週刊金曜日」2011年6月3日号でジャーナリストの三宅勝久氏がレポートしている。記事によれば1992年、伊方原発と福島原発設置許可取り消しを求めた裁判で「国の設置許可に違法性はない」と電力会社側に沿った判決を下した味村治氏(故人)が、退官後の98年、原発メーカーでもある東芝の社外監査役に天下りしていたという。

 味村氏は東京高検検事長や内閣法制局長官を歴任し、最高裁判事となった人物で、いわば司法のエリート中のエリート。しかも味村氏の「原発は安全」との味村判決が、その後の原発建設ラッシュを後押しする結果となった。原発企業に天下ったのは味村氏だけではない。同じく三宅氏のレポート(「週刊金曜日」2011年10月7日号)でも司法関係者の原発企業天下りが紹介されている。

・野崎幸雄(元名古屋高裁長官) 北海道電力社外監査役

・清水湛(元東京地検検事、広島高裁長官) 東芝社外取締役

・小杉丈夫(元大阪地裁判事補) 東芝社外取締役

・筧栄一(元東京高検検事長) 東芝社外監査役・取締役

・上田操(元大審院判事) 三菱電機監査役

・村山弘義(元東京高検検事長) 三菱電機社外監査役・取締役

・田代有嗣(元東京高検検事) 三菱電機社外監査役

・土肥孝治(元検事総長) 関西電力社外監査役

 つまり、政府や電力会社の意向を“忖度”した裁判官たちには天下りというご褒美が与えられる一方、逆に、政府や電力会社にとって不都合な判決を出せば、左遷されてしまうということだ。そのため多くのエリート裁判官たちは、自分が得られる地位や経済的な恩恵のため、そして最高裁人事という“圧力”のもと、曖昧な根拠しか示すことなく再稼働を安易に容認し、国民の命や安全を蔑ろにする。これでは、司法の独立どころか、裁判官や検事までが原発企業の利益共同体、原発ムラの一員と批判されて然るべきだ。

 そう考えると今回の高浜原発再稼働を認めた大阪高裁の山下裁判長の決定は、

ある意味当然の結果と言えるのだろう。こうして大阪高裁のお墨付きを得た高浜原発3、4号機は、再稼働に向け現在も着々とその準備を進めている。

 未だ大量の放射性物質を放出し続ける福島第一原発、にもかかわらず進められる避難指示解除と、住民の強制的ともいえる帰還、そして無視され続ける子どもたちの甲状腺がんの実態──。このままでは、第二の福島原発事故が近い将来起こっても決して不思議ではない。

(伊勢崎馨)


戦前戦中派は「まるで悪夢」 にわかに教育勅語復権の世も末

2017年04月04日 | 社会・経済

 春らしさが増えています。最低気温も今日からようやくプラスになり、最高気温は10℃を超えるようになってきました。先日書いたナスも昨日発芽してきました。これから融雪が一気に進むでしょう。雪融け後の汚い大地を雨で流してほしいのですが、あまり期待できないようです。


 

                日刊ゲンダイ 20174.3

 この平成の世で「教育勅語」が復活するとは思いもしなかった

  安倍内閣は先月末、教育勅語について「憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることを否定しない」という答弁書を閣議決定した件である。

  1890年に発布された教育勅語は「朕」=明治天皇が「臣民」に与えたもので、戦前・戦中の教育の基本理念とされた。親孝行や夫婦相和など臣民が守るべき徳目が示されているが、それらはすべて最後の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」につながる。つまり、危急の大事が起きた時は皇室国家のために身を捧げよと説いたものだ。

  こうした教えが軍国主義の礎になったとの反省から、また「基本的人権を損ない、国際信義にも疑点を残す」として、戦後の1948年、衆参両院で教育勅語の排除・失効が決議された歴史がある。それから70年が経ち、戦前回帰政権が教育勅語を復権させようとしている。

12歳の時に敗戦を迎えた筑波大名誉教授の小林弥六氏が言う。

 「(略)教育勅語は子どもから大人まで一般に広く浸透し、国家主義的な道徳観の柱になっていた。国民に批判の自由もなかった。それが軍国主義につながり、無謀な戦争に突き進んでいったことは疑いようがない。戦中派からすれば、グロテスクな教育勅語の復活は恐ろしく、戦争の悲惨な教訓があっという間に雲散霧消してしまう状況は悲しいとしか言いようがない。自分が生きているうちに暗黒日本のテーゼが復活しようとは、白昼夢を見るような思いです」

