塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

自分で創意工夫して練習に励む事

2015-09-02 00:50:45 | 日記
 僕が学校に通わず、パソコンと語学を独学しているのも、「自発的」と言う要素が大きいですね。

 確かにどんなに親切な教材でも、時に詰まるときがあります。

 でも教材費も、勉強時間もすべては自分で管理できる利点があります。

 学校に通わないのは

 1・学費まで小遣いがまわらない
 2・教師との相性が良いかどうかはわからない

 という2点にあります。

 サッカーでも、プロ、アマ関係なく、監督、コーチとの相性は大切ですし、当然時間も同様です。

 教材を買っていると、その時に世相がわかります。

 僕が一番最初に買ったイタリア語の教本では、中田英寿がセリエAに在籍していた影響があったのでしょう、日本からやって樹だ男性がイタリアで得た友人の父が

 「プロのサッカー選手でペルージャに在籍していた」
 「妻はスペイン人で、ペルージャに語学留学に来ていた際に知り合った」

 というダイアローグが紹介されます。

 自分で練習時間を決めているわけですから、5分で終わるときもあれば、もっと長く行う時もあります。

 サッカーでも、熱心に練習する時もあれば

 「試合前だから流す程度にするよ」
 「今日は映像で対戦相手を研究だ」

 と、時間割を工夫しますよね。

 朝から晩まで長時間練習するくらいなら、僕はそもそもそのクラブ、部活動に入らない自信がありますし、後悔するように感じます。

 (参考資料 高橋書店 驚くほど身に付くイタリア語)
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厳しい練習と言う前提は、本当に必要か

2015-09-02 00:42:30 | 日記
 学生スポーツで監督、顧問が選手を讃える際に

 「厳しい練習に耐えてきましたから、生徒たちは」

 と言います。

 同様に、生徒たちも厳しい練習に耐えてきたからと語ります。

 1996年の五輪最終予選、GKの川口能活は

 「Jで一流のFWと対峙してきから負けるはずがない」
 「あれだけの練習をしてきたから」

 を自分を鼓舞したと言います。

 そもそも、練習は厳しくなければ意味が無いのでしょうか?

 選手が自発的に

 「こんなメニューいいよね」
 「実戦してみたいな」

 と思える練習の方が、短時間で終わり、何より自分で考えたという達成感があるのではないでしょうか。

 米国はスポーツ科学の最先端として認知されていますが、学生でもトップになると水を飲まないと言います。

 これは彼らが敢えてやっていると聞きました。

 米国スポーツの多くはタイム、交代があり、攻守の入れ替えがある一方、給水のタイミングがアンバランスになりがちですから、「わざと」給水しない、時間を遅らせると言います。

 野球やアメフトは、守備の時間がそれぞれ異なる上に、ポジション(後者ならキッカー、パンター。ワイドレシーバーなど)で起用されるタイミングも異なります。

 一応、論理としては間違っていませんよね。

 かつて部活動、特にサッカーのような運動量が多いスポーツでも

 「水を飲むな」
 「着替えを持ってこい」

 と言う指示は無かったと記憶しています。

 体を労わると言う行為が欠けているわけですが、それより、欧州や南米ではストリートサッカーの地位が下がっても、選手から

 「厳しい練習」

 と言う声が聞こえてきません。

 僕の持論は

 「プロでもこんなに長時間練習しないのに、アマチュアが朝から晩まで汗を流す必要は何?」

 というもので、そんなことしているくらいなら、本でも読んだらよいのにと感じるのです。
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