里の家ファーム

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税金は「みんなの貯金」

2017年04月07日 | 社会・経済

昨日の昼過ぎから今朝まで、結構な雨となり、融雪は一気に進みました。

白樺樹液も今が最盛期。山の下の方にある白樺の周りには既に雪もなく、2か所撤去。今年は早く終わりそうな気がします。

これは、-30度近くのときに割れた白樺です。
すごい音がするんですよ。
割れ目から樹液が出ています。
 さて、きょうはミニトマトのセル苗が出来上がり、断根。

容器に水苔を入れて水を含ませ、根が出るのを待ちます。
4.5日で根が出て、芽が出てきますので、ポットに鉢上げします。


 

「貯金できないと死ぬ」世界は本当に健全か 税金は「みんなの貯金」と捉えよう

                 東洋経済オンライン 2017.4.7

 

 人々が働き、貯蓄に励むのは、「そうしないと生きていけない」という現実があるからだ。しかしその現実が、生活保護受給者へのバッシングをはじめ、社会に多くの軋みを生み出している。

 解決策はあるのか。そもそも「生きる手段」は誰が保障すべきなのか。小田原市の「生活保護行政のあり方検討会」の座長を務め、『18歳からの格差論』の著者でもある慶應義塾大学の井手英策教授と、北九州で長年ホームレス支援活動を行ってきた、東八幡キリスト教会牧師でもあるNPO法人抱樸(ほうぼく)の奥田知志理事長に聞いた。

すべての人が「社会保障」を受ける世界

 奥田:前回(慶大教授が「弱者救済はやめろ」と言う理由)、井手さんは「格差是正はダメ」「弱者救済ではもたない」とおっしゃっていました。貧しい人だけに補助をするから、「生活保護受給者は高い医療をただで受けている」というたぐいのねたみを生み、社会を分断してしまう。ならば医療や介護、教育など、生活のベースを「みんな」に保障することで、分断することなく格差を解消できるのではないかと。

 私も井手さんの言うように、肝心なものが「みんな」のレベルで保障されていないことが問題だと思います。特に生存にかかわる多くの部分が「保険制度」で担われている現在の社会のあり方は問題です。結局、保険に入っていない人は、実際にはサービスを受けられない。国民健康保険の未加入率は2割を超えたそうですが、保険制度としては崩壊寸前です。ベースの部分はもっと普遍的でなければならない。「払った人だけがもらえる」という保険制度でやっている限り生存権は保障できません。また「払っている人」と「もらっている人」の分断が深まるだけに留まらず、差別性や攻撃性が今後一層強まると思います。

井手:今は悪い意味で利害関係になってしまっているんです。もらっていない人から見れば、「何であいつはもらっているんだ」という世界です。そういうベーシックな部分でけんかを始めると社会として本当につらい。貧しい人や体の弱い人たちが、既得権者扱いで袋だたきにされてしまう。明らかに弱者なのに。

 財政には社会の哲学が如実に現れます。だから僕はそこをつくり替えていくことに非常に意味があると思っている。単なる数字合わせではなくて、どういう社会をつくりたいかという哲学の問題です。だからこそベーシックな部分はきちんとやらないといけない。

 僕は、最後の最後は、敗者が勝者に対して惜しみない拍手を送れる社会になるべきだと思う。格差のない社会ではなく、格差を受け入れられる社会に。だからこそ、ベーシックな部分をすべての人に保障し、誰もが競争の輪に加われるようにすることが欠かせない。生まれたときに勝者と敗者が決まる、そんな残酷ないまの社会を終わらせないといけない。

「勝者」という概念を多面化しないといけない

 奥田:その「勝者」という概念をもっと多面化しないといけないと思います。失われた30年について、安定就労が失われたとか、中間層が崩壊したとか言われていますが、同時に「どう生きるのかという議論」そのものが失われたと思います。そして、生きるうえで何が幸福であるかという問いを嘲笑する時代になった。

 この部分における「戦後レジューム」の崩壊は、よくも悪くも生き方の変更、価値の変更へと私たちを導くのではないかという「淡い期待(笑)」があります。「貧すりゃ鈍する」ということも、「貧すりゃ考える」「貧すりゃ出会う」ということになればいい。

 井手さんの言う「みんなの利益」ということを目指すと、全体的には「薄く広く」ということになるのではないか、これは素人のイメージに過ぎませんが。今までならば、「薄くでは嫌」で終わっていたが、それを超える価値が生まれるかもしれない。そして「最後に敗者が勝者に惜しみない拍手をする」というのは、おカネの問題、経済の問題だけでは成立しないと思います。ベースの確保と同時に大きな価値転換、人と人とのつながり方の転換が起こらなければいけないと思います。

