比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・漆器の里「平沢」

2019-01-12 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・そこから奈良井宿に向かって南に少し行くと漆器の里「平沢」(国指定重要伝統的建造物群保存地区)です。
木曽平沢は江戸時代初期から漆器工人の町として形成された町です。輪島塗、津軽塗、春慶塗などのブランドではありませんが生産量としては日本有数。座卓の生産では日本一。町の8割の人が漆器工業に関係しているそうです。
江戸時代は贄川宿と奈良井宿の中間点にあり間の宿の役割りも担っていました。
標高920m、旧道に沿って南北850m、江戸時代末期から昭和初期の建物物群が続きます。静かな町です。




毎年6月の第一金曜日から三日間「木曽漆器祭」が開かれ、木曽平沢駅では特急、快速列車が臨時停車します。
※撮影日は11月26日、
★「平沢」の地名由来は・・・平地はありません。「ヒラ」は古日本語で急傾斜地、崖地を表す言葉があるようです。

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初冬の中山道・・・木曽路をゆく・・・「是より南 木曽路」・・・贄川宿

2019-01-11 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

中山道木曽路の旅・・・塩尻方面から本山宿を過ぎ、JR中央本線「日出塩駅」あたりを過ぎて国道19号線桜沢橋南詰に「是より南 木曽路」の石碑があります。
1940年、本山宿と贄川宿の間の桜沢で茶屋本陣を営んでいた百瀬家が建立したものです。桜沢川は 江戸時代の松本藩と尾張藩の境界線でした。

木曽路がはじまります。

JR東海中央本線「贄川駅」・・・ミニ常夜燈があります。標高870m。
1909年開業、駅舎は旧宿場町だった雰囲気を残しています。1日の乗客108人。

国道19号線・・・このあたりから木曽谷らしいV字谷になります。中山道33番木曽11宿北端の「贄川宿」・・・
家数124、福島関の副関1、本陣1、脇本陣1、旅籠25、宿内人口545。
町並みは昭和初期(1930年)の大火のため、宿場町の面影は残っていません。

復元された贄川番所・・・福島関所の副関・・・入り鉄砲、女改め、木曽五木不正搬出取り締まりの関。福島関と二重の網を張っていました。

1887年明治時代になって廃宿になり解体。古文書を参考に1976年復元したものです・・・板葺石置き屋根はフェイクで鉄板葺きです。
※撮影日は11月26日、
「贄川」の地名の由来・・・むかし煮えたぎった湯が噴き出す温泉があったいう説。「贄」とは神に対する食物の供え物、奈良井川に遡上してきた鮭、鱒を諏訪大社に献上してきたからという説、があります。

※コメント欄オープン。

上州路・・・中山道をゆく・・・碓氷峠を下れば・・・碓氷の関所の遺構

2018-05-14 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

上信国境碓氷峠、国道18号線(旧道)をいまは廃線になった旧信越本線の遺構を見ながら下って行きます。
峠を下りきったところに旧中山道69次17番坂本宿の街並みが・・・
坂本宿を東に下り横川の町並みの旧道に入れば町はずれの石垣の上に旧中山道の・・・碓氷の関所・・・

碓氷の関所の東門・・・1959年復元したもの。門柱と門扉、屋根材6点、土台石は当事のもの。

現在の道です。かつては道路の真ん中に東門、西門があり、門の中に御番所があり、道中手形改めなどが行われました。
その周囲には同心長屋、番頭住宅などが並んでいました。
※撮影日は3月23日。
★平安時代の899年、東海道の相模国足柄に足柄の関を、東山道の上野国碓氷に碓氷の関を作ったのが始まり。坂の東ですから坂東、関の東ですから関東と呼ぶようになりました。以来、明治維新まで碓氷峠の歴史は続き、新時代になり宿、関所は消滅しました。今は復元した東門が残っていますが西門を始めほとんどが解体され不明のようです。

