家なき人のとなりで見る社会 第25回:
小林美穂子
マガジン9 2023年1月25日
第25回:差別・排外主義に抗う市民たちが見せる希望~共生は国を救う~(小林美穂子) | マガジン9 (maga9.jp)
年末も押し迫った昨年12月26日、ホームレス化した難民・仮放免者4世帯の住まいとなる「りんじんハウス」を、つくろいスタッフやボランティアの皆さん総出で掃除した。
労働を許されず、健康保険の加入もできず、あらゆる社会保障からも除外された仮放免者たちの困窮は留まるところを知らない。
外国人の医療をサポートする「北関東医療相談会」と「つくろい東京ファンド」を掛け持ちで働く大澤優真さんの携帯電話には、緊急性の高いSOSが連日舞い込む。お金がなくて病院にかかれず、治療が遅れて重篤な状態になる人、ホームレス化してしまう人、自殺を試みたが死にきれず、運ばれた先の病院で応急手当だけされ、生々しい傷のまま家に戻された挙句にホームレス化した人……。
去年までに部屋を提供した7世帯分だけでも、家賃、光熱費の全額を団体が援助するため、小さな民間の支援団体の能力はとうに越えていた。しかし、緊急性の高いSOSは連日届く。なんとかしなくては、しかし、どうしたらいい……大澤さんは東奔西走しながら頭を抱えていた。
そんな時に「良かったら自分の物件を使って」と申し出てくれた人がいた。それが「りんじんハウス」である。天の助けのようなこの物件には、今年から4世帯が入居することになる。
そこでクラウドファンディングでご寄付を募ったところ、ありがたいことにあっという間に目標金額を達成することができた(※2月28日まで募集中)。
が、しかし、彼らは事情があって国に帰れない人達だ。難民認定や在留許可が出ない限り、この苦境はエンドレスに続くことになる。私達民間団体は、いつまで彼らを支えることができるだろう。
労働さえ許してくれれば、健康保険に加入できれば、自力で生活できる人が殆どであるのに、なぜこの国は兵糧攻めのような、拷問のようなことを平気でし続けるのだろう。
ネットでは「国に帰れ!」の大バッシングだが……
日本の入管の収容施設では2007年以降17人の方が亡くなっていて、うち5人は自殺である。2021年3月にはスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが入管施設内で亡くなった。そのことを機に、ブラックボックスだった入管に耳目が集まり、この国が難民条約に加盟していながら、実際は難民認定率が1%に満たないこと、「帰れない」人達に帰国を促すこと以外しないことを疑問視する人も増えた。
多くの人が関心を持ってくれたきっかけが、誰かの死であることが悲しい。せめて、これ以上、犠牲者を出してはならない。そう願っていた昨年11月18日、仮放免から再収容されたイタリア人男性が、港区の入管施設で死亡した。自殺と見られるとニュースは伝えている。2007年以降の入管施設内での死亡数は18人になってしまった。
こうした事態を重く見る市民の輪は今、どんどん広がりを見せている。
個人で難民・仮放免者たちを支援する人、入管施設の人権侵害や暴力を発信する人、デモに参加する人、外国人と市民が交流するイベントを開催する有志、そして部屋を貸してくださる大家さんなど、市民レベルの助け合いの輪は広がっている。
しかし、SNS上には外国人に対するむき出しの憎悪も溢れている。相手の事情を知ろうともせず、難民認定率の低さに疑問も持たず、「国へ帰れ」と叫ぶ。最も弱い立場に置かれ、抵抗することもできない人達を、匿名性に安全を担保された自称愛国者たちが攻撃する。
排外主義丸出しの醜い罵詈雑言を見ていると、私はいつも情けなくなる。そして思い出す。日本人が海外で困った時、その国の人々がどうしたかを。
アメリカでホームレスになった高齢男性のケース
2016年6月、アメリカから一人の高齢男性Mさんが帰国した。1970年代初めに渡米したものの、派遣先の会社が倒産をしたところから職を転々、最後には家賃を払えなくなり、90歳近い老いた体で6年もの長い間、路上生活をしていた。
洋服や毛布など、生活に必要なものすべてをカートにギッシリと詰めこんで、決まったルートを押して歩く。そんなMさんを家から見ていたアメリカ人青年がいた。
青年は、高齢で小柄なアジア人男性が巨岩でも押すようにカートを押して歩く姿を見て、とても心を痛めた。痛めたが、行動に移すことはなかった。
しかし、青年は2度目にMさんを見た時に、「また見て見ないふりをするのか」と自問し、ついにMさんに歩み寄った。それがMさんの帰国につながる出会いの瞬間だった。
