比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

信濃路の・・・中山道をゆく・・・小県郡依田川の谷から・・・笠取峠へ

2018-04-26 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信州を横断する江戸時代の幹線道路の中山道・・・小県郡依田川の谷間の標高700mの長窪宿から標高850mの松並木の笠松峠へ。比高150m余のなだらかな高原です。芦田宿へはまた比高100m余を下って行きます。

街道の松並木・・・箱根、日光に代表される並木道、一里塚などのランドマーク。1601年から五街道の整備を始めた江戸幕府が1604年「街道に並木道を」という植樹プロジェクトを発表します。幕府は小諸藩に753本の苗木を下賜、小諸藩は村々から人足を集めて植樹、つまり地方公共団体による公共事業です。以来、明治に至るまで植樹や手入れを繰り返してきましたが現在に残るのは72本だそうです。現在、中山道に残る松並木はここ笠取峠関が原だけ。東海道では保土ヶ谷、大磯、御油が有名。

笠取峠のマツ並木・・・石柱が建てられています。

常夜燈。

松並木の長さ1.5㎞。

側溝?

笠取峠から浅間山を見る。
※撮影日は3月2日。
笠取峠の頂上(標高約900m)はさらに2kmぐらい行ったところにあります。笠取峠の松並木の散歩は車を停めて碑文などを読んだだけ。少し歩き回れば馬頭観音、道祖神があります。時代劇によく出る峠の茶屋(立場茶屋)があったそうです。笠取峠の地名由来は笠も取るくらい暑かったからといいます。冬もソウだったのですかね。雁取峠だったともいいます。雁の渡りの通り道だったのでしょうか。刈取峠・・・刈敷き、秣の刈取り場だったかも。

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信濃j路の・・・中山道と大門街道、善光寺道、大内道・・・との交叉点・・・長久保宿を尋ねる

2018-04-24 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

中山道長久保宿です。                                                                         国道142号線を佐久市方面から諏訪方面に、笠取峠(標高850m)を越えて国道を下りていくと旧道との分かれ道(標高729m)。旧道に入ります。急傾斜の道を下っていきます。この街並みは縦に進むから竪町。進んでいくとT字路になり左右に横町
江戸から数えて27番目の宿場町。1843年の「中山道宿村大概帳」によれば宿の家数187、本陣1、脇本陣1、旅籠43軒、人口721人、たいへん栄えたようです。


旧本陣石合家・・・非公開ですが遺構として表門、御座敷棟(御殿)が・・・中山道最古(寛永年間1624年前後の推定)の本陣建築。
左側が高札場あとの復元(お触書などの張り出し場、公式の掲示板です)。

宿問屋小林家・・・明治3年(1870年)の大火で焼失、その後、再建。
東信地区には珍しい本棟2階造り、妻入り、二階の格子が江戸時代の様子を窺わせる。

釜鳴屋竹内家・・・酒造業、醤油、味噌醸造、1911年の屋敷図によれば敷地1500坪、棟数14、建坪491坪、うち母屋間口9.5間、奥行き10.5間。
切妻、平入、本うだつの堂々たる建屋、享保年間(1716~1736年)前の建築と推定、町屋造りとしては長野県最古といいます。

一福処濱屋・・・明治以降に旅籠として建てられたようですが、街道の時代は終わり開業にいたりませんでした。
間口9間、総二階、切妻平入り、出梁造り、総床面積400㎡の重厚な建物です。
今は長久保宿歴史資料館、観光客のお休みどころ、町民の語らいの場として使われています。駐車場があります。

 石置き板葺屋根の家・・・江戸末期の旅籠「丸木屋」復元。

竪町を下りてくるとT字路に。街道の分岐点です(標高682m)。南北に横町。
大きな道しるべが・・・左ぜんこうじ道。右中山道(和田宿方面に)
長久保宿と彫られていますから建てられたのか明治以降です。
※撮影日は3月2日。

