NIKEに日本社会の人種差別を批判する「資格」はあるのか?
ケイン樹里安 | 社会学者。「ハーフ」や海外にもルーツのある人々の研究。
YAHOOニュース(個人)12/4(金)
NIKEの広告「動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting.」が大きな注目を集めています。
まずはご覧ください。
動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting. | Nike
https://www.youtube.com/watch?v=G02u6sN_sRc
上記の広告では、アスリートであり学生でもある3名の女性が、人種差別を含む困難が埋め込まれた日常生活の困難に直面し、困難が解消される状況の到来を「もう待ってられないよ」と言いつつ、サッカーを通じて乗り越えていく、というストーリーが展開されています。
この広告は、日本社会のレイシズムを描き出してもいるために、賞賛から非難まで、さまざまな言葉が集まっており、そのこと自体の分析が進められつつあります(「話題のナイキ広告で噴出――日本を覆う『否認するレイシズム』の正体」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77893)。
広告とは、主に自社の商品・サービスの販売促進を目的として構築されるものといえますが、上記のNIKEの広告に対しては、「なぜ日本社会の人種差別が取り上げられているのか」NIKEに日本社会の人種差別を批判する『資格』」はあるのか」という問いが寄せられています。
NIKEの広告に注目が集まり、その「資格」を問うようなコメントが現れていることについて、どのように考えればよいのでしょうか。
1.なぜ注目されたのか
なぜNIKEの広告にこれほどまでに注目が集まっているのでしょうか。
そこで、まずは「注目している日本社会の側」の状況について確認していきましょう。
まず、確認すべきことは、日本社会に人種差別は存在しており、そのことは法務省によっても明らかにされています(http://www.moj.go.jp/content/001226182.pdf)。
しかしながら、人種差別の実態が明らかであるにもかかわらず、その実態は否認――無効化・矮小化・個人への帰責化・抑圧――され続けられてきたことが、歴史的資料の分析および現代社会を生きる人びとへのインタビュー等によって明らかにされてきました(下地 2018,梁2020,ケイン2019ab・ケイン2020abc)。
つまり、日本社会のレイシズム(思考形式あるいは制度に組み込まれたものとしての人種差別主義および実際に表明される言動等)は、「否認するレイシズム」として立ち現れてきたのです。
否認するレイシズムの整理については、先ほどの論考を参照していただければと思いますが(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77893)、その具体例としては、上記の論考が転載されたYahoo!ニュースのコメント欄にみられる、「日本に人種差別は存在しない」と主張するコメントや「人種差別の無い国はない(ので日本で人種差別が起こっても仕方のないことだ)」と問題を無効化・矮小化するタイプのコメント群が挙げられるでしょう(https://news.yahoo.co.jp/articles/ad414714ee9a72c753edfbbdc13ad28565b65e57)。
また、異なるパターンの典型的なものとしては、神戸市会議員・岡田ゆうじ議員による、現在は削除されたツイートが挙げられます。
本稿執筆段階で保存していた文章およびURLを含めて引用します(当該のツイートはすでに削除されていますが、複数のアカウントが岡田ゆうじ議員の以下の投稿を引用していたのでTwitter上で現在も閲覧することが可能です。必要ありましたら各自ご参照ください。なお、以下の文言の閲覧に際してはくれぐれもご注意ください)。
“神戸市会議員 岡田ゆうじon Twitter: "
というか、わが選挙区の垂水区に朝鮮学校があるが、チマチョゴリで通学してる子なんて、見たことない… #火のない所に差別 #NIKE #NIKEの印象操作に抗議する htn.to/3uJqVV4xgL )
岡田ゆうじ議員が「見たことがない」理由は、1990年代の「チマ・チョゴリ切り裂き事件」のように、チマ・チョゴリ制服を着用することが人種的・民族的差異に照準する暴力の対象となり「自由に着られない」状況があるからです(下嶋1994,そんい/早瀬2016)。
だからこそ、NIKEは日本社会の人種差別を取り上げるにあたって、チマ・チョゴリ制服を事例の1つとしたのでしょう。
