(2014.03.29訪問)
今週も有名女人のゆかりのお寺を訪ねました。平安時代の文豪紫式部、彼女が生まれ、育ち、母として生涯
を過ごし、並ぶものなき源氏物語はこの地で執筆されたと伝わります。一人娘の賢子も母に匹敵するほどの
歌人で後冷泉天皇の乳母として従三位典侍に昇進した才媛だったそうで、母娘が過ごした邸宅後が、この廬
山寺の地であったそうです。式部ゆかりの朝顔、今の桔梗を主役にした枯山水庭園、源氏庭に桔梗咲き誇る
シーズンは人々で溢れかえるそうです。今は想像するしかありませんが…。
▼源氏庭。
[ 廬山寺 ]
●山号 日本廬山 (にっぽんろざん)
●寺号 廬山寺 (ろざんじ)正称 廬山天台講寺 (ろざんてんだいこうじ)
●開基 伝 慈恵大師良源 (じえだいしりょうげん)
●開創 伝 天慶年中 (938~947年)
●中興 覚瑜上人 (かくゆしょうにん)寛元元年 (1243年)
●宗派 天台圓浄宗大本山
●本尊 阿弥陀三尊
▲京都市上京区寺町通広小路上ル1丁目北ノ辺町397 TEL.075-231-0355
▲拝観料 500円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:00
▲HP http://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/
▲地下鉄烏丸線丸太町駅から徒歩約20分 市バス京都駅から4.17.205→府立医大病院前下車徒歩約5分
京阪電車 出町柳駅から徒歩約15分 神宮丸太町駅から徒歩約20分
▼山門。
廬山寺縁起 (廬山寺HPから抄出)
比叡山十八世座主慈恵大師良源によって天慶年中に船岡山南に創建されました。寛元元年法然上人の弟子覚
瑜上人が、船岡山南麓に再興、中国廬山にならって廬山天台講寺と号した。応仁の乱で焼失後元亀三年、織
田信長の叡山焼き討ちは正親町天皇女房奉書により免れたが豊臣秀吉の寺町建設により天正年間に現在地、
紫式部邸宅跡地に移る。
▼木札と元三大師石標。
▼山門から大師堂。
▼大師堂。第十八世天台座主、元三大師良源 (慈恵大師) さんをお祀りしています。比叡山中興の祖と云われ
ている方でお神籤考案者としても有名ですネ。
▼大師堂正面。
▼手水舎。この手水舎をよく見ると、基石からして水平でなくボコボコ、手水鉢、井戸も水辺垂直部分があ
りません。柱もこころなしか、傾いて見えます。写真のヘタさだけではないようにも思えるんですが。
▼手水鉢と井戸。唯一水平は手水鉢の水面だけです。
▼ミツマタ。境内の片隅にひっそりと賑やかに咲いています。
▼鐘楼。
▼ミツマタの花ってこんなんなんですネ。
▼境内。左大師堂から庫裡、玄関、本堂まで棟続きになってます。
▼宝篋印塔。相当立派な石塔ですが細不詳です。
▼紫式部と娘の大貳三位藤原賢子の歌碑。
左紫式部の歌
めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに
くもがくれにし 夜半の月影
右大貳三位の歌
有馬山 ゐなのささはら 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする
▼本堂への玄関。
▼本堂。光格天皇の勅命で仙洞御所の一部を移築し、改装したものと伝えるそうです。
▼本堂仏殿。本尊 阿弥陀三尊。近寄れませんのでお顔を見ることは出来ません。
▼源氏庭。本堂前庭枯山水庭園「源氏庭」。源氏雲形の苔と白砂による枯山水。初夏から秋の桔梗の島植え
は大人気らしいですネ。紫揺れる苔島を想像してみてください。
▼源氏庭。作庭は昭和四十年(1965年)
▼源氏庭。
▼源氏庭。左の建物は御黒戸尊牌殿。光格天皇と皇后の尊碑が安置されています。本堂と同様仙洞御所の一
部を移築し、改装したものと伝えるそうです。
▼源氏庭。庭に植えれている唯一の桜。
▼源氏庭に紫式部顕彰碑。
紫式部は、平安京東郊の中河の地、現在の廬山寺の境内に住んでおりました。この邸宅で育ち、結婚生活を
送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(1031年)五十九歳で死去したといわれております。
紫式部は藤原香子と呼び、「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」などは、ほとんどこの地で執筆された
ものであります。この遺跡は考古学者角田文衛博士によって考証されたものであります。そして昭和四十年
十一月、境内に紫式部邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられました。顕彰碑揮毫は新村出博士。
(廬山寺HPから抄出)
▼椿。
▼薬医門。
▼ご朱印です。
紫式部邸の名残りは今や探しようがありません。ただ歌碑と顕彰碑がそれを伝えるだけ。平安才媛が残した
雅な貴族社会の一端をその破天荒物語から偲ぶしか手はないようです。この地は御所のすぐ東側、意味深な
場所で式部は執筆したことだけは確かなようですネ。
御苑の近衛邸跡の枝垂が凄いことになってるそうなのでチョット見に行ってきます。
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