(2016.07.16訪問)
今日の迷車大和路号は、我が大大阪にも郡名が残る南河内郡太子町を目指しております。
最古の官道竹内街道の近く磯長の地に叡福寺はあります。聖徳太子磯長陵墓を守護するためのお寺として創建されたといいます。
太子信仰の中核をなした古刹として「上の太子」と称され近辺には太子信仰をバックボーンとしたお寺が点在「中の太子」と称さ
れる野中寺、「下の太子」大聖勝軍寺と共に三太子の一つに数えられているお寺です。広い境内は整然と整備され、非常にきれい
なお寺です。
▼参道石段先に南大門。
[ 叡福寺 ]
●山号 磯長山(しながさん)
●寺号 叡福寺(えいふくじ) 通称上の太子
●宗派 真言宗(しんごんしゅう)単立
●開基 伝 聖武天皇(しょうむてんのう)
●開山 不詳
●開創 伝 神亀元年(724年)
●本尊 如意輪観音菩薩。
▲拝観 境内自由 朱印300円
▲時間 7:00~17:00
▲大阪府南河内郡太子町太子2146 電話0721-98-0019
▲近鉄南大阪線「上ノ太子駅」から金剛バス太子線「太子前」バス停下車目の前
近鉄長野線「喜志駅」から金剛バス太子線「太子前」バス停下車目の前
南阪奈道路「羽曳野東IC」から南約1.5km
▼南大門。三間一戸、入母屋造、本瓦葺、八脚門。左右に金剛力士を安置。
信長の兵火で焼失。慶長年間再建されるも腐朽のため昭和三十三年(1958年)再々建。境内唯一朱色の建造物。
▼南大門扁額。内閣総理大臣岸信介謹書と揮毫されています。岸信介さん、今の安倍首相のおじいちゃんです。
叡福寺縁起 (叡福寺パンフから抄出)
推古三十年(622年)聖徳太子薨去後、前日に亡くなった妃の膳部大郎女、二ヵ月前に亡くなった母穴穂部間人皇后と共に埋葬され
墓所を造営したといわれている。太子の没後、太子の墓を守り霊を鎮めるため聖武天皇の勅願により、神亀元年(724年)七堂伽藍
が造営されたと寺伝は伝えています。天正二年(1574年)信長の兵火で焼失、慶長八年(1603年)豊臣秀頼により聖霊殿が再建、その
後宝塔、金堂、廟前伽藍が再建され現在の寺観が再興されました。
▼南大門。左右の金剛力士、小さいと思いません?
南大門の大きさに比べ、この金剛力士はサイズ的に全く合っていません。以前の門のものなのか、どこか他のお寺から移置
したのか不詳ですが、結界守護の責任全うは彼らには少々負担が大きいのでは。
▼阿形金剛力士。こういう撮り方をすると小ささも判りませんネ。
▼吽形金剛力士。
▼真正面に見えるのは二天門です。
▼境内は気持ちがいいほど広いです。
▼金堂。本尊如意輪観音坐像。桁裄五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺。享保十七年(1732年)再建。
中心伽藍の立派なこと、願わくば入堂したかった! 聞けば毎月11日開扉だそうです。
▼お堂に比べて極々控えめな扁額、山号が書かれています。
▼金堂。
▼本尊如意輪観音坐像。像高約90cmと云うこと以外詳細は不詳。
それにしても美しい本尊ですネ、造像年代は相当新しいものかもしれません。
(写真はネットからもらってきました)
▼金堂。
▼南大門から見た宝塔。
▼宝塔(重文)。承応元年(1652年)再建。開扉はされません。内部は本尊釈迦三尊、大日如来が祀られているそうです。
▼上層の軒の組み物肘木と円形勾欄。
▼宝塔。
▼宝塔の横に白ムクゲ(だと思います)が数株、真っ白と云うのはホントきれいですネ。
▼宝塔。
▼聖霊殿(太子堂)(重文)。本尊聖徳太子十六歳像。桁裄三間、梁間五間、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付。慶長八年(1603年)再建。