※コメント欄オープン。


上州路・・・中山道をゆく・・・碓氷峠を下れば・・・坂本宿

2018-05-10 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

上信国境碓氷峠、国道18号線(旧道)をいまは廃線になった旧信越本線の遺構を見ながら下って行きます。峠を下りきったところに旧中山道69次17番坂本宿の街並みが。

下ノ木戸から街並みを見ています。まっすぐ伸びた緩い上り坂の広い道幅の宿場。遠くに見えるのは旧中山道の通る刎石山(909m)です。むかしはあの山から尾根伝いに碓氷峠(1188m)に上っていったのです。
広い道幅です。1625年徳川家光の時代に宿場町として道幅14.85m(中央に幅1.3mの用水路があった)、延長713mのニュータウンが開発されました。家数370軒、本陣2、脇本陣4、旅篭40軒、人口700人余、標高480m、軽井沢宿まで標高差700m、18km、西に碓氷峠、東に碓氷関所、坂本宿泊まりが必然となり、しばしば渋滞し、他の宿場より収容能力を多くする必要がありました。本陣2、脇本陣4は大名家の同時宿泊に備えてです。参勤に通過するする大名31家、例幣使道中、茶壺道中などで大いに賑わったといいます。

下ノ木戸跡(江戸に近いほうの木戸、京に近いほうに上ノ木戸があります)。
開門は明け六つ。閉門は暮れ六つ。人の顔を判別できる明るさで測ったそうです。

 佐藤本陣跡・・・屋根の上に養蚕用の気抜きの小屋根が見えますから明治に入っての改築かと思います。建造年不明。

 脇本陣みよやが跡・・・門構えのみのようですが?

脇本陣永井屋跡・・・門構えのみ?

元旅籠かぎや跡・・・建造年不明。


上の木戸あたり建つ芭蕉句碑

ひとつ脱いで うしろにおいて 衣かへ・・・ 

★寛政2年(1790年)に坂本の俳人グループが建立、芭蕉がこの地を詠んだものではない。刎石山の刎石四軒茶屋あたりあったものを明治時代中山道が廃止になったのを機に現在地に移転。

※撮影日は3月13日。

信濃路・・・中山道をゆく・・・沓掛宿・・・長倉神社

2018-05-05 | 旧街道・峠道・旧宿場

信州上田の・・・六文銭の写真帳 


江戸時代の江戸と京都を結ぶ幹線道路「中山道」・・・碓氷峠を越えた浅間三宿の一つ「沓掛宿」です。遺構は何一つ残っていません。
沓掛という地名も消えました(駅名は1956年、行政区は1960年に中軽井沢に)。沓掛とは・・・崩れた崖地、旅人が草鞋を脱いでひと休みした地・・・とか諸説あります。
律令時代、信濃16御牧の「長倉牧」、江戸時代は沓掛村、明治の大合併で長倉村、塩沢村と合併して東長倉村に。長倉とは長い倉(山の岩の露頭地)かな?

中軽井沢駅近くにある中山道沓掛宿脇本陣蔦屋跡碑
※中山道69次19番沓掛宿、1843年の調べによれば166軒、本陣1、脇本陣3、旅籠17軒、人口502人。
しなの鉄道中軽井沢駅前の交差点を中心に本陣、脇本陣があったらしいのですが遺構は残っていません。


しなの鉄道中軽井沢駅から東に歩いて約10分、国道18号線で湯川を渡ったところにある長倉神社
※927年編纂された延喜式に記されている佐久三社の一つと比定されているそうです。824年創建?
1783年浅間山の天明大噴火で焼失、現在の拝殿は合成建材でできたカフェ風? 裏に本殿があります。


社叢内に・・・沓掛時次郎の碑・・・が。
沓掛時次郎は劇作家長谷川伸(1884~1963年)が書いた劇中の人物、フィクションの人物が記念碑に?
チョッとおかしいですが、いまは地名から消えた「沓掛」の名をひろめたヒーローとして…まあイイでしょう。 
                                 