長窪宿・・・が江戸時代の正式表記です。江戸時代に住民が「窪」の字を嫌って「久保」という美字・嘉字にしたいと幕府に申請しましたが認可が得られず、「長久保」の表記になったのは明治期になってから。「長窪」とは耕作に適した「長く伸びた沖積地」のこと。
旅籠数43軒・・・近くの望月宿9軒、芦田宿6軒、和田宿28軒に比べて多い。中山道と大門街道、善光寺道、大内道などが交わる交通の要衝だった。

※コメント欄オープン。

冬の信濃路・・・旧中山道・・・千曲川の渡船場・・・塩名田宿を尋ねる

2018-04-11 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月22日、近世は幕府直轄の幹線道路中山道の宿場のあったところ、長野県北佐久郡浅科村(現佐久市)の塩名田宿を尋ねました。
中山道69次23番「塩名田宿」・・・江戸時代佐久郡塩名田村、明治の時代1889年塩名田村、御馬寄村、市左衛門新田が合併して中津村に、1955年南御牧村、中津村、五郎兵衛新田村が合併して浅科村に、2005年佐久市に。千曲川の右岸、沖積地のやや河岸段丘の上。
塩名田宿・・・1843年の「中山道宿村大概帳」によれば家数116戸、うち本陣1.脇本陣1、本陣兼問屋1、旅籠7軒。人口574人の小規模の宿だったようです。東の岩村田宿と5.1㎞、千曲川を挟んだ西の八幡宿と2.9㎞、千曲川の氾濫期の足止め客の収容の分散のために宿間の里程(中山道の宿間平均里程7.3㎞)を短くしてあります。遺構は旧本陣兼問屋の丸山家、町屋の佐藤家が江戸期の面影を伝えています。

本陣問屋を務めた丸山新左衛門家です。1756年に再建されたの建屋ですが改修をくり返していまも住宅として現役です。
東信地区には珍しい中信、南信に多く見られる本棟造り、妻入り、屋根に雀脅しの装飾が見られます。

丸山家、もう1軒の本陣も丸山家、脇本陣も丸山家系で・・・

塩名田で最も古い町屋造りの家、佐藤家(佐越)

説明板を見ると、見世()があるから商家?部屋数が多いのから旅籠?茶屋?
写真では佐藤九郎右衛門、説明板では半左衛門になっています。


かつての中山道の「千曲の渡し」あたり・・・現代の中津橋・・・から見た浅間山。川下に北陸新幹線千曲川第一橋梁、下水管橋、県道44号線浅科大橋。
江戸時代初期は岩と岩との間に木材を架けた「投渡し橋」。洪水のたびに流されるのでその補修に板と人足を提供する100の村の組合があったそうです。1721年岩が洪水で流れされたため御馬寄側は跳ね橋に、塩名田側は投渡し橋に、1741年船を繋いて板を掛ける船橋にするが2年に1回は流されたとか。1年に5~6回の洪水が起きる暴れ川、水勾配もキツク狭窄部にかかるあたり、木橋の架橋が難しかったのです。右岸に船繋ぎ岩があります。近代的な木橋がかけられたのは1893年のことです。

※撮影日は2月22日。
地名の由来
浅科村・・・昭和の大合併時の造語、浅間山と蓼科山の一文字づつとって。
御馬寄・・・望月御牧の東端、牧の馬をここで寄せ集めたのであろう。
塩名田・・・塩の字のつく地名は多くあり①塩の流通に関係②塩を含む地質③塩に関係なく地形説・・・など諸説ある。
中津・・・千曲川の両岸に船泊まり・・・津があったから・・・?