▼宝蔵。
▼手水舎の龍の水口。
メチャ暑なので駆けつけ柄杓で五杯、もちろん頭へですヨ。龍口直接も一瞬思ったんですが、さすがそれは思い止まりました。
▼立派な玄関を設えた客殿です。
▼念仏堂。本尊阿弥陀如来坐像。僧侶の読経が流れ、数人の方が入堂されていました。
▼廟前伽藍へ行きましょう。前方に見えるのは二天門。
▼参道石段二天門の先に見えるのは太子廟所。
▼単独門ではなく左右に回廊が続いています。本来は廟用門では。
▼右脇に持国天。
▼左脇に増長天が祀られ、これらから二天門と名付けられたそうだが、二尊とも新しい感じがします。
▼二天門を潜ると右前に浄土堂。桁裄五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺、前方一間の吹き放ち外陣が付きます。
本尊阿弥陀三尊。慶長二年(1597年)再建。信徒永代供養専用のお堂。
▼久邇元帥宮御遺髪七重石塔。久邇元帥宮とは昭和天皇皇后、香淳皇后のお父上久邇宮邦彦王のことだそうです。
▼見真大師堂。見真大師は親鸞聖人の大師号です。
方三間、宝形造、本瓦葺、一間向拝付。ご覧のように向拝が歪んで相当痛んでいます、これでも明治四十五年(1912年)建立。
▼経典や写経が納められている経蔵。
前方は融通念仏宗宗祖良忍聖人の磯長廟です。なぜここにあるかは不詳、良忍さん廟は他所にもあります。
▼鐘楼。二天門からの回廊の端に建てられています。元禄元年(1668年)建立。
▼太子廟の左手に建つ上の御堂。本尊聖徳太子摂政像が祀られているそうです。
▼外廊天井の釣灯籠。
▼弘法大師堂。方三間、宝形造、本瓦葺、一間向拝付。空海さん自ら刻んだ大師六十歳像が祀られているそうです。
▼大師堂傍らの空海さん修行像。
それでは聖徳太子磯長廟へ。
御陵は磯長山丘陵を利用した円墳。考古学界では「叡福寺北古墳」と呼び、墳丘の高さは7.2m、直径は54.3m。内部は精巧な切
石を用いた横穴式石室で、太子と母穴穂部間人皇后、妃膳郎女の三人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼
ばれているそうです。石室は現在閉じられており、誰も入ることは出来ないそうです。墳丘の周囲が「結界石」と呼ばれる石の列
で二重に囲まれています。弘法大師が築いたと言われる聖地と俗界をへだてる結界石が490本あり、いずれも観音梵字が刻まれて
います。周辺には周回道がありますが、現在は通行出来ません。
▼聖徳皇太子磯長墓と刻された石柱が建つ御廟前面。
▼三連の拝殿風建物。最前面は檜皮葺唐破風設えで格子戸は締め切り。
明治期に横穴入口を埋めてしまったため羨道、石室へは入ること不能だそうです。
▼檜皮葺の上に雲に絡む龍の鬼瓦(?)か。
▼三骨一廟のシンボルなのか阿弥陀三尊の懸け仏が目立ちます。
▼円墳を取り囲む二重の結界石。490本あるそうです。せめて周回ぐらいは許可したらどうでしょう、宮内庁さん。
▼円墳の頂上。
単なる考古学的古墳と見るか、聖徳太子、母后、妃の廟と見るかは見解様々でしょう。しかも近年本当に聖徳太子廟なのかの疑問
も呈せられ、明治期の発掘調査の詳細もなく、調査後即横穴入口を埋めてしまったと云うことは、見られたくない何かがあったの
ではと穿った見方も一方ではあるようです。
野暮なことは考えず、古墳を取り巻く結界石を前にして往時を偲んでみましょう。
▼二天門から南大門を見通します。広い境内でしょう。
▼聖徳皇太子磯長御廟と刻された南大門前の石柱。
▼ご朱印です。
長々と叡福寺これにて オ シ マ イ
次に訪ねるのは叡福寺真ん前のお寺です。
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