今日は天長節(天皇誕生日)だ。GHQにより天長節は廃止され、天皇誕生日として復活したが、「天長節」とした方が良いだろう。
「建国記念の日」もダサいので「紀元節」に戻すべきだろう。保守の期待の星として内閣総理大臣になったはずの安倍晋三があの体たらくでは無理だろうが。政府に期待せず、保守系議員による議員立法でやるべきなのかもしれない。
皇室は天皇陛下の存在は我々日本人のアイデンティティだと私は考えている。
遠藤周作の『沈黙』を読んだことはないのだが、いつかは読みたいと考えているが、キリスト教が日本に根付かなかったのは江戸幕府の苛烈な弾圧もあるが、日本人のアイデンティティに反するからだ。
「この国はすべてのものを腐らせていく沼だ」(『沈黙』よりポルトガル人神父フェレイラ師の言葉)
仏教は日本に溶け込んでいる。私もまあほぼ葬式仏教だが、仏教徒ではある。だが、溶け込んでしまい、日本という「沼」に嵌まり「腐っていった」のではないか。我々日本人はそれを「神仏混淆」ないし「神仏習合」と呼んでいる。
ニーチェは「世の中に意味や目的あるいは死後の世界も生まれ変わりもない。それを認めた上でそれらを超克する超人となるべき」との思想を掲げている。
「神は死んだ」とされる近代以降ではそれこそが正しいのかもしれない。世の中に意味や目的などないし、死後の世界も生まれ変わりもないのだから。
しかし人間はそれほど強い生き物ではない。何かに依って立つものがないとアノミーになってしまう。アイデンティティの喪失だ。
例えば旧ソ連が崩壊し、共産主義は求心力を喪った。それはアイデンティティの喪失でもあり、ロシア人は急性アノミーに罹り、精神を病んだ。
プーチンのブレーンの誰かだと思うが、そうしたロシアの状況を憂いて共産主義の代わりにロシア正教をロシア人のアイデンティティとした。そのことである程度急性アノミーは治まった。これが私がプーチンを評価する最大の点だ。
それが日本においては「天皇」であった。「天皇は神である」と現代で言えばヤバい奴扱いされるかもしれない。だが八百万の神の國日本では別段騒ぐことでもない。手塚治虫を漫画の神様、松下幸之助を経営の神様と呼んでいるようなものだ。
しかしチベット仏教のダライラマは「活仏」つまり生きた仏であり、生まれ変わりであるとされる。チベット人が支那共産党に弾圧されていることに同情するからかチベット仏教をカルト宗教扱いする向きはほとんどない。
キリスト教でいえば「イエスキリストが神である」のも実際にはあり得ない話だ。「聖母マリアの処女懐胎」など現実にはあり得ないのだから。ユダヤ教、イスラム教にも当てはまる。
昭和天皇の「いわゆる人間宣言」もGHQやその意向を汲んだ反日左翼マスコミに利用された面はある。昭和天皇御自身も曲解されたことに御不快の念を述べられている。
「人間宣言」とされたのは以下の降りだ。
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
その降りで天皇は現人神であることを否定されたとされる。
戦前の日本人も天皇が一神教の神のような存在だと信じていたわけではない。これも左翼マスコミなどが曲解するのだが。
だが私自身の考えは三島由紀夫と同じものなのだろう。
三島由紀夫
三島由紀夫は、「僕は、新憲法で天皇が象徴だということ(日本国憲法第1条)を否定しているわけではないのですよ。僕は新憲法まで天皇がお待ちになれず、人間宣言が出たということを残念に思っているのです。いかなる強制があろうとも」と述べている。
また、小説『英霊の聲』では、二・二六事件で処刑された旧陸軍の青年将校たちや、神風特別攻撃隊で戦死した兵士たちの霊に、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」、「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」、「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」と語らせている。
昭和天皇は英明な御方であられたが、だからこそ地べたを這いずるただの国民が依って立つべきアイデンティティとしての「天皇」というものがわかっておられなかったのかもしれない。
天皇とは孤独な存在である。愛すべき家族がいても信頼すべき友がいても天皇陛下は御一人で日本の命運を背負われている。そのあまりに重い責任は誰も分かち合うことができない。天皇陛下御自身が全て背負わねばならない。
大東亜戦争の惨敗で天皇陛下の処刑もあり得た。それを切り抜けられたのは昭和天皇がマッカーサーと堂々と渡り合ったからだ。
だからこそ「いわゆる人間宣言」は残念である。