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冬の信濃路・・・旧中山道・・・蓼科山麓・・・御牧ヶ原台地の南・・・八幡宿を尋ねる

2018-04-10 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月22日、近世は幕府直轄の幹線道路中山道の宿場のあったところ、長野県北佐久郡浅科村(現佐久市)の八幡宿を尋ねました。

中山道69次24番「八幡宿」・・・江戸時代佐久郡八幡村、明治の時代1889年八幡村、蓬田村、桑山村、矢嶋村が合併して南御牧村に、1955年南御牧村、中津村、五郎兵衛新田村が合併して浅科村に、2005年佐久市に。旧中山道は国道142号線と県道44号線に挟まれいまは市道に。家数143戸、本陣1.脇本陣1、問屋1、旅籠9軒。人口360人の小規模の宿。東に千曲川を挟んで塩名田宿、その距離2.8㎞、西3.5㎞に望月宿、宿間の里程が短いのは千曲川の洪水で川止めになることがあり逗留客を受け入れるための宿の役目があったようです。

宿場としての遺構は本陣跡の門のみ。
集落の守護神社で村の名前にもなった八幡神社、高来社(こうらしゃ)があります。高良社は高麗社、望月牧を管理した渡来人の祖神を祀る総社という説が定説のようです。

道路に面して一の鳥居、社号標。

二の鳥居、隋神門。1843年建立。

参道の正面に高良社の本殿、1491年望月城主滋野(望月)光重が建立。国の重要文化財。

八幡神社本殿、拝殿、1789年建立。高良社の右隣に建てられています。


八幡神社内の高良社は八幡神社の摂社であるか主祭神であるか・・・境内の配置を見て疑問が残ります。当社は895年滋野貞秀により創祀・・・高良社として創建か?、八幡宮はそれよりよりあとの勧請か?鎌倉時代の史書「吾妻鏡」に「佐久八幡者」の記載があるそうです。
※撮影日は2月22日。


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冬の信濃路・・・旧中山道・・・古代官営「望月の牧」の地・・・望月宿を歩く

2018-04-09 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月22日、古代律令時代の官営牧・・・信濃16牧の一つ望月牧、江戸時代の中山道69次25番望月宿、長野県北佐久郡望月町、いまは佐久市望月にやってきました。
望月・・・はてどんなところ・・・千曲川の右岸の小諸あたりから南に見えるコニーデ型の蓼科山。その裾野に広がる広大な洪積台地、台地の末端は河岸段丘の断崖。その台地上にあるのが古代官牧の中心地望月です。近世は幕府直轄の幹線道路中山道の宿場のあったところ。
国道142号線望月交叉点から旧中山道の道に入っていきます。
鹿曲川の左岸に沿った小さな町です。1843年の「中山道宿村大概帳」によれば家数82戸、うち本陣1.脇本陣1、問屋1、旅籠9軒。人口360人の小規模の宿だったようです。
往時の宿のおもかげを残している建屋を探して歩いてみました。

旧御本陣(現在は大森小児科医院)・・・跡地の大半は1887年法務省に寄付、登記所に。
1980年望月町所有に、1891年望月歴史民俗資料館に。

脇本陣・・・鷹野家、1819年大火、1825年再建。2階は大正期に養蚕のため増築。

問屋旅籠やまとや真山家・・・1765年の建造、国の重要文化財。

旧旅籠山城屋・・・現在も旅館業営業。明治期に入った1882年建築。

町の中で見かけた下駄屋?の看板。

国道から脇に入った静かな町ですが寄ってみたい町です。
※撮影日は2月22日。


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冬の信濃路・・・古代官営牧の「望月牧」・・・中世の山城「望月城」・・・望月を尋ねる

2018-04-08 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月22日、古代律令時代の官営牧・・・信濃16牧の一つ望月牧、江戸時代の中山道69次25番望月宿、長野県北佐久郡望月町、いまは佐久市望月にやってきました。
望月・・・なんとも優雅な地名です。陰暦8月15日の夜の満月を望月というのだそうです。平安朝の清和天皇の865年朝廷で貢馬されるここの牧の馬を迎える「駒迎えの儀」を陰暦8月15日に行ったことから望月と呼ばれるようになったのだとか。
1889年望月村、茂田井村、院内村が合併して本牧村、1959年、本牧村、布施村、春日村、協和村が合併して由緒ある望月の名の望月町に。2006年佐久市に。