井手:僕は日本を「勤労国家」と呼んでいます。なぜ就労するかといえば、自己実現もありますが、貯蓄しないと生きていけないからです。中間層がやせ細って困っているのは貯金できないからです。生活のニーズを貯金で満たす社会は、貯金ができなくなった瞬間に不安になり、みんながおびえて萎縮する社会です。いまの社会で貯金できないというのは死ねと言うのに等しい。だから奥田さんが言うように、経済をさまざまな価値のひとつにしたいと思ったら、この貯金をしないと生きていけない社会を変えないといけない。

 ただ日本人の勤労と倹約という哲学には逆らえない。だったら、社会に貯金をすればいい。税金というのは社会への貯金なんです。自分の貯金は減る。その代わり自分が病気になっても、ケガをしても、失業しても大丈夫な貯金にかわる。この前提にあるのは政府への信頼。2年後に消費税の再増税が待っています。僕は増税すべきだと思います。でも、今度こそ、増税分を借金減らしではなく、国民の暮らしに使ってほしい。そうすれば政府への不信感も和らぐでしょう。

 奥田:消費税でいくか、その他の税でいくかは、議論があるところですが、いずれにせよ増税は必要だと思いますし、それが「生活保障」に投入されることが必要だと思います。再分配は国家最大の役目ですから、おっしゃるとおり「信頼できる政府か」が問われます。

 一方で、税金で最低限度の生活を保障するだけで本当に人々は安心するのかも問うべきでしょう。ここから先は、政府に任せておけない部分になります。つまり、それは「意味付けの問題」だからです。

「生きる手段」の次は「生きる意味」が課題

 奥田:生きる手段としてのベースの部分は先生がおっしゃったような財政をつくることで実現できる。ただ、それは明日生きるか死ぬかを心配しなくてもいいということであって、必ずしも生きる意味を与えてくれるものではない。だからこそ、あなたはどう生きるのか、何のために生きるのか、何のために働くのかという議論が同時に大事になってきます。私は、宗教家でもありますので、……こう見えても宗教家でもありますので(笑)、だから、その点は気になります。

 ただ、これは「貧しくても天国に行けるから大丈夫」などという宗教のアヘン性の問題ではありません。当然、生活のベースの部分は、憲法に規定される国家の責務ですから、政府がキチンとすべきです。

 財政が建物の「1階」部分だとすると、その上にどんな「2階」が乗るのかが、われわれNPOや宗教者、市民社会、個人の課題だと思います。この意味付け部分には、国家が口を出してはいけません。ただし、「1階」が脆弱だと「2階」の話は出てこないというのが、失われた30年で証明された事柄です。

井手:僕も宗教に関心がありました。カトリック系の高校にいたこともあって、毎週ミサに通って自分なりにあれこれ考えていました。宗教がひとつの生きる意味を与えてくれることは、僕自身が経験しているし、僕の大好きな思想家や哲学者は、多くがキリスト教的な宗教の世界の中で生きることの意味を考えてきた人たちです。

 けれどもいま、宗教と距離をとるようになって感じるのは、人間は家族のため、親・兄弟、友人のため、すなわち愛する人のためというふうに、生きる意味や価値を自分なりに見いだしていくということです。

 僕がいま突き動かされ、発言を繰り返しているのは、結局は、家族という愛の対象さえもが、金銭的な対象になってしまっているからです。もちろん、結婚や出産は自由選択であるべきです。義務ではないし、形にこだわる必要もない。でも、おカネがかかるから子どもをつくらないとか、結婚しないとかいわれると、どこか納得できない。ベーシックな部分をきっちり整えられれば、人々が自由に愛し合うことができる世の中になり、それぞれが生きる意味や価値を見いだしていくんだろうな、と楽観的に考えているんです。

宗教で「弱者救済」は可能か

 奥田:なるほど。ベーシックな部分が前提であることは、実は宗教の世界にいる私にとっても大きな課題です。私は、キリスト教がなぜダメになったかを考えます。それは宗教の本質である「救済」における普遍性を失ったからです。キリスト教は、「洗礼を受けクリスチャンになった人は救われる」と言い、「洗礼を受けていない人は救われない」などと恐ろしいことを言ってきました。このように人間を平気で差別する宗教に誰が魅力を感じるでしょうか。これは井手さんが言った「働かざる者食うべからず」と同じ構造です。イエスは、そんなことを考えてはいなかったと思います。

 キリスト教の持つ人間観は「すべての人は罪人である」という普遍的認識です。それは、悪人という意味だけではなくて、弱さや限界を持つ存在であるということです。この本質は、クリスチャンになろうが、なるまいが変わりません。人は人に過ぎないという普遍的な認識が前提であるのなら、当然すべての人に救済が必要となります。救済は普遍的でなければならなかった。

