(2012.09.01訪問)
先週BSで清水寺をやってましたので、訪ねることにしました。幾度か訪ねはしているものの腰据えて回った
記憶が無く、久々とはいえ新鮮感多ありの清水さんでした。が、残念ながら奥の院はじめ四堂塔が修復のた
め覆屋でスッポリ、チョットばっかり消化不良の感アリでしたが。
[ 清水寺 ]
●山号 音羽山(おとわさん)
●寺号 清水寺(きよみずでら)
●宗派 北法相宗大本山
●開基 坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)
●開山 延鎮上人(えんちんしょうにん)
●開創 宝亀九年(778年)
●本尊 十一面千手千眼観世音菩薩立像
●平成六年(1994年)古都京都の文化財として世界遺産に登録
清水寺縁起 (清水寺HPから抄出)
音羽山清水寺は、宝亀9年(778年)に大和子島寺の延鎮上人によって開創されました。
清水寺縁起によると、延鎮は霊夢をうけ、清泉をもとめて音羽山麓の滝に着きました。そこで草庵で練行し
ている行叡居士と出会ったのです。行叡は延鎮に霊木を授け、千手観音像を奉刻し観音霊地を護持するよう
遺命を託すや否や姿を消してしまいました。行叡は観音の化身であると悟った延鎮は、千手観音を刻んで草
庵と観音霊地の山を守っていました。宝亀11年(780年)、坂上田村麻呂が妻の安産のため、鹿猟のため音羽
山に入り草庵にたどり着き、延鎮と出会いました。坂上田村麻呂は延鎮に鹿狩りに上山した旨を話すと、観
音霊地での殺生を戒められ、観世音菩薩の教えを諭され、感銘を受けた坂上田村麻呂は、清滝の霊験、観世
音菩薩の功徳を妻に語り、共に深く仏法に帰依、 自らの邸宅を仏殿に寄進し、十一面千手観世音菩薩を御本
尊として安置しました。
▼仁王門(重文)。
重層楼門、三間一戸十二脚門、桁行三間、梁行二間、入母屋造、檜皮葺、堂高14m。応仁の乱で焼失後室町
後期再建。
▼藤原行成の筆と伝わる仁王門扁額。
▼境内からの仁王門。
▼馬駐(重文)。
うまとどめと読むそうです。仁王門横に建っています。乗馬入山した貴族や武士がここに馬を繋いで徒歩参
詣したそうです。
▼西門(重文)。
三間一戸八脚門、切妻造、檜皮葺、向拝付。寛永八年(1631年)再建。
この門は通れません。
▼背面から西門。
軒唐破風は大変珍しいそうです。
▼西門格繰上天井と彩色。桃山様式の華麗な彩色美です。
▼西門から京都市街。
▼鐘楼(重文)。
切妻造、本瓦葺、六本柱。慶長十二年(1607年)再建。
▼随求堂(ずいぐどう)。
胎内潜りが体験出来ます。結構若者が入っていきましたよ。一回100円。
お堂の形がなかなかユニークです。
▼随求堂横の百日紅。
▼三重塔(重文)。本尊大日如来坐像。
塔高31m。承和十四年(847年)創建。寛永九年(1632年)再建。
▼一切経を収蔵する経堂(重文)。
本尊釈迦三尊。桁行五間、梁行四間、入母屋造、本瓦葺。寛永十年(1633年)再建。
講堂を兼ねているそうです。
▼開山堂(重文)。別称田村堂。
開基坂上田村麻呂夫妻、開山延鎮上人、元祖行叡居士を祀っています。
堂前には沢山の南部鉄風鈴がいい音を奏でています。
▼鉄の錫杖と鉄下駄。
大錫杖(90kg)と小錫杖(14kg)、高下駄(12kg)があります。明治中期に奈良県吉野で修行した修験者から奉
納されたものだそうです。大きい方を持ち上げようとしている方々がいましたが、ボクはアホらしいので
止めました。
▼轟門扁額。
キラキラ彩色ではない古色の中門、廻廊から本堂への門です。
が、写真はありません。モロ逆光のためボクの腕ではどうしようもありませんでした。
▼本堂への廻廊。
▼本堂(国宝)。
桁行36m、梁行30m、棟高18m、寄棟造り、檜皮葺。
前部分は錦雲渓の急な崖に建てられ、欅の柱を並べ釘を一本も使わずに組み上げ舞台を支えています。
