比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

初冬の中山道・・・木曽路・・・江戸時代・・・近世のおもかげの町・・・妻籠宿

2019-01-22 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、さらに南へと進んできました。

長野県木曽郡南木曽町三留野字妻籠・・・旧中山道42番「妻籠宿」です。。
1843年の「中山道宿村大概帳」によれば、家数は83軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒、人口は418人。
いま・・・この街に一歩足を踏みいれると・・・眼前にひろがるのは近世の世界・・・ 心は江戸時代の旅人・・・

妻籠宿の中心・・・寺下から枡形へ・・・枡形はカタカナのコの字になって石段で下りるようになっています。
城郭、城下町、街道でよく見る軍勢が通り抜けしにくいように設計した道路です。

枡形に下りる狭い道幅の石段です。

枡形からふたたび本道に戻る石段です。山側は石垣になっています。

普通の家で縁側に座り世間話をする。




町並み保存運動・・・江戸時代の幕府の五街道として栄えた中山道の宿場町、ここ妻籠宿は明治の廃宿、鉄道、国道からも切り離され寒村として衰退していきました。やがて昭和の経済成長期、全国的に町興しの運動が起り、江戸時代そのままに街並みが残っていた妻籠で保存運動が1968年からはじまります。1976年国指定の重要伝統的建築物保存地区に(選定地第1号)。妻籠の人たちは「売らない、貸さない、壊さない」を3原則に、店構え、看板などは環境に溶け込んだものに規制、貴重な財産を後世に伝えようとしています。

※撮影日は11月27日、
妻籠の地名由来・・・「」は「端」を表す(着物の褄)、「」は「こもる」・・・奥まった集落・・・という説がある。


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初冬の中山道・・・木曽川開発・・・電力王福澤桃介が架けた・・・桃介橋(ももすけばし)

2019-01-21 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・鳥居峠藪原宿、宮ノ越宿、福島宿、さらに南へと進んできました。
長野県木曽郡南木曽町読書の旧三留野宿に近い木曽川に架かる「桃介橋」です。
1922年大同電力(社長福澤桃介)が読書発電所建設の建設資材運搬用を兼ねて架けた橋。トロッコの軌道が敷かれていたという。1950年読書村(現南木曽町)に寄贈。1978年老朽化のため通行止め、廃橋となるはずが・・・撤去費用予算が無くて放置。1993年「ふるさと創生化事業」で復元。人道橋に。国指定重要文化財。当初は「桃之橋」であったが1993年「桃介橋」に。全長247m、幅員2.7m。3基の橋脚による4スパーン。木造吊橋としては日本有数の長さだそうです。

福澤桃介(ふくざわももすけ、1868~1938年)・・・武州横見郡荒子村(現埼玉県比企郡吉見町)岩崎家の生れ、慶応大学在学中に福澤諭吉の婿養子に。外国留学、幾つかの会社勤めのあと株式投資で財を成して幾つかの事業をしたあと電力事業に。大正の終りから昭和のはじめ木曽川電力開発を手がけ「電力王」と呼ばれています。
1988年NHK大河ドラマ「春の波濤」に川上音二郎、川上貞奴とともに中心人物として登場。







三留野の町並みが見えます。旧三留野宿は家数77、本陣1、脇本陣1、旅籠32、宿内人口594の大きな宿でしたが明治の大火で焼失、旧跡は残っていません。
※撮影日は11月27日、
読書村・・・1874年与川村、三留野村、柿其村の3つの村の合成地名。1961年南木曽町に。
★木曽川の河原・・・見たとおり真っ白な花崗岩の河原です。花崗岩の土地はしばしば土石流により崩壊。この地では「蛇抜け」と呼んで「蛇抜け橋」「蛇抜けの碑」などあります。

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初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・自然の創った芸術・・・寝覚ノ床

2019-01-20 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・藪原宿、宮ノ越宿、福島宿、さらに南に進んで上松宿へと進んできました。
中山道38番「上松宿」、かつては尾張藩の材木役所が置かれ家数362、本陣1、脇本陣1、旅籠36、宿内人口2482人の大きな宿でした。町並みは度重なる大火で宿の面影はありませんが木曽の御料林、国有林の中心部、林業の町として発展しました。1879年上松村、小川村、、荻原村が駒ヶ根村に、1922年上松町に。名勝「寝覚ノ床」で有名です。国道19号線寝覚ノ床信号の側、ドライブイン、町営駐車場からすぐ。

名勝「寝覚ノ床」への散歩道です。

火山活動の方状節理(縦と横に割れた節理)と木曽川の水食によってできた自然の芸術寝覚ノ床・・・

ダムができるまでは激流の瀬であったそうですが、今はエメラルド色に澄んだ瀞・・・ゆったりと静かに。

JR中央線上松駅~倉本駅の間、列車の窓から一瞬ですが「寝覚ノ床」を見ることができます。

 