「建国記念の日」もダサいので「紀元節」に戻すべきだろう。保守の期待の星として内閣総理大臣になったはずの安倍晋三があの体たらくでは無理だろうが。政府に期待せず、保守系議員による議員立法でやるべきなのかもしれない。
皇室は天皇陛下の存在は我々日本人のアイデンティティだと私は考えている。
遠藤周作の『沈黙』を読んだことはないのだが、いつかは読みたいと考えているが、キリスト教が日本に根付かなかったのは江戸幕府の苛烈な弾圧もあるが、日本人のアイデンティティに反するからだ。
「この国はすべてのものを腐らせていく沼だ」(『沈黙』よりポルトガル人神父フェレイラ師の言葉)
仏教は日本に溶け込んでいる。私もまあほぼ葬式仏教だが、仏教徒ではある。だが、溶け込んでしまい、日本という「沼」に嵌まり「腐っていった」のではないか。我々日本人はそれを「神仏混淆」ないし「神仏習合」と呼んでいる。
ニーチェは「世の中に意味や目的あるいは死後の世界も生まれ変わりもない。それを認めた上でそれらを超克する超人となるべき」との思想を掲げている。
「神は死んだ」とされる近代以降ではそれこそが正しいのかもしれない。世の中に意味や目的などないし、死後の世界も生まれ変わりもないのだから。
しかし人間はそれほど強い生き物ではない。何かに依って立つものがないとアノミーになってしまう。アイデンティティの喪失だ。
例えば旧ソ連が崩壊し、共産主義は求心力を喪った。それはアイデンティティの喪失でもあり、ロシア人は急性アノミーに罹り、精神を病んだ。
プーチンのブレーンの誰かだと思うが、そうしたロシアの状況を憂いて共産主義の代わりにロシア正教をロシア人のアイデンティティとした。そのことである程度急性アノミーは治まった。これが私がプーチンを評価する最大の点だ。
それが日本においては「天皇」であった。「天皇は神である」と現代で言えばヤバい奴扱いされるかもしれない。だが八百万の神の國日本では別段騒ぐことでもない。手塚治虫を漫画の神様、松下幸之助を経営の神様と呼んでいるようなものだ。
しかしチベット仏教のダライラマは「活仏」つまり生きた仏であり、生まれ変わりであるとされる。チベット人が支那共産党に弾圧されていることに同情するからかチベット仏教をカルト宗教扱いする向きはほとんどない。
キリスト教でいえば「イエスキリストが神である」のも実際にはあり得ない話だ。「聖母マリアの処女懐胎」など現実にはあり得ないのだから。ユダヤ教、イスラム教にも当てはまる。
昭和天皇の「いわゆる人間宣言」もGHQやその意向を汲んだ反日左翼マスコミに利用された面はある。昭和天皇御自身も曲解されたことに御不快の念を述べられている。
「人間宣言」とされたのは以下の降りだ。
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
その降りで天皇は現人神であることを否定されたとされる。
戦前の日本人も天皇が一神教の神のような存在だと信じていたわけではない。これも左翼マスコミなどが曲解するのだが。
だが私自身の考えは三島由紀夫と同じものなのだろう。
三島由紀夫
三島由紀夫は、「僕は、新憲法で天皇が象徴だということ(日本国憲法第1条)を否定しているわけではないのですよ。僕は新憲法まで天皇がお待ちになれず、人間宣言が出たということを残念に思っているのです。いかなる強制があろうとも」と述べている。
また、小説『英霊の聲』では、二・二六事件で処刑された旧陸軍の青年将校たちや、神風特別攻撃隊で戦死した兵士たちの霊に、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」、「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」、「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」と語らせている。
昭和天皇は英明な御方であられたが、だからこそ地べたを這いずるただの国民が依って立つべきアイデンティティとしての「天皇」というものがわかっておられなかったのかもしれない。
天皇とは孤独な存在である。愛すべき家族がいても信頼すべき友がいても天皇陛下は御一人で日本の命運を背負われている。そのあまりに重い責任は誰も分かち合うことができない。天皇陛下御自身が全て背負わねばならない。
大東亜戦争の惨敗で天皇陛下の処刑もあり得た。それを切り抜けられたのは昭和天皇がマッカーサーと堂々と渡り合ったからだ。
だからこそ「いわゆる人間宣言」は残念である。
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