岡田ゆうじ議員の投稿は、「チマ・チョゴリ切り裂き事件」によって、チマ・チョゴリ制服を着用することが人種的・民族的差異に照準する暴力の対象となる状況の否認(あるいは看過)であり、まさしく「否認するレイシズム」の典型例だといえます。
このように、レイシズムには、人種差別の実態を否認するタイプのものが存在するのです。
したがって、「否認するレイシズム」が現れる日本社会だからこそ、NIKEの広告は「注目されざるをえなかった」といえます。
2.資格と責任
さて、日本社会の「否認するレイシズム」の状況を踏まえた上で、NIKEに日本の人種差別を取り上げる「資格」はあるのか、という論点を取り上げたいと思います。
結論から述べますと、NIKEには、広告上だけではなく、自社、関連企業、取引先、商品の制作・流通等々のプロセス、顧客の日常で生起する人種差別と向き合う「責任」があると思われます。つまり、反レイシズムの「実行」が待たれています。
実行に際しては、ほかのマイノリティへの差別や抑圧を押し隠すように反レイシズムを掲げてはならないでしょう。
たとえば、この点に関しては、NIKEのダイバーシティ・マネジメント(ちぎりとられたダイバーシティ)の問題であるとして、渋谷区・宮下公園のホームレス強制退去への関与が批判されています(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77893)。
さらに、NIKEは「ウイグル人の強制労働」に関与している懸念が報道されており、その実態解明と、事実であるならばグローバル企業のレイシズムに基づいた搾取ですので、ただちに取りやめるべきです(https://forbesjapan.com/articles/detail/33101)。
したがって、NIKEはNIKE自身のレイシズムを批判する「責任」があります。
その上で、NIKEには別の「責任」があります。日本社会の人種差別に批判的に取り組む「責任」です。
なぜでしょうか。
それは、日本が1995年に国際条約である人種差別撤廃条約に加入しているからです。
外務省によれば、人種差別撤廃条約とは、「人権及び基本的自由の平等を確保するため、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策等を、すべての適当な方法により遅滞なくとることなどを主な内容」とする国際条約です(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/index.html#:~:text=%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%92%A4%E5%BB%83%E6%9D%A1%E7%B4%84%E3%81%AF%E3%80%81%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9A%84,%E5%B9%B4%E3%81%AB%E5%8A%A0%E5%85%A5%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82)。
したがって、日本という国家には人種的・民族的差異に照準する差別を撤廃する政策や取り組みを、条約の文言通り「遅滞なく」実施する責任があります。
日本は、自ら人種差別撤廃条約に加入した以上、条約の規定に従って「すべての適当な方法」によって「いかなる個人、集団又は団体による人種差別を禁止し、終了する」義務があります(梁2020)。
さらに、外務省が明言するように、日本社会は、国や地方公共団体の活動に限らず、「企業の活動等も含む人間の社会の一員としての活動全般を指す」ものとしての公的生活(public life)における人種差別の撤廃に取り組む責任があります(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/top.html)。
企業であるNIKEは、人種差別撤廃条約に加入した日本社会で事業を展開する以上、自社および関連企業の労働者と消費者の「人権及び基本的自由の平等を確保する」ために、あらゆる形態の人種差別の撤廃に取り組まなければ、日本という国家に批判される立場にあります。
したがって、NIKEには日本社会の人種差別を批判し撤廃に取り組む「資格」があるというよりも、その必要性や「責任」があるのです。
上記の点をふまえると、今回のNIKEの広告は、人種差別撤廃条約締約国・日本にとっては「遅すぎる」取り組みだとすらいえます。
もっと早期に、自らのグローバルな事業展開におけるレイシズムへの関与を絶ちながら、批判的に日本社会における反人種差別的な取り組みが展開されるべきだったのです。また、先ほども述べたように、広告を世に出して終わるのではない、取り組みが求められています。