東を仰げば木曽山脈木曽駒ヶ岳(2956m)の支峰・・・麦草岳(2733m)、牙岩(2676m)、木曽前岳(2826m)・・・の峰々。主峰木曽駒ケ岳は木曽前岳の奥。
撮影日は11月27日。


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初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・木曽福島の町並み

2019-01-19 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・鳥居峠藪原宿、宮ノ越宿と進んできて中山道37番「福島宿」です。昭和初期の大火で宿を思わせる町並みの風景はありません。
明治の合併(1874年)で福島村、岩郷村が福島村に、1893年福島町に、1967年新開村と合併して木曽福島町に、2005年平成の合併で日義村、開田村、三岳村が加わり木曽郡木曽町に。人口は旧木曽福島町で7000、今は木曽町で11000。福島という地名は瑞祥地名(好字、嘉字)でしょうね。全国にある地名です。代官屋敷、関所の町(陣屋町)として栄え、今は木曽郡地区の行政、商業の中心地。国、県の司法、行政機関の出先、金融、企業の出先など。
県立木曽青峰高等学校森林環境課は1901年創立の郡立山林学校が前身であり日本において最初の林業専門学校(のち木曽山林高等学校)。

関所跡から見下ろした木曽福島町の風景です。

福島はV字谷、峡谷の町、宿場町、代官屋敷のある陣屋町でした。
町を歩けば、大火を免れた古い建造物が点在しています。
ここを訪れたら木曽の名酒「七笑」、開田高原の蕎麦を使ったお蕎麦、赤カブを無塩で乳酸発酵だけで漬けた「すんき漬け」など探してみては。
木曽川にせり出すように町屋が造られてます。「崖屋造り」というそうです。
※撮影日は11月26日、


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初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・江戸時代の四大関所・・・福島関所跡

2019-01-18 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・鳥居峠藪原宿、宮ノ越宿、と進んできました。
中山道37番「福島宿」です。昭和初期1927年の大火により宿場通りはほとんど面影を残していません。本陣跡地は現在役場庁舎に。
宿の時代、家数158軒、人口972人、本陣1、脇本陣1.旅籠14、宿内人口972。

1979年古図面を基に復元した関所跡です。北側から坂を登って東門、南から坂を登って西門

江戸時代の四大関所(箱根、新居、碓氷、福島)の一つ・・・入鉄砲に出女の取り締まりが厳しかったそうです。

敷地内に関所資料館

福島関関所守、尾張藩木曽代官の山村家下屋敷
山村家は中世の木曽の豪族木曽家の旧家臣、関ヶ原の戦いで功あって旧家の地の関守を命じられ明治まで。
※撮影日は11月26日、
★写真には残せませんでしたが高瀬家資料館があります。高瀬家は藤原氏の血を引くといわれ、山村代官の側用人、勘定役、鉄砲術指南役などを勤め、薬種問屋、漢方「奇應丸]発売元、島崎藤村「夜明け前」でお粂という名前で出てくる藤村の姉お園の嫁ぎ先。藤村が幼くして上京の際は物心ともに援助しています。藤村の三男蓊助(洋画家)は母が亡くなったため2歳のときからこの家で育てられました。藤村の書簡などの資料、関所関係の資料などが展示されています。

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初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・宮ノ越から原野・・・中間点の標識・・・朝日将軍義仲と巴御前の里

2019-01-17 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・鳥居峠藪原宿、宮ノ越宿と道を進んできました。宮ノ越宿を過ぎてJR中央線原野駅あたりの国道19号線ぎわ‥・中山道の江戸日本橋と京都三条大橋までの中間点の標識があります。中山道のむかし標識があったかは知りません。

※撮影日は11月27日、

宮ノ越宿・・・宿の面影の残す町並みはありません。このあたり平安源平の時代の朝日将軍源義仲ゆかりの地。義仲は武蔵国比企郡大蔵の地(現嵐山町)の生れ、源義朝の子義平の軍勢に父義賢を殺され落ちのびて木曽の豪族中原兼遠の庇護の下にこの地で育ちました。長じて信濃国小県郡依田城で平家追討の旗揚げを、越中倶利伽羅峠で平家の大軍を打ち破り都に上がり征東大将軍に。やがて源頼朝の弟の頼範、義経の軍勢に敗れ戦死。義仲、巴御前ゆかりの史跡があります。
★明治の合併・・・1874年で宮ノ越村、原野村が「日義村」に。朝日将軍義仲の「日」と「義」を合わせた命名です。
★宮ノ越と藪原の間、国道19号線と国道361号線の分岐点神谷入口があります。ここから伊那の谷まで2006年開通の権兵衛トンネルを抜けて44㎞弱、50分たらずで出られます。そのむかし姥神峠の南麓の神谷村(現木曽町神谷)に古畑権兵衛なる牛方のお頭がいて伊那との物流ルートの整備を願い、各所の協力の下で1696年流通路整備に成功。伊那節で「木曽へ木曽へと つけだす米は・・・」と唄われる権兵衛峠です。