 ※撮影日は3月11日。

信濃路・・・軽井沢・・・中山道をゆく・・・仮宿・・・遠近宮

2018-05-02 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信濃路・・・佐久郡長倉村(現軽井沢町)の中軽井沢と追分の間、仮宿(かりやど)・・・という交叉点があります。ヘンな地名です。シュクではなくヤドです。中山道69次の宿ではありません。中山道脇街道・・・上州姫街道・・・の京都方面からの始発宿、江戸方面からの終着宿だったところです。
上州姫街道・・・仮宿から中山道と分かれ油井、風越、発地から和美峠へ・・・初鳥屋宿、本宿、下仁田宿、一宮・宮崎宿、富岡宿、福島宿、吉井宿、藤岡宿を経て中山道本庄宿に。碓氷峠のバイパスとして幕府直轄の公道でないため規制が緩く女性が多く通行したといわれます。
旧道は国道18号線の南に、遺構は残っていませんが旧宿場があっただろうと思われる静かな街並みが見られます。国道18号線、仮宿交叉点から南に入り旧道に・・・

仮宿公園・・・遠近宮の社叢。

遠近宮(おちこちぐう)・・・鳥居、拝殿。鉄板屋根、ガラス窓、現代に入って修復、棟札によれば享保年間(18世紀)修復とあるそうだ。

 遠近宮の由緒書。祭神は大山祇神の娘、磐長姫命、天津神に対する国津神(地の神)。                                                                    平安時代初期の歌人、在原業平の歌(新古今集、伊勢物語)に詠われたことから「遠近宮」と称せられたあるが・・・?
※撮影日は2月27日。


信濃路・・・佐久平・・・中山道をゆく・・・間の宿「茂田井」(終章)・・・浅間山・馬頭観音・牧水の歌碑

2018-05-01 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信州佐久平を横断する江戸時代の幹線道路の中山道・・・八ヶ岳火山群の北の端の蓼科山の北麓の洪積台地、26番芦田宿と25番望月宿の間に、現在ではほとんど人目に触れないような宿場跡があります。中山道69次の番外「間の宿 茂田井」 ・・・国道142号線から外れた旧道、静かな町並み。

大澤酒造前の街道ばたより眺める浅間山

旧中山道、宿場通りから見る浅間山

 茂田井宿上組の街道ぎわに巨大な馬頭観世音石碑。

武重本家酒造の玄関の正面に若山牧水の歌碑が・・・
若山牧水(1885~1928年)・・・旅を愛し酒を愛した歌人。牧水はたびたびこの地を訪れたという

よき酒と ひとのいふなる御園竹 われもけふ飲みつ よしと思えり
しらたまの 歯にしみとおる秋の夜の 酒はしずかに飲むべかりけり
ひとの世に たのしみ多し然れども 酒なしにして  なにのたのしみ

※撮影日は3月2日。
国道142号線を通ったならば訪れてみたい旧街道旧宿場です。遺構らしきものがほとんどありませんが、狭い急な道。江戸の時代を感じさせる街道そのもです。

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信濃路・・・佐久平・・・中山道をゆく・・・間の宿「茂田井」②・・・酒蔵のある風景

2018-04-30 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信州佐久平を横断する江戸時代の幹線道路の中山道・・・八ヶ岳火山群の北の端の蓼科山の北麓の洪積台地,。
26番芦田宿と25番望月宿の間に、現在ではほとんど人目に触れないような宿場跡があります。
中山道69次の番外「間の宿 茂田井」・・・国道142号線から外れた旧道、静かな町並み。

白壁、土塀に囲まれた1689年創業の大澤酒造・・・建坪3000坪。
大澤家は1737年から明治時代の1872年まで茂田井村の名主を務めた家柄であったそうです。

左の三階建ては母屋・・・右に酒蔵が続きます。

酒造蔵・・・しなの山林美術館(大澤邦雄、神津港人の絵画を展示)、民俗資料館名主の館書道館を併設。

大澤酒造から望月方面に下って行くと1868年創業の武重本家酒造・・・      
30棟の建物群が国の有形文化財に登録。                                                
武重本家酒造の門内から街道を見る。

軽自動車の場所からカメラの位置より下に続く・・・武重本家酒造
※撮影日は3月2日.。


※コメント欄オープン。

信濃路・・・佐久平・・・中山道をゆく・・・間の宿「茂田井」①・・・静かな町並みの風景

2018-04-28 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信州佐久平をを横断する江戸時代の幹線道路の中山道・・・八ヶ岳火山群の北の端の蓼科山の北麓の洪積台地。
26番芦田宿と25番望月宿の間に、現在ではほとんど人目に触れないような宿場跡があります。
中山道69次の番外「間の宿 茂田井」・・・
国道142号線から外れた旧道、静かな町並みの中間で現在の行政区域は佐久市茂田井、北佐久郡立科町茂田井に分かれています。

