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沖縄戦“終結”79年 きょう慰霊の日

2024年06月23日 | 社会・経済

沖縄戦の晩発性PTSD報告 精神科医が警鐘「戦争トラウマの世代間伝達はひ孫まで及んでいます」

日刊ゲンダイ2024/06/22

  蟻塚亮二(精神科医)

 

 ほどなく戦後79年を迎えるが、平和国家としての歩みは年を経るごとに危うくなっている。県民の4人に1人が犠牲となった沖縄では、惨禍を生き抜いた高齢者が晩発性PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、社会問題の根っこには戦争トラウマの世代間伝達が潜んでいるという。にもかかわらず、米国主導で自衛隊の南西シフトは進み、在日米軍との一体化が加速。住民の不安は置き去りだ。戦火は沖縄に何をもたらしたのか。6月23日の慰霊の日を前に、心の傷に向き合う医師に聞いた。

  ◇  ◇  ◇

 ──2011年の沖縄精神神経学会で戦争体験者の晩発性PTSDを報告されました。長い年月を経て発症することから、そう名付けられたそうですね。

 縁あって2004年に沖縄に移住するまで、青森県弘前市の病院に勤めていました。数えきれないほどの精神鑑定を行い、検察からの依頼で起訴前鑑定をしたり、過労性うつ病で自殺した方の労災認定に関する意見書を書いたりもしてきたのだけれど、沖縄ではこれまで見たことのない症例にいくつもぶつかった。ひとつが「奇妙な不眠」。原因不明の不眠を訴える高齢患者を立て続けに診ることになったのです。その症状は、ホロコースト生還者の精神症状に関する論文の記述と酷似していた。そこで「沖縄戦の時はどこにおられましたか」と尋ねたところ、子どもの頃に戦場を逃げ歩いた体験があることが分かった。戦争トラウマの後遺症による過覚醒型不眠に苦しんでいたんだね。

 ──どういうことですか。

 眠りにつこうとすると、「起きろ、起きろ」と妨害するトラウマ刺激によって睡眠が中断したり、目覚めてしまうタイプの睡眠障害です。戦時記憶の増大、不安発作やパニック発作、解離性もうろうなどの症状も認められた。「足の裏が焼けるように痛い」と訴えた女性は、日本兵に壕から追い出されて死体を踏みつけてしまっていた。大枠ではありますが、フラッシュバックなどの侵入的思考はトラウマ反応で、PTSDはその典型例。トラウマやストレスが原因で発症する非定型うつ病も多くみられました。

■うつ病や不眠症のふりをして出現

 ──うつ病とどう違うのですか。

 従来型のうつ病が「朝は憂鬱気分が強い」のに対し、「朝は鉛のように体が重い」「夕方に寂しくなり、わけもなく涙が出る」のが非定型うつ病です。同じように見えるけれど、全然違う。非定型うつ病はつまり、新型うつ病です。12年に関係者の協力を得て「沖縄戦を体験した高齢者の心への影響について」という400人調査を実施したところ、約4割がPTSDを発症する可能性が高いことが浮かび上がった。PTSDはうつ病や不眠症のふりをして現れるんだね。

 ──なぜ沖縄の医療関係者は戦争トラウマに気づかなかったのでしょう?

 那覇市の精神科医の集まりで先輩方に聞いたところ、「家族や親戚に必ず沖縄戦体験者がいるから、子ども時分から戦争を口にするのはタブーだった」ということでした。根掘り葉掘り聞いて苛烈な体験を思い出させるのがはばかられ、そういう発想には至らなかった。「死ぬまで語らず、あの世まで持っていこうとしていた記憶を蟻塚先生に見つかってしまったなあ」と言われました。

 ──「見つかってしまった」という言葉にさまざまな思いがこもっています。

 激戦地だった伊江島では、夏祭り終盤の花火打ち上げに差し掛かると、高齢者を帰宅させるそうです。フラッシュバックを回避させる思いやりだね。在沖ジャーナリストの山城紀子さんに聞いた話では、高齢者施設の入居者は慰霊の日の前後になるときまって叫び声を上げたり、不穏になるそうです。その多くが認知症で、日付は分からないのに。温度や湿度が戦時記憶を呼び起こすのではないか、とのことでした。沖縄社会にはいまなおトラウマが充満している。「ハイサイおじさん」という喜納昌吉さんのデビュー曲があるでしょう。

■「ハイサイおじさん」と精神病多発

 ──志村けんさんが「変なおじさん」に替え歌した曲ですね。

 喜納さんの幼少期の体験に基づいているんだよね。酒に溺れていた近所のおじさんが帰宅すると、娘の姿が見えない。精神に変調をきたした妻が娘の首を切り落とし、大鍋で煮てしまっていた。1962年にコザ市(現沖縄市)で起きた事件です。妻は戦争精神病を患っていた可能性が高く、おじさんのアルコール中毒も戦争の影響があったように思います。

 ──孤独になったおじさんと喜納少年の交流が、あの底抜けに明るい曲を生んだんですよね……。

 戦後15年前後の60年代は統合失調症が急増する「精神病多発時代」、戦後18年にあたる63年は「戦後最悪の少年非行の年」と呼ばれたの。統合失調症を発症するのは人口1000人に対して8人程度。ところが、66年に実施された沖縄県精神衛生実態調査では、本土の有病率に対して3倍以上も高かった。戦前は本土と何ら変わらなかったのですから、明らかにおかしい。一方で、少年非行による強姦、強盗、殺人、放火などの凶悪犯罪が爆発的に増えた。統合失調症は遺伝的要因があるものの、周産期や思春期のストレスなどの環境要因によって発症するという学説がある。遺伝的脆弱性のある人は統合失調症になり、そうでない人は非行に走ったのではないか。どちらもトラウマ反応で、戦争ストレスによる車の両輪だと考えています。

