比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

今日は何の日・・・太平洋戦争・・・米軍が沖縄に上陸した日です

2013-04-01 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日。太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸した日。
あれ以来、沖縄は何も変わっていません。
日本は47都道府県といいますが、沖縄はこの中に入っていずに46都道府県・・・そんな気がします。

世界でも最も美しい海、ヤンバル(沖縄北部)の海が埋め立てられようとしています。

2007年4月1日投稿のブログです

今日は何の日。太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸した日。

上陸地点は沖縄本島中部の西海岸、嘉手納町、読谷村。米軍の陽動作戦により南部海岸に上陸を想定した日本軍は不意をつかれ、なすすべもなく水際作戦を放棄しました。
わずか1時間で16000人が上陸したといいます。
無血上陸です。
4月5日までには中部地区は東海岸に至るまで米軍に制圧されます。
これより米軍は南部に向かって進攻を開始します。


米軍の兵力は総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
日本軍は陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。
それから2ケ月半、6月22日、牛島中将の自決により組織としての戦闘は終結しますが、沖縄県民にとっての地獄が日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後です)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。

《2007年3月26日投稿のブログです》

今日は何の日。1945年3月26日、太平洋戦争で沖縄に米軍が攻撃を開始、慶良間諸島に上陸した日です。
慶良間諸島、本土の人はほとんど知りません。那覇空港の遥か西方40kmに浮かぶ島、そこが慶良間諸島です。船で1時間、大小20の島からなります。

米軍はいとも簡単に上陸しました。わずかな日本兵と防衛隊と称するものと島民です。阿鼻叫喚です。パニック状態です。



渡嘉敷島の記録では犠牲者は日本兵76人、軍属87人、防衛隊41人、島民368人(内集団自決329人)とあります。この集団自決が後々問題になりました。慶良間諸島全体では集団自決は700人といわれます。

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戦時下の沖縄疎開児童を乗せて沈没した・・・対馬丸…のこと

2012-12-04 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
2009年9月20日、「白旗の少女」…という本のことをブログを載せました。
2012年11月10日、「かんからさんしん物語」という本のことをブログに載せました。
いずれも1945年(昭和20年)、大和世(やまとゆ)の時代、太平洋戦争、日本で唯一、住民を巻き込んだ地上戦のあった島で、戦場の中に放り出された子どもたちの話です。

今回は沖縄が戦火に巻き込まれる1年前、1944年8月22日夜10時12分、沖縄から九州に向けて疎開する学童・一般人合わせて1661名(うち学童は800余名)を乗せて那覇港を出港した日本郵船所有の大型貨物船「対馬丸」が奄美群島の北、トカラ列島の悪石島の西北で米軍の潜水艦魚雷攻撃により沈没した話です。
沈没による犠牲者1476名。生存者は兵・乗組員28名、一般人98名、学童59名。

この話は本土の人にほとんど知られていません。戦中のことであり厳重な箝口令で報道されることがなかったこと、敗戦後27年間、沖縄がアメリカの統治下におかれ日本ではなかったことがそうさせたかもしれません。また沖縄を訪れる内地の人で戦跡に詣でる人は「ひめゆりの塔」「摩文仁の丘」を訪ねても、那覇市波之上の護国寺にある「対馬丸」犠牲学童の記念碑「小桜の塔」を訪ねる人はほとんどいないようです。

対馬丸」のことを書いた本を3冊読みました。いずれも児童書です。

大城立裕・嘉陽安男・船越義彰 共著「対馬丸」(理論社 1982年刊)
大城立裕原作 構成・文 理論社編集部 アニメ絵本「対馬丸 さようなら沖縄」(理論社 1982年刊)
金沢嘉市 編著「つしま丸のそうなん」(あすなろ書房 1987年刊

最初の1冊、「対馬丸」は聞き取りを重ねて1961年文林書房、1975年おりじん書房から出版、いずれも小部数の販売にとどまったようです。初版は沖縄復帰前であり、2版目は復帰直後、注目されなかったのでしょうか。児童書といっても小学校高学年から中学生ぐらいが対象です。大人の方にもぜひ読んでもらいたい。