江戸時代の中山道そのままのキツイ傾斜、狭い道幅の街道、白壁の土蔵・・・

中山道69次の間の宿(あいのしゅく)「茂田井宿」、25番目望月宿、26番目芦田宿の間のナンバーの無い認可宿外です。中山道の間の宿はこのほかに吹上宿、桜沢宿(塩尻)、新加納宿がありました。中山道はいまでいう一級国道みたいなもの.幕府直轄、宿の認可は幕府が行っていました。ナンバー外はいろいろ事情があって認可されなかったもの。タテマエとして本陣、脇本陣、宿問屋、旅籠、駅馬など置きません。他宿の収容キャパの関係で緊急の宿泊が半公認だった?駅馬、宿問屋はなかったのですが物流の集散地として発展していきます。

茂田井・・・(もたい・・・カメの古日本語の表意文字、のちに茂田井という表音文字に)、古代の須恵器の生産地、須恵器の破片の出土があるようです。江戸期は茂田井村。1889年望月村、院内村と合併して本牧村→1959年望月町→2005年佐久市に。1960年旧茂田井の2/3が立科町に、1/3が望月町に残留。↑の地図の現在地のあたりで行政区域がわかれている。なぜむかしからの共同体であったムラを、しかも一本道の街道村のど真ん中で二分したか・・・?



養蚕のための江戸時代末期に工夫された温度、湿度調節の「気抜き小屋根」。

 大澤酒造の土塀のそばに「高札所あと」の説明板が。大澤家は茂田井村下組の名主を務めていました。

ユックリと歩けば・・・気分は江戸時代の旅人に・・・


※撮影日は3月2日。


信濃路・・・中山道をゆく・・・佐久・蓼科山の裾野・・・芦田宿

2018-04-27 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

ここは国道254号線142号線が合流した幹線道路から外れた旧中山道26番芦田宿
1843年の「中山道宿村大概帳」によれば家数80軒。本陣1、脇本陣2。旅籠6軒、人口326人。

町の中央あたり。
「本陣土屋の御殿(県宝)、味噌・醤油・醸造業の酢屋茂、旧旅籠の金丸土屋旅館」。
わずかに往時の宿場の雰囲気を感じさせます。

芦田宿旧本陣土屋家の長屋門です。
土屋家は主屋、御殿、問屋場、荷倉、酒蔵蔵、長屋など多くの建屋で構成されていました。現在に残る遺構は本陣御殿のみとなっています。  

本陣御殿(客室)です。寛政年間の1800年に再建されたもの。懸魚、鬼瓦の切妻、唐破風の妻入り玄関。間口5間、奥行11間。
大名の宿泊する堂々たる上段の間、江戸後期の建築様式を今に伝える遺構として県宝に指定されています。   

※脇本陣、問屋、庄屋跡は遺構として残っていません。跡地を示す案内標が建っています。
金丸・土屋旅館・・・現在の建屋は1804年ころの建造物。

酢屋茂・・・1888年創業の酢醸造家、現在は醤油、味噌醸造。

芦田宿・・・1601年中山道整備前の4年前の1597年にできた宿。蓼科山の麓、長野県北佐久郡立科町、江戸時代以前から入会権を守る芦田郷八ヶ村組合の中心芦田村、1955年芦田村、横島村、三都和村が合併して立科村に、1597年町制、1960年茂田井村の一部を吸収合併。
※戦国時代の領主(依田康国→芦田康国→松平康国)にまつわる伝説は波乱万丈。今の宿場の近くの芦田古町は滋野系芦田氏、依田系芦田氏の居城芦田城の城下であり、宿場町はニュータウン。松平康国は德川家康から下賜された名前、小諸藩立藩前の城主。のち弟が上州藤岡藩初代に、地侍から大名になったのは真田家と依田家だけ。

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