そして、何よりも、NIKEの広告が目立ってしまうほどに、「否認するレイシズム」が浸潤する状況を看過し、人種差別撤廃の取り組みを怠ってきた日本企業は「遅すぎる」とただちに批判されるべきです。広告という商品・サービスの販売促進を目的として構築された映像作品ですら、ここまで注目が集まってしまうほどに、広告の3名の女性たちのように「そんなの待ってられないよ」と、不平等・不公正を前に口に出している――あるいは出せない――人々がいるのですから。
その意味で、すでに反人種差別およびほかの差別現象の撤廃に真摯に取り組んでいる企業はより積極的に報道されるべきでしょうし、評価されるべきだと思います。
しばしば、NIKEの反人種差別的な広告やその擁護、あるいは本稿のように意義を見いだしながらも批判も行う論考には、「分断をもたらすもの」というコメントが寄せられることがあります。
ですが、そもそも日本社会には「否認するレイシズム」をはじめとする多様な人種差別の形態と、それを維持させる不平等・不公正が埋め込まれています。
それこそが、人々を「分かち絶つ」契機をもたらすものですので、NIKEの広告に限らず、まずは可視化がなされるべきです。
それを「否認するレイシズム」のように否認することで、不平等・不公正を維持・再生産させることや、「わたしには関係のないことだ、仕方のないことだ、Not for Me」と「距離をとる」だけで、問題を無効化・矮小化するのであれば、NIKEの「資格」を問うために放った批判が、自分の身にただちに返ってくることになるでしょう。
そもそも、人種差別は、誰もが差別されないために勝ち取られるべき普遍的人権を侵害する行為の1つですので、誰もが批判を行う「資格」、むしろ「責任」があるといえます。
しかしながら、差別とは明白な意思をもった言動という側面だけでなく、差別を知覚できていないがために、不平等・不公正に巻き込まれるなかで「差別してしまう」メカニズムをも含みます。その意味で(本稿の執筆者も含めて)、いつでも/すでに、誰もが差別の当事者であり続けざるをえません。
ですので、他者の「資格」を問うばかりであるよりも、さまざまな差別に向き合い、自制しながら積極的に介入を試みるほうがより適切であるように思います。
また、「分断」という言葉には、不平等・不公正を後景化・不可視化させた上で「どっちもどっち」であるかのように捉えさせてしまう、厄介なニュアンスがあります。つまり、不平等・不公正によって不利益を受けやすい人々とそうではない人々へと、人々が「分かち絶たれていく」メカニズムや抑圧のありかたが、ますます見えにくくなるのです。
したがって、NIKEの広告を「分断をもたらすもの」と指摘する際には、その指摘自体が、広告以前に存在していた不平等・不公正を覆い隠していないかどうか、検討する必要があります。あるいは、そもそも、「分断」という言葉を、不平等・不公正を可視化できるような言葉へと、変えていく必要もあるでしょう。
そしてやはり、階層・階級、ジェンダー、セクシュアリティ、障害……といったように、個人はさまざまな社会的属性を付与されているために、直面する不平等・不公正の立ち現れ方は一様ではありませんので、そもそも「分断」という比喩は適切ではないように思われます。だからこそ、それぞれの不平等・不公正に可能なところから向き合っていく必要があると思います(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77893)。
また、「分断」という言葉がもつニュアンスに注意を払うと共に、「日本人」という言葉が用いられるときも、やはり注意が必要だと思われます(「日本人感」とは何だったのかhttps://news.yahoo.co.jp/byline/keanejulian/20200627-00185269/)。
一方で、このNIKEの広告には、さまざまな多義性が込められています。
韓東賢氏が指摘するように、日本人女性、在日コリアン女性、ミックスルーツの女性、それぞれの抑圧された経験の差異が交錯する映像表現と、スポーツによって打破されるというスポーツ・ブランドとしては「巧い」ストーリー展開のかかわりをロール・モデルの必要性との関係から捉えるプロセスが求められます(韓2020)。
その広告としての「巧さ」が、広告の最後に登場する“You Can't Stop Us”のUS(わたしたち)と、スポーツという個人の身体技法が問われざるをえない身体実践が結びつくことで生まれる緊張関係にかかわる論点、そして、そもそも企業にだけ反人種差別を委ねてしまっていてはならないという論点をも提起していますが、この論点については別稿が必要となりますので、本稿はここで筆を置くことに致します。
【参考文献・引用順】
・下地ローレンス吉孝,2018,『「混血」と「日本人』――「ハーフ」「ダブル」「ミックス」の社会史」青土社.