1944年7月、サイパン島陥落により事実上、太平洋戦争の決着がついたのですが戦争は続きます。国は沖縄が戦場になることを予測、児童・生徒に疎開令を出します。生まれた島を離れるのですからかなり抵抗があったようで、上意下達で説得に努めたようです。
本はこの辺のいきさつから、乗船して攻撃を受けてから救助されるまで、数人からの聞き書きによるものです。子どもたちですから記憶が断片的で正確なものではないかもしれません。
救命ボートもあったようですが竹で作った筏が大量に用意されてたようです。海の中で筏をめぐる話もあります。
この話は秘密裡にされたようですが、人々の口は閉ざされません。

わずかに生き残った者だけが語ることができた記録です。海の中に沈んでいった1476人の人々は何も語りことができませんでした。

1944年10月、沖縄に本格的な空爆が行われるようになり対馬丸事件により及び腰になっていた人々も疎開するようになります。
その数、1945年3月、米軍の沖縄上陸前まで、187隻、8万人に及ぶといいます。
不思議なことそのごの疎開船は潜水艦攻撃を受けたという記録がありません。米軍側は撃沈した日本の輸送船が幼い子供たちを乗せた船と知ったのでしょうか。「対馬丸」を撃沈した「ボーフィン」は真珠湾にボーフィン・サブマリンミュージアム&パークとして展示されているそうです。

非戦を訴える内容ではありません。沖縄からの児童疎開船「対馬丸」で起きたことを書いてあるだけです。
左翼でも右翼でもなく共産思想でもなく軍国思想でもなく、今度の戦争を肯定するものでもなく否定するものでなく、ただ人間による人間に対する加虐の状況が書かれています。

戦場だった沖縄が1945年6月23日陥落して米軍の統治下になって27年目の1972年日本復帰して…2012年のいま何も変わっていません。戦場のままです。普天間も、地位協定のことも言う人はいません。

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沖縄戦を生き抜いた子どもたち・・・かんからさんしん…を読んだ

2012-11-10 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
                                           、
今年6月、ある人からある本を紹介されました…児童書です。
重いテーマで、なかなか気持ちがまとめられず、ブログで紹介するのがいまになってしまいました。
沖縄の話です…歴史を遡ると長くなりますが、大和世(やまとゆ)の時代、太平洋戦争、日本で唯一、住民を巻き込んだ地上戦のあった島、そして27年間の米軍占領下(アメリカゆ)からの返還(変な言葉ですね)、そしていま大和ゆ、戦争に負けたころの沖縄と実質はどう変わっているのでしょうか。

昭和20年(1945年)4月…太平洋戦争末期、アメリカ軍は圧倒的な軍事力で沖縄本島に上陸します。
この物語は小学4年生の少年の目を通してみた沖縄戦、日本軍の壊滅と日本国で唯一地上戦に巻き込まれた沖縄の人たちの物語です。

嶋 津与志著かんからさんしん物語」(理論社 1989年刊)

かんからさんしんとは大きな缶詰の空き缶で作った三線(三味線)のこと。大和グチ(日本の標準語)ではSANSENと発音しますがウチナワグチ(沖縄方言)では母音のE→I,O→Uと発音しますから「せ」が「し」になります。日本の地方言葉にもそういうようなことがいっぱいありますし、フランス人はHの発音ができませんから不思議なことじゃありません。

沖縄戦のころ筆者は熊本に疎開していていました。戦争が終わり生れた村に戻った時、村に設けられた戦災難民の収容所に何万もの避難民が収容されていて、彼らの子弟とともに戦後第1期の小学1年生に、収容所でも学校でも話題は戦争体験談。死線を超えて生き延びてきた彼らの話を聞くうちに、無残に倒れていった死者たちへの鎮魂の思い、無念の思いがこめられていることに気づきます。
やがて戦場にいなかった筆者は…「知らないからこそ知らなければならない」という思いに駆られるようになります。