 にもかかわらず「信じる者は救われる」「信じないと救われない」と脅迫じみた伝道をし、救済における普遍主義を教会は自ら放棄したのです。

 たとえば5人家族で、自分と息子だけがクリスチャンだとします。少々神話的なキリスト教理解で表現すると、クリスチャンは天国へ行き、それ以外は地獄にいく。僕は牧師だけど、それでは困るわけです。だったら自分の天国行きの権利は放棄して、家族全員で地獄に仲良く移住したいですね(笑)。

 これはマンガじみた言い方ですが、「人の救い」という普遍的な事柄において分断を持ち込んだので、信仰が自分の救済のことで汲々とするようになり、他者性を失うことになりました。自分の救いだけを考え「自分教」のようになった教会は、社会から見捨てられました。信仰が人の生き方や他者との共生、あるいは社会形成につながらなくなってしまったからです。

 私の所属する東八幡キリスト教会では「そんなもの全員救われるに決まっています。そんなところを議論すること自体時間の無駄だからやめましょうよ。そうではなく救われた者としてどう生きるのか、神さまから愛された者として他者をどう愛するのか。キリストに赦された者として赦す人になれるのかということに時間と労力を割きましょう」と言っています。

 井手:それには僕も同感です。去年、母校の同窓会で講演をしたんです。そのときに宣教師さんと話をしたら、僕の話を褒めてくださったうえで、一言だけ「神は貧しい人を救いなさいと言っています」という話をされた。彼は尊敬すべき先生です。ただ、僕が洗礼を受けなかった理由ってこれなんだな、と感じた。18歳のときのいちばんの悩みはそこだったんです。「誰かが誰かを助ける」ということへの違和感です。人間は人間を助けられるほど強い存在なのかという疑問です。

 奥田:うちの教会に来ていたら、洗礼を受けていただろうね(笑)。

 井手:かもしれませんね(笑)。

「みんなの利益」から「利益度外視」へ

 井手:この前、奥田さんのご友人たちにこう申し上げました。「神が誰かを救済するのではなく、おそらく主はすでにあらゆる人々を救済しておられるのではないか。あとはその救済されている私たちが、どのようにあるべき姿に向かって進んでいくのかを考えるべきなのではないか」と。

 信ずる者は救われるということの意味は、信じない人は助けないということ。排除の論理です。そうではなく、すでに救済が約束されたすべての人が、その約束の地へと歩みをすすめるというほうが、僕にはしっくり来る。誰かを救う社会ではないという約束の地への第一歩が、財政がきちんとベーシックな部分を、普遍的な部分をやらなきゃいけないということ。僕の哲学は、若いときの葛藤、悩みから始まっています。財政が基礎をととのえ、そのうえで、NPOやNGOのみなさんがそれぞれの哲学で、それぞれに人間の暮らしをより豊かなものにしていく、そんなイメージです。まさに奥田さんの言う「1階」と「2階」ですね。

 僕は「格差是正」や「弱者救済」という言葉の政治的なメッセージ性をはっきり否定しているので、奥田さんみたいな方々から批判を浴びるのではないかと思っていました。でも現場で携わっている人たちのほうがきちんと話を聞いてくださる。目の前にいる人を幸せにしようという地道な取り組みと、社会のシステムを大きく変えていこうという僕の理論はクルマの両輪です。現場にいる人や貧困の最前線に立っている人ほど、このままではもたないことに気づいているのかもしれない。同時に、僕も、目の前のだれも幸せにできずに、理屈ばかりをこねている自分の無力さを感じています。

 奥田:「みんなの利益」という井手さんの発想はすばらしいと思います。そういう「1階」を財政が構築する。

 一方で「みんなの利益」という言葉さえも超える議論があってよいと思います。失われた時代は、よくも悪くも「利益」が社会や個人を誘導してきたと思います。井手さんは、それをベーシックな事柄、普遍的な事柄にしようと仰っているので、従来の「利益」概念ではないと承知しています。あえて「利益」や「得」という言い方をされているのだと。

 しかし、「2階」をどうするかを考えるとき、特にNPOやNGOにかかわってきた人々は、「利益度外視」でやってきた面が少なくない。あるいは「計算していてはできなかった」という面が事実としてあります。確かに、NPO活動を持続するためには「計算」が必要なので、ベーシックな部分の確保が必要です。しかし、それが損得を乗り越えて判断できる人をどう育てていくかという課題につながるかが重要です。これが「2階」の真の意義であり「希望としての2階部分」であると思うのです。財政を基盤に、そんな希望の仕組みを作っていきたいと思っています。(構成:東洋経済記者 中島 順一郎)