平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲など、さまざまな芸能が奉納されてきたそうです。
▼本堂舞台の懸造(国宝)。
▼本堂本尊のお前立ち。(お像は清水寺パンフ複写、説明は清水寺HPから抄出)
御本尊は、本堂最奥部内々陣の厨子内に秘仏として祀られ、厨子前に御本尊の姿を写した御前立仏を安置し
ています。御開帳は、ご本尊が三十三身して衆生を救うという観音経の教えに因んで、三十三年毎に行われ
ます。
お前立ち仏をはじめて拝観しました。何度も訪ねているのに本堂に入堂するのは初めて、バチあたりですね。
▼本堂説明板。
▼大日如来坐像。
3.11東日本大震災の津波で流された陸前高田の名勝高田松原の松で造像された大日如来坐像です。京都の学
生さんたちが造ったそうです。
▼本堂舞台参拝の皆さん。
決断の言葉に「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と聞きますが、実際に舞台から飛び降りた人が江戸期
に234件あったらしく生存率は八割、生還した人の方が多かったみたいですね。明治政府は飛び降り禁止令
を出したそうですが、明治以降はどうなんでしょうね。
よく考えてみたらこんなところから飛び降りる人の気が知れません。何の願いか知りませんが。オーコワ!
▼本堂屋根テッペンの鬼瓦。
▼本堂舞台から子安の塔。修復のため覆屋でスッポリ。
▼本堂からの奥の院。修復のため覆屋でスッポリ。
▼釈迦堂(重文)。本尊釈迦三尊。
桁行三間、梁行三間、寄棟造、檜皮葺。寛永十年(1633年)再建。
▼地蔵堂。
▼音羽の滝。
本来は滝行水垢離の行場。清水寺の寺名の由来となったのがこの滝です。流れ出る清水は清めの水として尊
ばれています。
▼音羽の滝のベッピンさん三人とどうか判らない人一人。
▼奥の院から三重塔。
▼奥の院から京都市街。
▼中興堂。清水寺の中興開山大西良慶和上の御霊屋。
▼春日社(重文)。法相宗の鎮守、奈良春日大明神を祀る鎮守堂。
▼弁天堂。
▼北総門(重文)。元は塔頭成就院の正門。
間口4.12m、薬医門、切妻造、本瓦葺。寛永年間に再建。
▼幕末に散った勤王僧、月照と信海両上人と西郷隆盛の歌詩碑。(清水寺HPから抄出)
月照上人は、勤王僧で西郷隆盛公の手引きで九州へ避難したものの、隆盛公と薩摩錦江湾に入水。隆盛公は
助けられましたが、上人は非業の死を遂げました。
▼千体石仏群。
かつて京都の各町内にお祀りされていたお地蔵さんたち、明治の廃仏毀釈で捨てるに忍びないと、地蔵信仰
の篤い京都市民から寺に運び込まれたものだそうです。
▼阿弖流為、母禮の碑。(清水寺HPから抄出)
奥州を本拠地とした蝦夷の首長阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の碑です。二人は平安朝廷の東北平定政策に
対して勇敢に戦いましたが、征夷大将軍坂上田村麻呂公の軍門に。将軍は両雄の武勇、器量を惜しみ朝廷に
助命嘆願しましたが、許されず処刑されてしまいました。
▼善光寺堂。
仁王門前に建つ洛陽三十三所観音霊場第十番札所。
▼善光寺堂本尊如意輪観音坐像。
▼オマケは八坂の塔。
朝八時前入山、すでに大勢の人がいました。中でも中国語が氾濫してましたよ。
お上りさん感覚で約三時間かけてお堂を巡りました。ほとんどのお堂は江戸期の再建、再彩色で丹色眩しく
目に痛いほど。古色に慣れたボクの目にはどうもシックリ来ません。時代径時の色あせた柱一本一本のくす
んだ色に古寺のアイデンティティを感じるのはたんなる個人趣味なのでしょうか。
長々と43カット、お付き合いありがとうございました。
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