この物語は筆者の体験談ではありません。幼いころ友だちや先輩から聞いた「戦ばなし」、虚実も定かではない、モデルも特定できない、記録とするには頼りない、それでも沖縄戦にこだわった村の物語を書きたい…筆者はあとがきでそう述べています。

物語の舞台は沖縄南部(島尻)、摩文仁岬と知念岬の間…玉城村(たまぐすくそん、現南城市)あたり。小学4年生の正吉、祖母と母、嘉手納の農林学校に行っているケン兄、満州で戦死した父の形見の三線を背負っての避難行、墓の中の生活(沖縄のお墓は漆喰で塗り固められた亀の甲のような型の人が何人も入れる大きなお墓も多い)、珊瑚礁の自然洞窟(ガマ)、日本兵との接触、玉砕、集団自決、戦世(いくさゆ)も終わり捕虜として収容、やがて村で母は豆腐屋を再開。避難行の途中、父の形見の三線は無残にも壊れてしまいました。

ある日、兄の学友が訪れ義勇兵として沖縄北部にいたケン兄の死を知らせます。学友は兄の名前の書いた布切れと石ころを渡します。
お母ァはボンヤリとした目つきで石ころをながめ…
たったこれだけ…
お母ァがナークニ節をうたっている。

       玉黄金如くに 育てたる産シ子
       誰が取て喰たが 悪魔、畜生


ちくしょう、ちくしょう!この親不幸者ン…」あれからお母ァはマラリアで寝込んでしまった。

学友が訪れた日から7日目、マラリア熱が下がった母はケン兄の初七日と勝手に決めて石ころをもってお墓に向かいます。墓の前で正吉は6斤缶の空き缶を胴に、ベッドの足を削り棹に、落下傘の紐を弦にして作ったかんからさんしんを弾き、歌います。

       嵐世になっても 忘るなよ互いに
       またも巡り合う 命どぅ宝


洞窟壕の中でこの歌を教えてくれた洋子先生は摩文仁の司令部壕の中で自決したと聞きます。
歌っているうちに懐かしい顔がうぎつぎに浮かんできます。

玉城村(たまぐすくそん)…沖縄戦終焉の地…摩文仁から東、翡翠色の珊瑚礁のリーフ、神の宿る琉球神話の聖地久高島、玉城城址、天粒天次御嶽、玉泉洞…美しい村です。

この本を教えてくれたのはカナダ在住の「木霊の宿る町」というブログのオノマさんです→オノマさんの2012年6月19日のブログです

戦争に負けたころの沖縄といまの沖縄…どう変わっているのでしょうか…何も変わっていない。

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今日は何の日・・・沖縄「慰霊の日」

2012-06-22 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
1945年3月26日太平洋戦争において沖縄県慶良間諸島に米軍が上陸。
1945年4月1日沖縄本島に米軍上陸。
1945年6月23日沖縄南部摩文仁において日本帝国陸軍第32軍司令官牛島満中将自決、この日をもって太平洋戦争の日本(唯一の)国内における組織的地上戦は終結します。

6月23日は沖縄において太平洋戦争の戦闘状態が終結した日です。
この戦闘において沖縄県民の1/3が死亡したといわれます。沖縄県では県条例で《慰霊の日》としています。

・・・・・・・・・黙祷・・・・・・・・・・

今年の1月15日から始まった山崎豊子の小説をドラマ化した「運命の人」。小説は前に読んでいましたがドラマも録画してずっと見ていました。
写真は第10話(最終回)の冒頭のシーンです。

沖縄の本土復帰にまつわる日米秘密協定・・・その報道にかかわり、すべてを失った主人公の新聞記者がやがて沖縄に辿りつく。そして沖縄の現実をつぶさに知っていく・・・最終回はこのテーマが中心になっています。敗戦時の集団自決、米兵による少女暴行事件、ヘリコプター墜落事件、小説とはいえ沖縄のことがわかってきます。終章では主人公と少女暴行事件の当事者の女性との交流を追って、すべてを失いこころに深い傷を負った女性が必死に生きていく姿を描いています。

