中村不折氏からの手紙は日常的なものもあれば
氏が置かれている状況などを推測できる手紙がある
其の時代を窺い知る事が出来ることは素晴らしい
今回は 雪邦氏ほどではないものの 国の仕事を優先する内容が取れる
又 この年 不折氏は昭和九年「太平洋美術学校校長」に就任している
祖父が画をお願いしたようですが それが出来ず詫び状を書いてきたようです
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長野県諏訪市神宮寺 自由也様
昭和 九年 八月 七日 東京下谷上根岸一二五 中村 不折
拝啓 ひどい暑さでも御かわりなく御よろこび申上げます
偖 兼々御依頼の画も基節御ことわり申候 處 たってのお頼にて
当惑致居候處 基上何分老体の上に多用と暑気に困しめられ思ふやうに
執筆出来ず困居候 其上帝國の出品にて 最終的に製作せねばならずよりてドウしても
十月団に相成て候 左様御了承被下度候
先日は又 結構な御肴 御送与相成有りがたく存候
一同御よろこびにて頂戴致侯
先は用事旁々御礼迄
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「年もいっており この気候から体調管理もままならず
国の出品を最終的にしなくてはいけないので
依頼されれた画を描く余裕が無いので申し訳ない」という内容だと思える
昭和九年(一九三四年)の不折の状況を調べると 不折氏は「太平洋美術学校校長」に就任している。
太平洋美術学校とは
1889年に小山正太郎、浅井忠らによって結成された
明治美術会は白馬会の独立などで勢力が衰え、
1901年に解散したが、吉田博、石川寅治、
中川八郎ら一部の作家達は「太平洋画会」を結成し
1902年(明治35年)春に第1回展を開催した。
後に、フランスに留学していた鹿子木孟郎(1904年帰国)、
中村不折(1905年帰国)らも加わり、反白馬会系の一勢力になった。
1904年太平洋画会研究所を開設して、後進の育成も行った
(1929年、「太平洋美術学校」と改称、初代校長は中村不折)。
戦災を受けた後、1957年に再開し、現在は太平洋画会研究所として続いている。