危険なイデオロギー教育

(略)

 作家の中島京子氏は2日の毎日新聞のコラムで、森友事件についてこう書いていた。

 〈森友学園=塚本幼稚園を支えてきたのが、戦時中の思想に帰ろうとする政治運動であることは、いまやもう誰も否定しないだろう〉

 〈私が恐ろしいのは、戦時中の思想に帰ろうとする政治運動に賛同している人たちが、日本の教育を変えようとしている事実、そのものだ。関与が取りざたされた政治家の誰一人として、「教育勅語」を否定しなかった。それどころか擁護発言が相次いだ〉

政権の中枢にある政治家、官僚、民間企業(学校法人)が、ある偏ったイデオロギーに染まり、国民の共有財産の使い方を勝手に決めて、「彼ら」の信奉するイデオロギー教育を実践する施設を作ろうとしていた。そういう事件に私には見える〉

  国有地の格安譲渡が発覚しなければ、今ごろ教育勅語を教える愛国小学校が開校していたのだ。

(略)

中学校の保健体育に「銃剣道」が復活のおぞましさ

   安倍首相は第1次政権時代から、教育への介入を強めてきた。教育勅語の廃止後、戦後民主教育の柱になってきた教育基本法は、第1次安倍政権の06年に改正され、「我が国と郷土を愛する態度を養う」という文言が加えられた。森友学園は、この教育目標を忠実に実践してきただけだという声もある。

  道徳の教科化や、修正主義的な歴史教育によって、愛国心の押し付けを強力に進めようとしているのが安倍政権だ。先月末に告示された幼稚園の新教育要領には「伝統的な行事、国歌に親しむ」ことが加えられた。中学校の新学習指導要領では、保健体育の「武道」に「銃剣道」が新たに盛り込まれた。

   終戦時、陸軍幼年学校に入学していたという作家の三好徹氏は「銃剣なんて信じられない」と絶句し、こう続けた。

 「旧日本軍の訓練に用いられていた銃剣術は、白兵戦で人を殺戮するための武術です。日本古来の武道ではないし、礼儀を重んじる剣道や柔道とは根本的に性質が違う。中学生に教えるようなものではありません。戦前の国家主義を美化するような、この政権の右翼路線は、目に余ります。青少年期の重要な時期に国家主義を叩き込み、教育勅語の復活とともに国家のシステムまで変えてしまおうという蛮行は、絶対に許してはなりません」

 中学の剣道では「突き」が禁止なのに、銃剣で突きまくることは許容される根拠がよく分からない。大体、ボタンひとつで国が亡ぶ時代に銃剣道などという時代錯誤の発想は、どこから生まれてくるのか。自衛隊員の再就職先を確保するためか? それとも、近い将来の白兵戦を想定しているのか。

 ■専守防衛の原則も空洞化の一途

  自民党の安全保障調査会は先月30日、敵基地攻撃能力の保有と高高度防衛ミサイル(THAAD)システムの導入など、防衛力の強化を求める提言をまとめた。いわゆる先制攻撃論だ。この提言を受けた安倍は「政府として受け止めて対応をしていきたい」と、前向きな発言をしたという。集団的自衛権の行使容認に続き、憲法の専守防衛の原則がどんどん空洞化されようとしている。
「安倍政権は周辺国の脅威を煽り、それを利用することで戦前の価値観への回帰を強めようとしている。教育勅語を認める閣議決定も、その一環です。幼稚園から日の丸、君が代で愛国心を植え付け、道徳の教科化によって小中学校で国家主義的な道徳心を叩き込む。さらには大学自治の原則も無視して、教育現場への国家統制を強めている。日本中の学校を森友学園にしようとしているのです。これに情報統制や監視強化が加われば、あっという間に戦前の軍国主義が復活です。国家権力がその気になれば、民主主義はあっという間に葬り去られてしまう。自民党が早期の審議入りを狙う共謀罪も、軍国主義的な発想そのもので、この国の民主主義は危機的な状況にある。不気味なのは、これだけ狂乱政権の正体が明らかになってきても、支持率が高止まりしていることです」(小林弥六氏=前出)
 まったく、恐ろしいのはそこだ。教育勅語の復活にも、銃剣道の導入にも、国民が何も感じないとすれば末期的というほかない。ここまできて、不安も恐れも、怒りも感じないまでに呆けてしまっては、国民が支持して破滅に向かっていったあの戦争と、同じ道を繰り返すだけではないのか。