青年はその後、日本人コミュニティとネットワークを作り、Mさんの帰国のための費用をクラウドファンディングで集めることになる。在米日本人の協力者が部屋を提供し、青年が広く協力を呼び掛けた結果、250人から1万2400ドル(約140万円)の寄付が集まった。
同時に、帰国後のサポートをする日本国内の支援団体を探し、つくろい東京ファンドに白羽の矢が立つ。当団体は高齢者であるMさんが入居できる部屋を借り上げ、そして、6月、Mさんは青年に伴われ、帰国したのである。日米の個人、民間の支援者が連携して実現させた帰国劇だったが、異国の地で何度も死ぬことを考えたMさんを支えたのは、所持金がないMさんにそっとコーヒーを出してくれる有名コーヒー店だったり、彼に声を掛け、帰国プロジェクトを立ち上げた青年や、日本人を含む現地の人達だった。
日本人が異国でホームレス状態に、その時市民は……
Mさんが帰国してから2カ月後の8月、私のフェイスブックアカウントに、東南アジアの友人や知人からほぼ同時にメッセージが届いた。内容はみんな一緒で「この人を助けてあげて」であり、地元紙が添付されていた。
記事には、現地で働いていた日本人男性A氏が事業に失敗し、その後、火事や盗難でパスポートや身分証明書、家財道具の一切を失いホームレス状態になっていること、健康状態が著しく悪いこと、在留許可が切れていることが書かれており、見出しには大きな文字で「日本に帰りたい」と書かれていた。
Aさんを支援していたのは、小さなその町の有志たちだった。持ち回りでAさんを家に泊め、病院に連れて行き、食事を提供していたが、Aさんの体調不良は日に日に深刻さを増していった。
日本人が海外で困窮しても、日本政府(大使館や領事館)は動かない。
私は8月に男性のことが新聞に掲載されてから、個人の支援者たちである町の住人たちと粘り強く連絡を取り合っていた。
支援者たちはAさんを助けない領事館を訴えようとしていた。しかし、ことは全くうまく運ばない。そうこうしている間にも、Aさんの病状は悪化し、このままだと生きて故郷の土を踏めなくなると判断した翌年3月、私は国際電話をかけまくり、領事館の尻を叩きまくって、ようやく膠着状態にあったAさんの帰国が実現することとなった。
3月半ば、早朝の空港で、私は何十年ぶりかに帰国したAさんとようやくお会いすることができた。その後、Aさんはつくろい東京ファンドのシェルターに入所し、大手術も経験し、今はMさんと同様、生活保護制度や介護サービスを利用しながら地域で一人暮らしをしている。
在留資格を切らし、家も所持金も失い、重い病気を患った彼の命をつないでくれたのは、東南アジアの小さな町の人達だった。
私達は共存共生できる
MさんもAさんも帰国を希望していた。地元の人々は、MさんとAさんの意思を尊重し、希望が叶えられるよう、それぞれができる限りの支援をした。
しかし、日本にいる仮放免者や難民の方々は、帰りたくても帰れない人達だ。この国で明日が見えなくても、収容されて酷い人権侵害を味わっても、それでも自分の国には帰れない。
「帰れない」。そういう人達を国や市民が非難し、攻撃し、心理的に追い詰め、破壊する意味はなにか? そこから何か得るものはあるのか? そんなことより、彼らが日本で暮らせるようサポートする方がよほど双方の利益にならないか。損得の問題ではないが、より多様で寛容、今風に言えばサステイナブルな社会になると思うのだが違うのだろうか。
日本人が海外で困窮し、途方に暮れた時、町の人々は彼らを精一杯、助けた。
日本人も外国籍の人達に対して、そう振る舞う国民でありたい。
りんじんハウスの掃除には、建物を提供してくださった大家さんも加わった。スタッフのお義母さまの家具や家電が運び込まれ、4世帯の入居が徐々に始まっている。
衰退し、滅びゆく国に必要な変化とは
日本に10年滞在したBBCの記者が帰任前に書いた“Japan was the future but it’s stuck in the past”と題された記事を目にした。(日本語版の記事はこちら)(mooruより、是非ご一読をお勧めします)
過去の栄光はとっくに過ぎ去り、30年間市民の生活の質が向上せず、衰退し、破滅に向かう日本を書いた記事だった。衰退の一途から起死回生をはかるには「変わる」ことしかないのだが、残念ながらその見込みはないであろうと記者は書いている。