最後に主人公はこうつぶやきます。
「沖縄を知れば知るほど、この国の歪みが見えてくる。それにもっと多くの本土の国民が気付き、声をあげねばならないが・・・」

沖縄少女暴行事件・・・1995年、3名の米兵が12歳の女子小学生wを監禁、暴行した事件。これが元で日米地位協定の見直しの声が上がり85,000人の大集会が開かれる。基地沖縄の現実そのもの。このことを知らない本土の人は政治家をはじめ多い。

NHKのテレビで池上永一の小説をドラマ化した「テンペスト」を放映していました。江戸時代末期の琉球王朝、清国と薩摩との二元外交、やがて日本国に併合されていく。そんな時代背景のドラマです。


沖縄のことを知ってるつもりで何も知りません。ドラマを見てから図書館で小説を借り読んでいます。

67年前の6月23日、沖縄では戦争状態が終結しました。負けたのです(終戦ではありません)。日本国全体が敗戦を迎えるのはその53日後の8月15日です。そして米軍の占領統治下から本土並みの復帰を果たすのは27年後の1972年のことです。

それから40年、本土並み復帰を果たしているでしょうか。

沖縄のこと何もわからないままに・・・カテゴリー沖縄のこと・・・を書いてきて29編になりました。
古いエントリーで今でもほとんど毎日、見ていただいているブログがあります。見ていたければと思います。
2007年4月1日のブログ・・・沖縄戦・米軍上陸・集団自決
2009年9月20日・・・命どぅ宝・・・白旗の少女

↓クリック・・・遥かカナダ在住の方からトラックバックいただきました
「白旗の少女」のことです。

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6月23日は沖縄慰霊の日です

2011-06-24 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
1945年3月26日太平洋戦争において沖縄県慶良間諸島に米軍が上陸。
1945年4月1日沖縄本島に米軍上陸。
1945年6月23日沖縄南部摩文仁において日本帝国陸軍第32軍司令官牛島満中将自決、この日をもって太平洋戦争の日本(唯一の)国内における組織的地上戦は終結します。

6月23日は沖縄において太平洋戦争の戦闘状態が終結した日です。この戦闘において沖縄県民の1/3が死亡したといわれます。沖縄県では県条例で《慰霊の日》としています。

・・・・・・・・・黙祷・・・・・・・・・・


今朝の朝刊の社会面に沖縄水産高校のOBの学徒兵のインタビュー「沖縄よ捨石になるな」が載っています。同期生21人中たった一人の生き残りです。

捨て石って何でしょう。大部分のかたは何となくわかる程度でしょう。
囲碁で使われる戦術用語です。相手との戦いの接点でわざと相手に自分の石を取らしてその結果、相手の石を大量に取るという一発逆転の妙手です。
太平洋戦争で戦局不利な場所でよくいわれました。何かこの捨て石という言葉の使い方がおかしいです。結果として捨て石にはならなかったですし囲碁の世界の言葉をこういったところで使うのも人間の命に対する冒涜です。


(沖縄)慰霊の日・・・1945年(昭和20年)6月23日未明、日本国内で唯一の地上戦となった沖縄で日本軍守備隊最高司令官牛島中将が自決したといわれ、この日をもって日本軍とアメリカ軍の組織的な戦闘は終わりました。
1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1972年本土復帰。祝祭日から外され、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活。


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6月23日は沖縄「慰霊の日」・・・そして65年経った

2010-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
6月23日は「沖縄の日」・・・今年もまた、今日がその日・・・沖縄のこと・・・どれだけ知ってるんだろう。

水彩画は「伊江島・タッチュー」2004年(M8号)。
伊江島は・・・沖縄北部、本部半島の北西9km、周囲22km、人口4800人。

わたしは沖縄のことを何もわかりません。ここに一つの歌があります・・・2002年沖縄の本土復帰30周年を記念して、沖縄石垣島出身のアコースティックバンドBEGINが発表した曲です・・・
ウチナンチュウも「僕はどれくらい知ってるんだろう」と歌っています。歌詞は2番のみ抜粋しました・・・

