土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

丹生都比売神社は空海さんとの関係が濃密な神社です。

2012年10月25日 | 和歌山の古寺巡り


(2012.10.20訪問)

高野山参詣道の一つ、慈尊院からの町石道の途中に丹生都比売神社がありますが、ひ弱な体は歩けません。
慈尊院から県道13号、109号をクルマで山越え、細くグニャグニャの山道をオソルオソル走り、丹生都比売
大神が鎮まる天野の地を目指します。
空海さんが高野山開創と壇上伽藍建立の前に着手し高野山鎮守とした御社(みやしろ)造立は丹生都比売神
社の祭神丹生都比売大神と高野御子大神を勧請したもので、その後の丹生都比売神社は高野山との繋がりが
相当深いものがあるそうです。

▼鏡池に映るなんとも美しい弧を描く太鼓橋、輪橋。一直線に本殿に向かいます。




[ 丹生都比売神社 ]
●社号 丹生都比売神社(にゅうつひめじんじゃ)
●開創 (四世紀ごろ)
●社格 旧官幣大社 紀伊国一宮
●祭神
 第一殿 丹生都比売大神 (にゅうつひめのおおかみ)  またの名(丹生明神)にゅうみょうじん
 第二殿 高野御子大神 (たかのみこのおおかみ)    またの名(狩場明神)かりばみょうじん
 第三殿 大食都比売大神 (おおげつひめのおおかみ)  またの名(気比明神)けひみょうじん
 第四殿 市杵島比売大神 (いちきしまひめのおおかみ) またの名(厳島明神)いつくしまみょうじん
●平成十六年(2004年)「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録。

丹生都比売神社縁起 (丹生都比売神社HPより抄出)
紀ノ川より紀伊山地に入り標高四百五十メートルの盆地天野に当社が創建されたの、今から千七百年前のこ
とと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である「丹生大明神祝詞」によれば、丹生都比売大神は天照大
御神の御妹神で稚日女命 (わかひるめのみこと)と申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州大和を
巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。
ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、魏志倭人伝には既に邪馬台国の時代に丹
の山があったことが記載、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、
この地に本拠を置く日本の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は八十八社、
丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社はその総本社であります。

●空海さんと丹生都比売神社の由緒 (丹生都比売神社HPより抄出)
丹生都比売大神の御子、高野御子大神(狩場明神)は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、
黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神から神領で
ある高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きま
した。
http://blog.goo.ne.jp/mrslim2/d/20120110 をご覧下さい。

▼外鳥居。丹色が映える鳥居、ここから一歩入れば神域です。奥に見えるのが輪橋です。




▼社名石標。




▼外鳥居横に丁寧な境内イラストマップが掲示されています。




▼鏡池に架かる輪橋。反り橋の形状になったのは淀君が寄進した時と伝わるそうです。




▼鏡池の中央、方形小島の小社。




▼中鳥居。高さ約7mの鳥居の手前はご神橋、奥に楼門が見えます。平成二十二年再建。




▼手水舎。




▼楼門 (重文)。三間一戸、梁行二間、重層、十二脚門、入母屋造、檜皮葺。
明応八年(1499年)建立。堂々の立派な楼門です。




▼楼門から四本殿を望む。右から第一殿、第二殿、第三殿、第四殿。




▼ちょうどお宮参りのご家族でしょうか、神官による祈祷中でした。




▼本殿。




▼本殿 (重文)。手前から第一殿、第二殿、第三殿、第四殿。一間社春日造、檜皮葺。鎌倉時代、北条政子の
寄進、室町時代に復興。




▼横から見た本殿の第一殿。




▼社務所の玄関、七五三衣装の飾りつけで巫女さんが頑張っていました。




▼参拝後は輪橋の構造美に感心しながら丹生都比売神社を辞しました。これから山越えで帰ります。




山々に囲まれた鄙の地に鎮座する重厚立派な丹生都比売神社、広い神域はとても明るい地でここが小盆地で
あることがよくわかります。女神丹生都比売もあまり不便な深山高峰よりも生活優先でこの地を選んだので
しょうか。



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