・梁英聖,2020,『レイシズムとは何か』ちくま新書.
・ケイン樹里安,2019a,「『半歩』からの約束――WEBメディアHAFU TALK(ハーフトーク)実践を事例に」
『現代思想(特集 新移民時代――入管法改正・技能実習生・外国人差別)』.
・ケイン樹里安,2019b,「ハーフにふれる」ケイン樹里安・上原健太郎編『ふれる社会学』北樹出版.
・ケイン樹里安,2020a,「共に都市を歩く――『フィリピン・ハーフ』かつ『ゲイ』の若者のアイデンティティの軌跡」『都市問題』
・ケイン樹里安,2020b,「『人種差別にピンと来ない』日本人には大きな特権があるという現実」『現代ビジネス』
(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73518)
・ケイン樹里安,2020c,「話題のナイキ広告で噴出――日本を覆う『否認するレイシズム』の正体」『現代ビジネス』
(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77893)
・下嶋哲朗,1994,「チマ・チョゴリ切り裂き事件」を追う――日本人は変わらないか」『世界』(601).
・そんい・じゅごん/早瀬道生,2016,『きゃわチョゴリ――軽やかにまとう自由』トランスビュー.
・韓東賢,2020,「日本人、在日コリアン、ミックスルーツの少女たち――「NIKE」PR動画に見る今ここのリアルと可能性」
Yahoo!ニュース(https://news.yahoo.co.jp/byline/hantonghyon/20201202-00210495/)
ケイン樹里安
社会学者。「ハーフ」や海外にもルーツのある人々の研究。
社会学者。「ハーフ」をはじめとする海外に(も)ルーツのある人々が直面する問題状況や日常的実践について研究。日本社会における日常の人種主義や人種差別について、インタビュー、エスノグラフィー、メディア表象分析といった方法でアプローチしています。『ふれる社会学』(北樹出版)共編者。HAFU TALK(ハーフトーク)共同代表。
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ナイキCMへ批判殺到の背景にある「崇高な日本人」史観
古谷経衡 | 作家/文筆家/評論家12/3(木) 12:05
ナイキジャパンが製作したPR動画、”動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting.”が、摩訶不思議な批判を受けている。
動画の再生回数は同社の公式ユーチューブサイトで約1000万回(20年12月3日現在)に迫るが、その中で日本人ユーザーのものと思われる批判コメントの殆どが所謂「ネット右翼」と呼ばれる層によるもので、「日本には人種差別は極めて少ない(よってこのCMはけしからん)」「日本に朝鮮人差別は無い、あったとしても理由があるから」「ナイキは反日企業だ、もう買わない」「朝鮮総連が日本人拉致に関与している事実をナイキは知っているのか」などと言ったコメントが多数を占めている。
このPR動画には主に3人の少年少女が登場するが、その中の一人は在日コリアンとみられ、チマチョゴリ姿でうつむきながら街を歩く様子や、恐らくそのエスニシティが理由で学校で「いじめ」にあっているさまが描かれている。嫌韓・反在日コリアンを金科玉条とする日本のネット右翼は、おそらくこの部分の描写が特に気に食わなかったのだろう。要約すれば今次のナイキCMに対する彼らの反応は、
・日本には欧米のような人種差別問題は極めて少ないのに、ナイキのPR動画ではあたかも日本でも欧米同然の在日コリアンに対する人種差別が行われているような風潮を惹起させ、日本全体のイメージを貶めている