旧望月町の中心部にやってきました。
望月の象徴・・・「望月の駒」の像・・・佐久市市役所望月支所の庭に。

望月牧の鎮守社「大伴神社」・・・延期式に記された佐久三社の一。祭神は大伴氏の祖神。

望月城址・・・標高780m、山麓との比高差110m。平安時代から続く滋野氏系の望月氏の本拠。鎌倉時代の築城といわれる山城。
20世紀初めに出版された立川文庫「真田幸村」に登場する真田十勇士のメンバー望月六郎はこの一門といわれるがフィクション。

望月城の山麓・・・望月城主望月家の菩提寺・・・曹洞宗城光院・・・1475年望月城主望月光恒の開基。本堂は1804年再建。
望月氏のルーツ、栄枯盛衰については割愛。

佐久市立望月歴史民俗資料館・・・旧本陣(大森家)の跡地に1991年開館。
※撮影日は2月22日。


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冬の信濃路・・・旧中山道・・・小田井宿をゆく

2018-04-06 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月14日、長野県北佐久郡御代田町、旧北国街道の間の宿「馬瀬口」から旧中山道「小田井宿」にやってきました。

小田井宿」(おたい)・・・中山道69次21番目の宿。1843年の中山道宿村大概帳によれば8町40間の間に109軒、319人、本陣1、脇本陣1、問屋場2、旅籠5軒。宿としては小規模ですが問屋場2軒、物流の集積・中継地として栄えたようです。
大名、皇室関係者が追分宿に宿をとる際に姫君、側女は飯盛り女のいる歓楽街の追分宿を避けてここに泊まったため「姫の宿」と呼ばれたようです。
明治維新後の1870年その役目を終り、1888年信越本線開通の際は駅設置が地元民の反対により無人の原野だった久保田地区に「御代田駅」が設置され、そのためか小田井の宿街は往時の面影を残す静かな佇まいを見せています。

旧本陣「安川家」・・・皇女和宮は下向の際に休息されたとか。非公開。

旧上の問屋・・・安川家分家筋、木造二階建て、切妻、平入。出桁造り、千本格子。

旧脇本陣、旧下の問屋は跡地のみ。町並みには旧旅籠の建屋が見られます。

旧本陣安川家の裏手にある「宝珠院」・・・真言宗智山派飯王山慈眼寺寶珠院。1711年創建、1690年現在の地に。本堂は1995年改築。

宝珠院のシダレザクラ・・・幹回り2m、樹高~8m。樹齢300年以上と推定。
※撮影日は2月14日。


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冬の信濃路・・・古代塩野牧の馬の出入り口・・・馬瀬口・・・柵口神社

2018-04-04 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月14日、長野県北佐久郡御代田町馬瀬口(マセグチと読みます)にやってきました。
国道18号線「馬瀬口交叉点」を山側に曲がり最初の交叉点を右に曲がるとこんな街並みが見えてきます。旧北国街道(県道134号線)、中山道追分宿から北国街道小諸宿との中間、一里塚があり、主に輸送用の馬、牛(中牛馬)とそれに携わる馬方などが休息する馬宿、牛宿の「間の宿」のあったところです。旅人も休息できる宿でもあったようです。
地名の由来は古代官営牧場の塩野牧・・・放牧場の馬柵の出入口・・・馬塞、馬栓・・・から来たマセ・・・馬瀬、間瀬、真瀬など表記はいろいろ。

旧北国街道・・・何となくむかしの街道筋を思わせる雰囲気があります。

馬瀬口集落、旧北国街道、1878年、明治天皇が東海道、北陸道を巡幸されたときご休息されたという高山家です。御代田町指定史跡。

馬瀬口の氏神・・・柵口神社の一の鳥居・・・石段を昇ると二の鳥居・・・拝殿に続きます。

柵口神社拝殿・・・ませぐちと読む・・・馬瀬口と同意。祭神は大山祇神の娘―盤長姫命、創建年不明。

裏口に回ると、石碑が・・・御嶽信仰系、庚申塔、、大日大聖不動明王?など・・・石神、石仏が乱立?