この記事の中でとりわけ印象的だったのは、記者が房総半島の限界集落を訪ねた時のエピソードだ。若者はみな都市に移り住み、60人いる村人のうち10代はたった一人。子どもはいない。老人ばかりのこの村で、彼らは「自分たちの死後、誰が墓を守るのか」と心配している。
記者は東京への利便性や絵葉書のような村の美しさに触れ、「私が家族を連れて移住するといったら?」と聞くと、老人たちはみな顔を見合わせ、気まずそうにする。そして「それには、私たちの暮らし方を学んでもらわないと。簡単なことじゃない」と答える場面だ。
「村は消滅寸前だというのに、よそ者に侵入されることの方がもっと悪い事態だと思っているのだ」と記者は呆れている。
記事では移民受け入れの少なさにも触れ、「出生率が低下しているのに移民受け入れを拒否する国がどうなるか知りたいなら、まずは日本を見てみるといい」と辛辣だ。
過去にポツンと取り残され、それでも変わることを拒む国や社会は、記事にあった房総半島の村のように消滅する運命にあるのだろう。そんな運命に抗うように、市民たちの助け合いは始まっている。国籍や背景を乗り越えて、多様な人達との共存の道を探り、手を差し伸べ始めている。市民一人ひとりの意志に希望を感じる。あなたも是非、参加してほしい。
小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。
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銀行勤めから、芸能活動から…ミャンマー国軍に銃を向ける若者が後を絶たないわけとは
「東京新聞」2023年1月29日
昨年10月、東京都内の斎場にミャンマーから駆けつけたコーコー(31)=仮名=は、脳出血で急死した父(59)と20年以上を経て再会した。1990年代、公務員だった父は当時の軍事政権に不満分子と見なされ、日本に逃れて難民認定を受けた。「親子とも国軍に人生を狂わされた」。葬儀後、一人号泣した。
コーコーは最大都市ヤンゴンで大学を卒業し、銀行で働いていた。クーデター後は他の多くの市民とともに抗議デモに加わった。
◆平和的に抗議しても死ぬだけ
転機となったのは2021年3月。一緒にデモに参加した17歳の医学生が目の前2メートルほどで治安当局の銃弾に倒れ、命を落とした。市民への武器使用を繰り返す国軍や警察。「平和的に抗議しても死ぬだけだ」と決意を固め、民主派の武装組織「国民防衛隊(PDF)」になる道を選んだ。
同年5月、訓練を受けるため、少数民族武装勢力「カレン民族解放軍(KNLA)」の支配する東部カイン州に入った。初めて銃を手にし、爆弾の製造法を教わった。学生や農民、教師、医師、画家、格闘家もいた。
5カ月後、上官の命令でヤンゴンに戻った。ひそかに武器を運び、国軍の動きを観察する役目だった。安全のため住居を転々としたが、22年に入って仲間が次々逮捕された。「拷問され、自分の話もしているかもしれない」。眠れぬ夜を過ごした。
「ヤンゴンを離れよう」と悩んでいた昨年9月末、父が急死したという知らせを受けた。ブローカーを通じてパスポートを取得し、日本に渡った。
「何人もの命が奪われた」とコーコー。同じ部隊だった10代と20代の若者も国軍に殺された。父の葬儀後も、拘束の恐れがある母国へは帰れない。日本で難民認定を申請し、街頭で民主派への支援を訴える。
コーコーが銃を持ったカイン州は都市で活動するゲリラの訓練拠点であり、戦闘の最前線でもある。今年の元日も、同州チャインセイジー郡区では銃声が鳴り響いていた。PDFやKNLAの合同部隊が年末に国軍部隊の拠点を攻撃し、数日間続いた戦闘で双方に大きな犠牲が出た。
◆突然、何かが頰を貫いた
クーデター前まで芸能活動をし、昨年3月にPDFへ加わったタウンナガー(31)=仮名=は取材に応じたとき、頰ほおから首筋にガーゼが張られ、左手の中指には包帯が巻かれていた。
「私たちは国軍側の三つの拠点に攻撃を仕掛けた。一つの拠点を押さえて陣取り、残り二つを攻撃しようとした」。そのとき国軍の空爆が始まり、「突然、何かが頰ほおを貫いた」。左手の中指は血まみれになり、ちぎれかけていた。
今は近くの村の診療所で治療を受けたが、前線に戻れるかは分からない。
クーデター後、ミャンマー各地でPDFが誕生し、若者を中心に6万人超が入隊したといわれる。入隊希望者はなおも絶えない。コーコーやタウンナガーは、特別な体験をした若者ではない。(文中敬称略)
非暴力を貫いてほしいと思うが、最大の経済的支援国家日本との関係を断ち切らなければならない。それが一番早い解決方法だ。
今朝の雪も半端ない。