   島人ぬ宝(シマンチュウのタカラ)
                 詞・曲 BEGIN

 僕がうまれたこの島の海を
 僕はどれくらい知ってるんだろう
 汚れてくサンゴも 減って行く魚も
 どうしたらいいのかわからない

 でも誰より 誰よりも知っている
 砂にまみれて 波にゆられて
 少しずつ変わってゆくこの海を

 テレビでは映せないラジオでも流せない
 大切な物がきっとここにあるはずさ
 それが島人ぬ宝




(沖縄)慰霊の日・・・1945年(昭和20年)6月23日未明、日本国内で唯一の地上戦となった沖縄で日本軍守備隊最高司令官牛島中将が自決したといわれ、この日をもって日本軍とアメリカ軍の組織的な戦闘は終わりました。
1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1972年本土復帰。祝祭日から外され、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活。

汚れてくサンゴも 減って行く魚も  どうしたらいいのかわからない
沖縄はドコモ・・・人も海も美しい。YouTubeは→こちら

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国道16号線福生界隈・・・横田基地から普天間が見える

2010-06-11 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
多摩川の畔、玉川上水の羽村取水堰あたりを散歩してから福生市(ふっさ)に来ました。
道は福生市から在日米軍横田基地に沿って羽村市、瑞穂町に続く首都圏大環状線国道16号線です。むかしは上下2車線の狭い道でしたがいまは4車線の広い道になっています。

瑞穂町箱根ヶ崎に向って道路の右側は米軍基地、左側はローマ字看板のショップ、レストランなど。

  

   US.AIR FORCE Yokota Air Base 横田基地・・・ゲートです。
   


むかしは16号線と基地の間は金網でしたがいまは高いコンクリート塀で目を遮られています。羽村市から瑞穂町に近いところではじめて滑走路が見えてきます。

Yokota Air Base・・・横田飛行場・・・本州最大・・・713㌶・・・3300mの滑走路・・・


立川市、昭島市、武蔵村山市、そして国道16号線に沿って福生市・羽村市、瑞穂町・・・5市1町。

国道のそばの金網の向こうには普天間、嘉手納のような光景が見られます・・・復帰前の沖縄、なんどか行きました(仕事ですが)。沖縄の人と友だちのような付き合いもしました。でもウチナンチューとヤマトンチューの壁が何となく感じられましたね。ヤマトンチューの残した傷は深いのです。

普天間基地・・・480㌶、2700mの滑走路。
上に見える海は東支那海、左側が那覇、右に沖縄市、嘉手納基地。
この横をなんどか車で通過したことがあります。那覇から約10km、むかし1号線といった道を牧港を過ぎて丘の上に登っていくと基地が見えて、金網の中の芝生の中に洒落たハウスが見えました。コザ方面に向うと途中に泡瀬ゴルフ場、金網の向こうでアメリカ人がゴルフを楽しんでいました。

謎の物体(ストロンチューム?・・・放射性物質)を積んでいたという普天間基地所属の大型ヘリコプターがこの飛行場の南端に近い沖縄国際大学キャンパス内に墜落したのは2004年のことです。
嘉手納基地・・・極東最大の米軍基地・・・1997㌶(羽田国際空港が1200㌶)・・・3500mの滑走路2本。
左が東支那海、上が読谷村、飛行場の下に見えるのが北谷町、沖縄市、うるま市、右下は太平洋、さらに勝連半島米軍施設ホワイトビーチなどがあります。滑走路の右に広がる緑地は知花弾薬庫か?