というものである。筆者は約10年間に亘ってネット右翼を観察し続けてきた。そればかりではなく、ネット右翼の世界に身を置いて言論活動を行ってきた経歴がある。その私からして、彼らがなぜナイキのPR動画にここまでの拒否反応を示すのか、の理解は容易い。一言で言えば、日本人は欧米人とは違って、人種差別などを行わない崇高な民族である、という「崇高な日本人史観」が背景にあるからである。これはどういうことだろうか。
・「崇高な日本人」史観の嘘と、日本での人種差別の実例
まず、ナイキのPR動画に寄せられた否定的なコメントの中にある、上記の、日本では欧米のような人種差別問題は極めて少ない~というのはまったく事実ではない。2002年頃から勃興したネット右翼の中でも、街頭に出てデモ活動や示威行為等を行う行動派を「行動する保守」と分類するが、この行動する保守の筆頭格が、『在日特権を許さない市民の会』(以下在特会)である。
在特会は2006年に公式に設立され、初代会長は桜井誠氏であった。在特会は関連団体等と共に関東や関西の韓国・朝鮮関連施設に押し掛け、ヘイトスピーチを行うことにより多数の逮捕者を出し、民事的不法行為を犯した。まさに公然と日本に居住する他民族を貶め、差別し続けてきたのが彼らなのである。特記すべき有名な事件は以下のふたつである、
1)京都朝鮮学校襲撃事件(2009年)
京都市南区の京都朝鮮第一初級学校に在特会メンバーらが押しかけ、「朝鮮学校を日本からたたき出せ」「スパイの子ども」などと絶叫し、事実上同校を襲撃した事件。当時校舎には100名を超える児童がいた。2013年には京都地裁がこの襲撃事件を「人種差別」と認定し、在特会側に約1200万の賠償命令を出した(確定)。またこの襲撃事件に関与した人員4人らは侮辱罪・威力業務妨害罪・器物損壊罪等で逮捕等され、有罪判決が出た。
2)李信恵氏中傷事件(2017年)
在日コリアンでライターの李信恵氏に対し、在特会関係者が「不逞(ふてい)鮮人」などの人種差別を繰り返したとして、2017年に最高裁が在特会側に約77万円の賠償命令を出して二審の高裁判決を支持し、判決が確定した。ヘイトスピーチをめぐる個人賠償では初めての画期的判例が確立された。
このほかにも、在特会を筆頭とした大小の「行動する保守」のグループが、東京・新大久保や神奈川県・川崎市、大阪・鶴橋などで「朝鮮人を叩き出せ!」「いい朝鮮人も、悪い朝鮮人も、みんな殺せ!」
(*本稿中では、ヘイトスピーチやヘイトクライム根絶への願いから、文中に事実通りの差別的文言を引用しております)
などの数多のデモ行為、街宣活動を繰り返してきたことは紛れもない事実で、日本では欧米のような人種差別問題は極めて少ない~などというナイキPR動画への反論は重ね重ねまったく事実ではないことがわかる。
こういった国内の深刻な状況から、2016年に所謂”ヘイト規制法(ヘイトスピーチ解消法)”「正式名:本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」が成立されたことは記憶に新しい。日本に人種差別問題がないのなら、ヘイト規制法など立法しなくても良いはずだが、現実にはその逆の事が進行しているから同法が立法されたのである。そして前述したとおり、日本における在日コリアン差別の前衛となった在特会会長の桜井誠氏は、同会から独立する形でその後『日本第一党』を結成し、その党首に就任。2020年東京都知事選挙に党首自らが出馬し、落選したものの都内で約18万票を獲得した。
むろん、同知事選挙で桜井誠氏に投票したすべての有権者が桜井氏の過去における人種差別に賛同していたわけではないだろうが、その多くが桜井氏への同調票であると考えるのが自然である。「朝鮮人を叩き出せ!」と絶叫していた党首に、東京都という日本総人口の1割に過ぎない地域を例にしても、約18万人の支持者が存在するという事自体、如何に日本で人種差別が激しく、またそれは「日本には欧米のような人種差別問題は極めて少ない~」という言説が如何に虚偽であるかを物語っている。
・「崇高な日本人」史観とは何か?