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初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・奈良井宿・・・木工の店「花筏」で「お六櫛」を見る

2019-01-16 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

中山道34番「奈良井宿」・・・よく保全された宿場町です。日本でも北国街道の海野宿、中山道の妻籠宿、馬篭宿と並んで希少な近世の宿場の雰囲気を伝える街。観光客は多いのですが、それなりに喧噪、猥雑さは感じることのない落ち着いた雰囲気です。

1966年開店という漆器、木製品の店「花筏」・・・


奈良井宿平沢間の宿藪原宿と並んで木曽の名木を使った木工品、曲げ物、木地師。塗師、櫛を古くから生産してきたきた里です。
★「お六櫛」・・・です。発祥は御嶽山の六根清浄、お六という妻籠宿の娘の話し・・・諸説あります。妻籠宿でカンバ科のミネバリの木を使って作られてきましたが、原材が枯渇して衰退、ミネバリの木の豊富な藪原の某が製法を習得して藪原宿の特産品に。奈良井宿でもお六櫛を塗櫛、蒔絵櫛などに進化させて産業にしました。街道を往来する女性が挙って買い求めたといいます。



※撮影日は11月26日、


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初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・奈良井宿上問屋資料館

2019-01-15 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

中山道34番「奈良井宿」・・・日本海側と太平洋側の分水嶺鳥居峠の北側の麓の奈良井宿・・・よく保全された宿場町です。日本でも北国街道の海野宿、中山道の妻籠宿、馬篭宿と並んで希少な近世の宿場の雰囲気を伝える町です。

国指定有形重要文化財・・・上問屋手塚家・・・いまは資料館になっています。
★1602年から明治の廃宿まで続いた宿問屋・・・宿問屋は駅馬継立、人馬の手配、道普請などの労役手配、大名行列の助郷手配など公的な事務方を務める役所です。明治天皇お休み処の碑がありますから格式が高い家柄と思います。



※撮影日は11月26日、


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初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・奈良井千軒と謳われた・・・奈良井宿

2019-01-14 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

中山道34番「奈良井宿」・・・日本海側に流れる奈良井川、太平洋側に流れ木曽川、その分水嶺鳥居峠の北側の麓の奈良井宿・・・峠越えの手前ということもあって奈良井千軒といわれ大いに栄えた宿場だったそうです。 天保14年(1843年)の「中山道宿村大概帳」によれば、宿内家数は409軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は2155人であったと記されているそうです。奈良井千軒といわれらにしては旅籠5軒、何かの間違いでしょうか。
町並みは天保4年(1834年)の大火のあとは、幕末から、明治、大正、昭和と大火に被災することなく、幹線国道、幹線鉄道が明治の時代にバイパス化したため奇跡的に旧態のまま残りました。宿場通りに見られる鍵の手道路(枡形)が5か所、水場が6ヶ所。伝統的な建造物群を守るための「まちづくり規制」があり、よく保全された町並みは1978年国指定重要伝統的建造物群保存地区に登録されています。
標高930m、この町を過ぎるとすぐ標高1197mの鳥居峠への道がはじまります。





民芸お土産たかしまさん、お蕎麦相模屋さん、お土産大坂屋さん、お焼きてずからさん・・・

水場。

あぶらや・・・油屋から宿旅籠に、廃宿後は煙草商など営んでいたが1960年代から御宿に。その先の花野屋は木工品、漆器、曲げ物屋さん。
※撮影日は11月26日、


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初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・奈良井宿・・・木曽の大橋

2019-01-14 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑・・・贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・にやってきました。
中世まで信濃国と飛騨国の国ざかいであった鳥居峠を控え標高900m、奈良井千軒といわれた大きな宿場の雰囲気を伝える八町五間の町並み。

奈良井川を越える奈良井刎ね橋があったあと。平成の一億創成事業で1991年3.3億かけて完成した総檜の木曽の大橋
※撮影日は11月26日、
★「奈良井」の地名由来・・・「ナルイ」形容詞~ゆったり、「ナラス」動詞~平らにする。ゆったりとした緩傾斜地。奈良盆地も同じ意味です。

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