(2018.07.28訪問)
先月6月23日に訪問した「神呪寺」から次に「清荒神清澄寺」に向かったんですが雨次第に強くこの日の訪問は止むを得ず中止した
ので、然らばこんど何時訪ねるか、今日訪ねました。清荒神清澄寺は我が家の菩提寺中山寺のホンご近所にもかかわらず、8年前に
一度訪ねたきりその後ご無沙汰。お寺参詣は勿論のこと、このお寺、富岡鉄斎の書画が充実していると聞き、特にその「書」を是非
是非見たくて再訪したんです。
▼山門前に建つ蓬莱山清澄寺の石柱。
[ 清荒神清澄寺 ]
●山号 蓬莱山 (ほうらいさん)
●寺号 清荒神清澄寺 (きよしこうじんせいちょうじ)
●宗派 真言三宝宗 (しんごんさんぽうしゅう) 大本山
●勅願 宇多天皇 (うだてんのう)
●開山 静観僧正 (じょうかんそうじょう)
●開創 寛平八年 (896年)
●本尊 大日如来坐像 (重文)
▲拝観 境内自由 朱印 300円
▲兵庫県宝塚市米谷字清シ1番地 電話0797-86-6641
▲阪急宝塚線「清荒神駅」より徒歩約15分
JR宝塚線「宝塚駅」よりタクシー約10分
中国自動車道「宝塚IC」から国道176号線宝塚歌劇場前交差点を北へ約2km。
▼山門。三門形式の山門で、明治40年頃の建立だそうです。正面の扁額には蓬莱山の山号が書かれています。
清荒神清澄寺縁起 (清荒神清澄寺HPから抄出)
平安時代宇多天皇の勅願寺として創建。天皇は定円法眼に本尊大日如来像を刻ませ、寛平8年叡山の高僧静観僧正を開山とし、天皇
より日本第一清荒神の称号を与えられ蓬莱山清澄寺として栄えました。兵乱戦火により何度も焼失、荒神社のみは難を免れ、清澄寺
も今の地に再建され、江戸時代浄界和上の諸堂再興により現在の山容が形づくられました。当山は火の神、カマドの神としてあがめ
られ、また各種の現世利益を祈願されるご参詣の方で賑わい、創建以来、千年の法燈は一日も絶えることなく今日を迎え「三宝三福」
「宗美一体」の精神で開山草創の原点に立って日々努力を続けています。
▼拝殿への参道。
▼参道石段を上がると拝殿前庭に、二人の布袋さんが迎えてくれます。
▼参道右側に護牛神堂。
▼護牛神の扁額。
▼堂内には立派なお厨子。本尊はインド祇園精舎の守護神で厄除恵方神の牛頭天王。
▼参道左には手水舎。
▼鳥居をくぐると基壇に建つ重厚な鐘楼。
▼いい響きの梵鐘でした。
▼拝殿 (天堂)。参拝の方は先ずこちらをお参りします。三宝荒神王、大聖歓喜天、十一面観世音菩薩が祀られています。
▼おりしも合行如法油供という秘法厳行の読経真っ最中。僧侶団体の読経の声は山内に響き渡っていました。
▼拝殿。内陣の様子は暗くてよく判りません。
▼護法堂。神殿造りの小さなお堂で正面には大勝金剛転輪王、右に歓喜童子、左に弁才天がお祀りされています。
▼護法堂正面のお参りの方々。
▼龍王堂。本尊は水神の「善女龍王」密教では祈雨の神さま。
▼正面格子から覗くとやはりお厨子のみ。
▼火箸納所。厄年明けに厄除け火箸を納める所です。三宝荒神王にあやかり、厄年の人が火箸で厄をつまみ出してもらうとされ、男性
41~43歳、女性32~34歳の大厄には3年間、厄が明けるまで自宅でお祀りするそうです。
▼これでもかと納められた火箸の束。
▼神変大菩薩行者洞。修験道の開祖「役行者」をお祀りしています。
▼宝稲荷社。本堂への山腹につけられた参道の途中にある一社。
本堂エリアに行ってみましょう
▼山門から本堂へ一直線に続く参道。当然ながら正面は本堂です。
▼本堂アプローチの石段。
▼石段横に一願地蔵尊。金銅製、明治24年造立。
▼本堂です。方五間、宝形造、本瓦葺、一間向拝付。
春季大祭、春秋彼岸会、盂蘭盆会等には理趣三昧法要が奉修、萬霊の供養が厳かに執り行われています。
▼かろうじて判る本尊のお姿、大日如来坐像 (重文)。ご本躰に合わしたつもりが前の瓔珞にピントがバッチリ、情けない。
▼本堂。
▼本堂宝形屋根の露盤と宝珠。
▼石畳が綺麗な境内。
▼苑池。石組を配し滝、亀島、船着石など組み合わせた池泉観賞式庭園、江戸時代初期~中期に作庭。
▼資料館。清荒神清澄寺の歴史、信仰、行事の説明と什物や所蔵品を展示しています。平成20年11月開館。
▼仏足石。
▼境内最奥の高台に建つ聖光殿富岡鉄斎美術館。清荒神清澄寺第37世法主光浄和上が半世紀以上にわたって蒐集されてきた富岡鉄斎の
作品を広く公開展示するために昭和50年4月境内に開館。
特に鉄斎「書」を期待して来たのですが、残念夏期休館中でした。いつもながら肝心なことが実現したためしがない、アアいやだ。
▼聖光殿富岡鉄斎美術館の扁額。当然鉄斎さんの書なんでしょうネ。
▼清荒神清澄寺宗務所兼寺務所。
▼ご朱印です。
清荒神清澄寺これにて オ シ マ イ 。