さて、このような事実を例示しても、なおもって彼らが「日本には欧米のような人種差別問題は極めて少ない~」と言い張るのは何故か。ひとつは、「愛国無罪」の原則がある。要するに、韓国や朝鮮は反日行為をしているのであるから、それに対抗するのは差別ではない―という論調である。もし仮に、百歩譲って韓国政府や北朝鮮が所謂「反日」行為なるものをおこなっていたとしても、それは相手の政府の方針であり、日本に居住している個人の在日コリアンを差別・迫害してよい理屈にはまったくならないのは自明である。
もうひとつは、これこそ本稿の主眼であるが、「崇高な日本人」史観の存在である。要するに、日本民族は世界一道徳的で礼儀正しく、よって不道徳な行いや野蛮を行わない。つまり、多民族への差別などやったことは無い―とする世界観である。これはネット右翼が依拠する日本の保守界隈でも根強く信奉されている価値観で、私はこれを「凛として美しく」路線とも呼んでいる。
つまり日本人は崇高で美しいから、略奪・強姦・差別その他の不道徳行為を現在でも過去にでも一切やってこなかったとする史観で、実はこれが日本の保守派に代表される「南京大虐殺否定」「従軍慰安婦否定」論にダイレクトに結びついている。
1)現在でも、過去においても、日本人は崇高で道徳的で美しいので、中国人(当時の中国国民党軍・民)を野放図に虐殺することなどありえない事である(南京事件否定)
2)現在でも、過去においても、日本人は崇高で道徳的で美しいので、欲望をむき出しにした戦時性暴力など行う訳はないのである(慰安婦否定)
このような論がこの国の保守、ネット右翼界隈では「常識」になっているが、すべての根源は「崇高な日本人」史観の存在だ。南京事件に関しては、中国側犠牲者数の算定数に開きはあるものの、秦郁彦氏ら実証史学者の研究によって虐殺自体は存在したことが史学界の定説になっている。そして従軍慰安婦については議論の余地なく、戦中に彼女らを日本軍が管理し、あるいは彼女らの意に反して売春に従事させ苦痛を味あわせたことは、日本政府が河野談話(1993年)で事実を認め謝罪して以来、歴代内閣が踏襲している歴史的立場である。「崇高な日本人」史観とは、まったく砂上の楼閣、机上の空論に過ぎないのである。
更には保守界隈、ネット右翼界隈で盛んなのはこれに加えて「日本人が人種差別に立ち向かった」とする一種の神話がまかり通っていることだ。この中で必ず出てくるのは、第一次大戦後のパリ講和会議(1919年)で、戦勝国となった日本が当時の国際連盟に提出した「人種的差別撤廃提案」である。つまり第一次大戦後、戦勝5大国(米英仏伊日)のなかでの唯一の有色人種が日本であった。日本は当時とりわけ欧米で根強かった(黄禍論等)有色人種への差別撤廃の為に講和会議でこの事案を持ち出したが、他の列強に拒否されて沙汰闇になった…という事実である。これを保守派やネット右翼は「必ず」といってよいほど「崇高な日本人」史観の中に登場させ、「日本民族こそが差別撤廃を願った」として、日本人の道徳性と正義感、ひいては無差別性を強調しているのである。
いかにも、パリ講和会議で日本が「人種的差別撤廃提案」を出したことは事実である。が、その当時(1919年)、日本は朝鮮半島と台湾等を植民地支配し、国際的には「人種差別撤廃」を謳っていたが、実質的には他民族を服属させ、支配していた。要するに1919年の日本政府による「人種的差別撤廃提案」は政治的ポージングに過ぎず、実際は人種差別を主張する当事者である日本が他民族への搾取と差別を行っていたというに二枚舌・矛盾を解決できないでいた。そして昭和の時代に入り、大陸侵略を目論む日本軍部・政府等は満州事変を経て「同じアジア人」である中国侵略と、「大東亜共栄圏」の下、東南アジアの被欧米植民地へ軍を進めていったのは既知のとおりである。
・差別をしない日本民族、のウソ