戦争の影響は世代を超え、精神的問題を発生させ続けています

 ──トラウマの世代間伝達に警鐘を鳴らされています。

 外来患者にうつ病で通う50代女性がいました。母親が戦場を逃げ回った戦争第1世代で、成人後にうつ病を患って何度も自殺未遂をした。第2世代の女性も手首自傷を繰り返し、第3世代にあたる娘が18歳で未婚の母になったと思ったら、赤ん坊を母親に預けていなくなった。第4世代の子どもをネグレクトしたんだね。戦争トラウマや貧困によって第1世代が第2世代を十分にかわいがることができず、愛着障害が生じ、それが4世代にわたって母子間の養育関係に影響を与えてしまった。戦争の影響は世代を超え、精神的問題を発生させ続けています。いったん脳に刻み込まれたトラウマ記憶というものは、風化しない。表面化しなくとも脳の中で生き続け、近親者の死などが引き金となり、PTSDとして発症する。5年後かもしれないし、10年後、20年後、あるいは60年後かもしれない。トラウマは寝たふりをしているんだ。

 ──治療はどう進めるのですか。

 患者さんには必ず「つらいことがあったのに、よく生きてきた。あんたはエラい」と声をかけ、ハイタッチをします。トラウマというのは、圧倒的なストレスによって不可逆的な記憶が刻印されること。過去の出来事なのに、ベリーホットで生々しい。だから、いったん思い出すと体が締め付けられたり、震えたり、涙が出たりする。現在進行形の熱さ、勢いがあるため、記憶の時系列が混乱していると言える。これを過去形にするのがトラウマ治療なのね。現在進行形の熱さを持つ記憶を過去の冷えた記憶にする作業なのだけれど、今の自分を肯定できなければ難しい。苦痛に満ちていたら「つらかったけど、今があるからいいや」とはならないでしょう。よしとできない暮らしでは、トラウマを過去形にして克服することはできないんです。これまた縁があって、復興支援のために設立された福島県相馬市のクリニックに13年に赴任したのだけれど、津波や原発事故などに直面して非定型うつ病を発症した患者はザラにいる。トラウマ反応の一症状ですから。沖縄戦のトラウマ診断と治療について身につけたノウハウは相馬でも非常に役立っています。発災から数年経って遅発性PTSDが目立ちはじめましたが、おそらく晩発性PTSDも出てくるでしょう。被災者は沖縄戦体験者と同じ苦しみを味わっている。

(聞き手=坂本千晶/日刊ゲンダイ)

蟻塚亮二(ありつか・りょうじ) 1947年、福井県生まれ。弘前大医学部卒。青森県弘前市の藤代健生病院院長などを経て、2004年から那覇市の沖縄協同病院などに勤務。13年から福島県相馬市のメンタルクリニックなごみの院長を務める。仙台市在住。診察のため月1回ペースで沖縄市に通う。「悲しむことは生きること」「沖縄戦と心の傷」「うつ病を体験した精神科医の処方せん」など著書多数。

 

⁂     ⁂     ⁂

 沖縄「慰霊の日」戦没者追悼式

■平和の詩 全文

 

「これから」

 

短い命を知ってか知らずか

蝉が懸命に鳴いている

冬を知らない叫びの中で

僕はまた天を仰いだ

 

あの日から七十九年の月日が

流れたという

今年十八になった僕の

祖父母も戦後生まれだ

それだけの時が

流れたというのに

 

あの日

短い命を知るはずもなく

少年少女たちは

誰かが始めた争いで

大きな未来とともに散って逝った

大切な人は突然

誰かが始めた争いで

夏の初めにいなくなった

泣く我が子を殺すしかなかった

一家で死ぬしかなかった

誰かが始めた争いで

常緑の島は色を失くした

誰のための誰の戦争なのだろう

会いたい、帰りたい

話したい、笑いたい

そういくら繰り返そうと

誰かが始めた争いが

そのすべてを奪い去る

 

心に落ちた

暗い暗い闇はあの戦争の副作用だ

微かな光さえも届かぬような

絶望すらもないような

怒りも嘆きも失くしてしまいそうな

深い深い奥底で

懸命に生きてくれた人々が

今日を創った

今日を繋ぎ留めた

両親の命も

僕の命も

友の命も

大切な君の命も

すべて

 

心に落ちた

あの戦争の副作用は

人々の口を固く閉ざした

まるで

戦争が悪いことだと

言ってはいけないのだと

口止めするように

思い出したくもないほどの

あの惨劇がそうさせた

 

僕は再び天を仰いだ

抜けるような青空を

飛行機が横切る

僕にとってあれは

恐れおののくものではない

僕らは雨のように打ちつける

爆弾の怖さも

戦争の「せ」の字も知らない

けれど、常緑の平和を知っている

あの日も

海は青く

同じように太陽が照りつけていた

そういう普遍の中にただ

平和が欠けることの怖さを

僕たちは知っている

 

人は過ちを繰り返すから

時は無情にも流れていくから

今日まで人々は

恒久の平和を祈り続けた

小さな島で起きた

あまりに大きすぎる悲しみを

手を繋ぐように

受け継いできた

 

それでも世界はまだ繰り返してる

七十九年の祈りでさえも

まだ足りないというのなら

それでも変わらないというのなら

もっともっとこれからも

僕らが祈りを繋ぎ続けよう

限りない平和のために

僕ら自身のために

紡ぐ平和が

いつか世界のためになる

そう信じて

 

今年もこの六月二十三日を

平和のために生きている

その素晴らしさを噛みしめながら



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