馬瀬口集落の外れで見える風景・・・浅間山麓・・・繰矢川の上流・・・
火山灰が積層し凝灰したシラス台地、枯れ沢(軽井沢)の末端から川となってシラス台地を削って田切地形(断崖)に。
※撮影日は2月14日。


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冬の信濃路・・・旧中山道・・・追分宿・・中山道と北国街道の分岐点・・・「分去れ」

2018-04-02 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
2月5日・・・冬の信濃路・・・軽井沢町追分・・・旧中山道追分宿・・・を尋ねました。
東の入口あたりから、追分公園、浅間神社、芭蕉句碑。旧本陣、旧脇本陣油屋旅館、堀辰雄文学記念館、諏訪神社、旧旅籠屋、旧枡形茶屋を見ながら宿の西へ・・・

旧道からふたたび国道18号線に出てすぐ、中山道と北国街道の分岐点・・・[分去れ]が・・・
常夜燈・・・道しるべ石標、歌碑、道祖神、お地蔵さん、馬頭観音など・・・あります。
右の細い道が旧北国街道、手前の大きい道が国道18号線(現在の北国街道)、すぐ先に左に入る小さな道が旧中山道です。


追分・・・元々は牛馬を追い分ける場所が地名に、それが道路の分岐点の地名に。各地にあるようです。ここでは中山道と北国街道の分岐点といわれていますが江戸時代初期の中仙道整備前からいわれていて古代東山道がここで関東と東北方面に分かれたことからという説が・・・だそうです。
分去れ・・・追分と同じ意味で、長野、群馬、山梨あたりの方言・・・らしい?

追分あたりから見る・・・厳冬の浅間山・・・
※撮影日は2月5日。


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冬の信濃路・・・旧中山道・・・追分宿・・・堀辰雄ゆかりの「油屋旅館」と「堀辰雄文学記念館」

2018-04-01 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳
2月5日・・・冬の信濃路・・・軽井沢町追分・・・旧中山道追分宿・・・
中山道追分宿・・・江戸時代の幕府直轄五街道の宿場、軽井沢三宿(軽井沢、沓掛、追分)の一つ。中山道、北国街道の分岐点。元禄期の記録によれば旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒、飯盛り女200~270人の大きな宿場だったといいいます。
国道18号線・・・軽井沢方面から仮宿、追分と進むと国道から右に分かれる旧道が・・・旧中山道追分宿のおもかげの残る街並みに入ります。

旧脇本陣「油屋旅館」・・・1937年火災により焼失、再築したもので江戸期からの建屋ではない。
昭和期に芥川龍之介、堀辰雄、立原道造ら文人の愛した旅館、堀辰雄はここで逗留し、執筆した。
2012年改修・・・「文化磁場油や」に・・・二階は4月~11月営業の旅館、一階は本、アート、音楽など文化発信の場に。


堀辰雄文学記念館と入り口の・・・旧本陣(土屋家)の裏門


旧本陣裏門・・・本陣は建坪238坪あり中山道では三本の指に入り広大なものであったという。維新後1993信越本線開通によりその役目を終える。裏門は他家に売却、保存されていていたものが返却され解体修復され現在の位置に。棟札から1833年建造と判明。
堀辰雄(1904~1953年)・・・小説家、代表作「風立ちぬ」「菜穂子」、たびたび軽井沢の追分の「油屋」に逗留して執筆活動、1944年からは追分に住み1953年没。堀辰雄文学記念館は旧居。
※撮影日は2月5日。


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