普天間ばかりがクローズアップされましたが、そのすぐそばにおよそ4倍規模の嘉手納基地があることを誰(政治家、マスコミ)も語っていません。

嘉手納基地については「道の駅かでな」が詳しい。
※上の2枚の写真はWikipediaから・・・いずれもクリックで拡大します。

沖縄といえばエメラルドグリーンの美しい海に郷土料理、テレビの娯楽番組はいつもそんな映像を流しています。でも基地の中で生きていく・・・これが沖縄の日常です。こんなことが65年続き、これからも続いていきます。
ヤマトンチュウは何度、沖縄の人を辛い目に合わせるのでしょうか。先の太平洋戦争で戦さ場になった沖縄は県民の1/3近くの命を犠牲にします。ようやく日本国民になれたのは置き去りにされてから27年目の1972年です。さらに今の普天間問題です。

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東京都下羽村市・・・多摩川の河原から・・・空を飛ぶ???が見える

2010-06-10 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
多摩川の河原に鳥を見にきた。オオヨシキリは囀りばかりで姿を見せてくれない。

横堤に生き物・・・失礼・・・スケッチをする人でした・・・釣りをする人もいる。

アオサギ・・・黒い冠羽がカッコイイ!

マガモ?・・・かな。渡りをしないマガモもいるのかな・・・アイガモかも?

空を飛んでいる・・・鳥ではない・・・機首にUS AIR FORCEという文字が、垂直尾翼に星条旗。






ロッキードC130ハーキュリーズ(戦術輸送機)。短い距離での離発着が可能な機種。底面を見ると車輪が飛び出していなくてソリも可能のよう。砂漠や雪原も対応できる。羽村の河原から眺めているとかなりの短い時間間隔で発着を繰り返している。横田基地から入間方面に飛んでいってUターンして帰ってくる。ここは米軍の制空圏下なのだ。こんなことが何10年も続いている。沖縄の普天間、嘉手納では65年も続いているのだ。こんな写真撮って大丈夫なのだろうか。

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沖縄戦・・・生きたくても生きられなかった・・遺骨収集の現場から

2010-03-15 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
NHKテレビ・福祉ネットワーク「〝生きる力"を取り戻せ」という番組が2月25日放映されました。この話を私がいつも見ているこころの一人旅」2月26日のブログを見て知り、3月4日の再放送を録画して繰り返し見て考えました。

1945年4月1日から6月23日までの沖縄戦・・・もう65年がたとうとしています。亡くなったかたは日本軍、米軍、沖縄県人すべてを含めて20万人余。いまも多くのかたの遺骨が土中に埋まったままです。

2009年10月9日、那覇市首里の旧日本軍司令部の近くの空き地の丘に上に沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨収集のために50人の人が集まりました。路上生活者・家や仕事を失って支援施設に住む人たちの仕事として遺骨収集の市民団体、路上生活者自立支援NPOの方たちが市に呼びかけて実現したものです。2ヶ月働いて約20万円、50人ですから予算は1000万円規模。それを自立のきっかけにしてもらいたいというのが狙いなのでしょうか。


この人たちは
何でここで
死ななきゃならなかったのか
(遺骨収集市民団体世話人さんの言葉より)

彼らは生きたくても
生きられなかった"人の命”だった
その遺骨に触れることによって
真剣に生きることを考えて・・・
(自立支援NPO世話人さんの言葉より)

首里の丘の上でしょうか。
かつてこの丘の上には一草一木もないほどに大量の砲弾が打ち込まれました。

10月21日、最初の遺骨が発見されます。
銃弾も大量に出てきます。
お骨には銃弾の貫通したあとが。
お骨は日本の兵隊さんかウチナワンチュか米兵かわかりません。
死ねばみなホトケ様です。
64年間、野ざらしになっていたこの人も
これで心安らかに眠れるのではないか・・・

年が明けて1月、慰霊祭が行われました。

確認された遺骨は170柱。お線香が捧げられます。
 

幸せね、
こうして供養される
みなさんは


まだ多くのかたがたが
土中の眠ったままです。

働いていた人たちのつぶやき・・・
ここで働いて人生が変わった。ほんとに働いたような気がする。
前よりも前向きに生きていけるのではないか。
仕事は終わったが忘れてはいけない。
遺骨をとおして学ばなければいけないことがあった。
人のためでもあったが自分のためでもあった。
生きていてよかったという気分でがんばりたい。
死んだらそれで終わり、自分はまだ生きている、まだやり直しができる。


