塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

デトマール・クラマー氏への敬意

2015-09-18 22:01:54 | 日記
 デトマール・クラマー氏が無くなったと言う報道を、今知った次第です。

 個人的な見解を言いますと、今ブンデスリーガに在籍する選手達から、以下のような発言が聞かれない事が残念だと感じていました。

 「ブンデスリーガでは、高原、稲本、そして代表主将の長谷部という素晴らしい選手たちが我々に道を開いてくれました」
 「しかし、それ以前に活躍した奥寺、尾崎、そして風間と言う選手たちも、忘れてはいけない存在です」
 「そして奥寺を見出した指揮官、バイスバイラー氏も同様に敬意を払われるべき存在と認識しています」

 つまり、自分たちが今、オファーを受けるのは自分たちの活躍もそうですが

 ドイツで自分を信じてボールを蹴って来た先達たちの汗が関わっている

 こうした発言が聞かれないことを、寂しいと思っていました。

 でも、僕も同様でしたね。

 この考えの中には、クラマー氏の存在が含まれていません。

 64、68年の五輪に対し、川渕、八重樫、杉山に横山、そして森と、主力として戦ってきた選手は知っていますし

 「仮に釜本は欧州に移籍しても、間違いなく活躍で来た」

 という評価も含めてです。

 ヤンマーやヤマハ、古川など日本リーグの構想もクラマー氏の助言で成り立ったものですし、Jリーグが試合間に黙とうする事は当然と言えます。

 オフトにオシム。

 日本の文化に敬意を払い、その仕事ぶりに多くのファンが感謝しましたが、クラマー氏は外国籍指揮官の中でも、改めて特別な存在だったことを、今改めて感じています。

 バイド・ハリルホジッチ代表監督が任期を終えた際

 「彼の薫陶を受けて良かった」
 「彼の痕跡を大事にしたい」

 を感じられる事が出来れば嬉しいものです。
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他の競技には無い、サッカーの持つ柔軟性

2015-09-18 06:17:23 | 日記
 他の競技から見て、サッカーには無い要素が幾つもあります。

 悪い出来事で言えば、ファンが白いハンカチを振って監督、会長に最後通告を告げること、良い出来事はワールドカップのような、万人が認める国際大会の存在がそうです。

 僕が思うに、他の競技ではサッカーほど、コーチ、監督業が柔軟ではありません。

 例えば日本野球。

 プロの球団が12もある、いや、12しかないと考えるべきかはわかりませんが、その椅子に腰かけられるのは

 1・プロとしての実績を持つ人物
 2・2軍を含めたコーチ経験を持つ人物

 という方のみです。

 つまり、アマチュア(学生野球で日本一になった)、選手ではないが、練習内容や選手獲得に関して優れた力量を持つ。

 彼らが監督に指名されることはありません。

 でもサッカーは、どの国でも

 「コーチ・ライセンス」

 が存在し、これがあるからこそ、例えアマチュアの経験しかもたない、プロとしての名声が無かった人物でも、監督として生計が可能なわけです。

 これ、改めて考えれば凄いことですよ。

 勿論、そこには汚名返上の機会もあります。

 ザッケローニが選手として優れた実績を持たず、ミランでスクデットを得ても、それは彼の評判には繋がらず、ユーヴェやインテルでパートタイムを務める平凡な指揮官と言う評判が、イタリアでは先走る形になりました。

 しかし2011年、日本代表をアジア王者に導くと、イタリアでは

 「ユーヴェとトリノ、ミランとインテルというダービーの熱さで知られるクラブの監督を歴任」
 「ミラン、ユーヴェ、インテルで指揮を執った素晴らしい監督」

 と、その評価は一転します。

 もし、ブラジルの地で日本が3-4で敗北していなければ、ザッケローニへの見解は、更に異なっていたでしょう。

 今、ドルトムントではトッヘルがその眼力の高さを証明していますが、この

 「選手で無かった人物がベンチに座れる競技」

 としてのサッカーが、底辺を支えているように思うのです。
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サッカーにおける生観戦と映像の両立

2015-09-18 01:22:38 | 日記
 試合前、ゴール裏からはコールリーダーを軸に、選手へのチャントと応援歌が歌われます。

 自分の名前がコールされた選手は、拍手をする、頭を下げる事で

 「声がしっかり届いているよ」

 と言う意思表示で気持ちを返します。

 その彼らの行動で、僕たちは

 「ああ、僕たちの声が今日も先取に届いている」
 「きっと僕たちの声が、選手を鼓舞するに違いない」

 と言う安心感が得られます。

 これらを僕たちは簡単に「臨場感」と語るわけですが、これらはテレビ、動画ではなく、やはり空間を共有する者同士で生まれるわけです。

 僕は映像作品を否定しません。

 ワールドカップがある旅に、放映権料の高さが問題視されますが、テレビを付ければ選手たちが蹴る瞬間を確認できることは、本当にありがたい限りです。

 僕が言いたいのは

 「スタジアムの生観戦と映像で楽しむ事は両立できる」
 「片方が廃れるわけはない」

 と言う事です。

 NFLやMLBでは、座席に腰掛けるだけで手持ちのスマートフォンが反応し、割引チケットや飲食の情報がもたらせると聞きます。

 日本でも、スマートフォンで予約をし、昼食時の混雑を避けて弁当が変えると言うシステムがありますが、今後はJリーグでも同様の試みが行われるでしょう。

 利便性の仲の不便さ

 矛盾していますが、サッカーは屋外競技ですから、気象条件は無視できませんし、どんなに注意を払ってもシャトルバスが渋滞に巻き込まれることもあります。

 この不便さを享受することも、ファンの役割だと感じます。
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サッカーに付随する楽しみを思う

2015-09-18 01:14:05 | 日記
 米国最大手の動画配信でシェアを誇る「ネット・フリックス」が、アジア市場で初めての導入を日本で行います。

 レンタルビデオで有名なゲオも同様の動画配信を定額で供給するようで、最近の日経新聞では、これらの参入が記事で多く見られます。

 今後、長野パルセイロに限らずJクラブも、動画をファン・プロモーションの軸に据えるのでしょうか。

 既に
 
 「過去の名勝負」
 「印象に残るゴール・シーン」

 は、動画で確認できるようですね。

 でも、動画、衛星テレビがあったとしても、サッカーだけでなく生観戦(コンサートや演劇など)は廃れないと思います。

 それは観戦だけでなく

 「装う楽しみ」
 「帰りに街を散策する楽しみ」
 「食べて買える楽しみ」

 が付随するためです。

 篠ノ井地区であれだけののぼりが見られ、飲食店が協賛しているのは、

 「試合見てお腹が空いているだろう、ウチによりなよ」
 
 と思う為ですよね。

 イングランドではありきたりなフィッシュ・&・チップスだって、ファンからすればこれが無くてはサッカーじゃないと思えるのでしょうし、ドイツならばアツアツのソーセージがそうですよね。

 コンサートやオペラでは正装の嗜み
 サッカーでは、ファングッズを買う楽しみ

 つまり、服装ひとつでも

 「適材適所」

 があることを学べるだけでも凄く大きいと思いますし、屋外競技ならば天候や電車のダイヤも調べなくてはいけません。

 つまり

 「自分ひとりで生きているわけではない、これが当たり前」

 と思えるだけで凄い事だと思います。

 確かに、家でゆっくり好きな番組を見る事は楽しいでしょうけれども。
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