事程左様に、「崇高な日本人」史観とは、全く根拠のない空想であると喝破せざるを得ない。そもそも日本民族は、明治国家建設以前の近世期に於いてさえ、「他民族」たるアイヌ等への圧迫(土地・権益略奪)と搾取(不当交易)を繰り返してきた(江戸期・松前藩等)。そういった歴史的な日本人の差別(加害者)の事実がありながら、「日本には欧米のような人種差別問題は極めて少ない~」というのは、全くの妄想・歴史改変でしかない。また更にさかのぼれば、戦国の世が終わって琉球王国を薩摩藩が服属させ、明を経て清朝との二重朝貢国としながらも実際は日本の服属地としておいた数次の「琉球処分」を如何に見做すのか。「崇高な日本人」史観にはその答えが全く無い。
このような厳然たる事実を以てしても、ナイキPR動画への反発は止まることを知らない。「日本には欧米のような人種差別問題は極めて少ない~」という彼らの主張は、ナイキPR動画への反発の主軸を占めるに至っていると観測する。最終的に筆者は、こういったナイキCMへの反発の声が主に日本国内における「ネット右翼」から発せられている点を鑑み、彼らの思想背景を次のように結論する。
1)ネット右翼は私の調査・研究の通り概ね「中産階級・高学歴」であり、であるからこそ順法精神が高く、不道徳な行い、反社会的な行為を嫌う傾向がある
2)1)の如くネット右翼はいわば比較的恵まれた環境の中で育ち、恵まれた環境で温和で同質的なコミュニティの中で生きてきたので、元来「他民族を差別をする」という概念が、事実であってもその認識に於いて希薄である
3)2)に述べたように、実際に彼らは民族差別を行っているが、それは「日本社会における秩序の維持・回復」に眼目が置かれており、それが差別だという認識は無い(差別を区別と言い張る)
という、3点に尽きる。つまりナイキCMに反発するネット右翼層は「中産階級の温室育ちで、異質な他者との共存や、それによって起こる摩擦をあまり経験してこなかった”社会的優等生”」であり、それが故に欧米の人種差別問題と日本でのそれが同一にされることを嫌う。
つまり彼らは、その出自が社会的に優遇された中産階級の出身者によって寡占され、過酷な差別や民族対立を身近で感じてこなかったからこそ、「日本社会には人種差別は少ない」と言い切れるのである。これは彼らのいわば「温室育ち」に依拠する実体験がそうさせている。これが論拠に、おおむねネット右翼はタトゥーや反社会的な団体とのつながりを殊更禁忌し、「反日的」と言い換えている。驚くべきことに、私の実体験で言えば、ネット右翼層には所謂「お嬢様」育ちや「お坊ちゃん」育ちの優等生が多い。しかし実際は、そういった差別などの不道徳が、自ら及びその周辺で行われているという事実を完全に無視している。その無視の理由とは、「崇高な日本人」史観に代表される「日本人こそ世界で最も崇高で道徳的な民族である」という歪んだ思想が背景にある。
ナイキCM問題は、単なる世界的大企業のPR動画への反発では済まない、日本の保守層やネット右翼に地下茎のように張り巡らされた「崇高な日本人」史観をあぶり出しているように思える。これを解消しない限り、日本に居住する他民族への圧迫や差別は平然と「差別でなく区別」と正当化されて継続されるだろう。そしてこのような、「日本人こそ世界で最も崇高で道徳的な民族である=日本に差別などない」という主張を主眼とした書籍や雑誌が、書店で平然と平積みされているとき、私たちはナイキPR動画の持つ意味の重さを痛切に感じざるを得ない。(了)
1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家。日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コアマガジン)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか』(イースト・プレス)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。
今日は長くなりましたので私のことはやめておきましょう。