ここで働いた人たちがこのことをきっかけにして進んでいってくれることを願ってやみません。

戦場だった沖縄。1945年4月1日米軍が沖縄本島に上陸してから沖縄はずっと基地の島のままです。普天間・嘉手納から朝鮮戦争にベトナム戦争に戦略爆撃機が飛び立っていきました。とうぜん弾薬庫もあります。いままた1500mの滑走路の新しい基地を緑豊かな沖縄北部・ヤンバルの地に作ろうとしています(沖縄中部東海岸勝連半島のホワイトビーチ案も出てきました)。作ってしまえば既成事実としてまたまた50年以上はそのままでしょう。100年以上も祖国でない祖国。数100年前までは沖縄は武具もないような平和な国だったのです。
沖縄の土の中で眠っているこの大戦の犠牲者のためにも沖縄から戦争のための基地をなくすことを切に願っています。
(写真はベトナム戦争時に嘉手納基地で不気味な姿を見せていたB52戦略爆撃機)

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あの戦争の沖縄で・・・白旗の少女・・・命(ぬち)

2009-10-03 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
9月30日某テレビ局開局45周年記念ドラマスペシャルを見ました。
このお話しは今から64年前にあった真実です。
物語ではありません。


今から64年前の1945年の4月から6月、太平洋戦争の末期、日本本土で一般住民を交えた唯一の地上戦のあった沖縄で戦火の中を逃げまどった7歳の少女のお話しです。父の安否を尋ねて首里から南部の真壁に姉、兄と逃避行、9歳の兄は流れ弾に当たり即死、米須海岸の砂に兄を埋め、姉とはぐれ、1人さまよい歩きます。もちろん食べるものもありません。
ふと入った珊瑚礁のガマ(自然洞窟)の中で両手両足を失ったおじいさんと盲目のおばあさんに会い数日を過ごします。6月23日、日本軍牛島総司令官の自決、沖縄戦は終決を迎え、投降を呼びかける米軍のビラ、スピーカーの声。
おじいさんは少女に一人で投降するように語りかけます。

「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命(ぬち)なんだよ」・・・・・・



ガマの中のオジイとオバアに作ってもらった白旗をしっかり持って歩いています。
「それをもっていけば、ぜったいに安全なのだ。それが世界中の約束だから」・・・

カメラのレンズが銃口に見えました。レンズを向かって笑って手を振りました。
「泣きっ面を見せるな。最後は笑って死ね」・・・という父の言葉を思い出したのです。



この日は1945年6月25日、沖縄守備軍司令官牛島中将が自決した二日後です。

少女がさまよったのは摩文仁村米須(まぶに村こめす・現糸満市)・・・ひめゆりの塔のある集落、喜屋武岬(きゃん岬)から摩文仁の丘の間のあたりと思われます。この海岸には沖縄最初の慰霊塔といわれる二万体余の遺骨を集めた魂魄の塔があります。

白旗を持った少女の比嘉富子さんが体験を記録として本にしたのは1989年51歳のときです。作リ話ではなく証言ですから原作といってはいけないでしょう。脚本は比嘉富子さんの本をほとんど脚色せずに書いています。演出も、ありのまま・・・のようにです。6歳の子どもの視点に立って映像作りをしています。
6歳の子どもの目線ですからイデオロギーも論理も、プロパガンダもありません。
国と国が戦いあう、人と人が殺しあう・・・このことについても語っていません。

このことについては人それぞれが考える問題です。

比嘉富子さんがこのことを世間に公にしたのは42年後の1987年49歳のときです。
経緯について→9月20日のブログ「命どぅ宝・・・白旗の少女」
児童書です。一読してもらいたい本です。

このお話しは今から64年前にあった真実です。物語ではありません。
そして沖縄は日本の本土です。よその国の話しではありません。


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