比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

霊峰・富士の・・・伏流水の湧く・・・忍野八海

2012-08-24 | 道をゆく 関東
8月21日m霊峰富士のスバルラインを尋ね岐路、忍野八海に寄りました。

富士の高嶺に降る雪は・・・やがて土中に滲みこみ80年の歳月をかけて濾過され伏流水は泉となって湧き出るという。

富士山の延暦大噴火(800~802年)で山中湖と忍野湖ができ、忍野湖が乾き盆地となり、8箇所の泉が噴き出ていることから忍野八海

池の周りは中国語の海。

泉水池のそこ深く泳ぐお魚。鯉かと思ったら虹鱒のようです。50cm以上ありそうです。

ここは通り過ぎただけ。池めぐりの道路際はお土産屋さんの列。山梨はフルーツ王国、桃、玉蜀黍、太陽、ブドウ・・・みんな買いたい。
100円の割れ桃、100円の玉蜀黍、100円のナス、400円の太陽・・・廉いものばかり買った。
100円の割れ桃の写真です。味はむしろいいのですよ。でも商品にならないのだからもっと廉くしてほしいな。

谷川岳の麓道・・・国道291号線新道を散歩する

2011-12-06 | 道をゆく 関東
11月23日、SLを追いかけて水上まで、さらに谷川岳の麓まで散歩に来ました。
ここはJR上越線土合駅の前から国道291号線を少し上って湯檜曽川を渡ると湯檜曽川の右岸に新道という道が(未舗装ですが)川沿いにあります。駐車スペースが300mくらい入ったところに。

未舗装の道を散歩のつもりで歩き出しました。駐車場に3台の車がありましたから散歩の人がいるはずです。

川沿いの道から湯檜曽川を見ています。清流そのものです。

雪道です。堅炭尾根の岩峰とピラミッド状に見える武能岳。

湯檜曽川の対岸に人が2人。あんなところに道があるのだろうか。

20分くらい歩くとマチガ沢出合いあたり、車道の終点。広い駐車スペースと東屋。
ここからは人道。散歩を終えた2人連れが帰っていきます。

人道に入るとマチガ沢出合いからの川があって木橋があったはずですがない。
迂回路は上のほうらしい。雪の踏み跡もあやふや。帰ることにした。

雪の谷川岳トマノ耳が近くに見える。


なさけない話だがこの散歩はここで終了、Uターン。道がこの秋の12号台風の影響で荒れている。ほんとうは30分くらい歩くとJR巡視小屋があり、国道291号線旧道(といっても未舗装道だが)にでて山の中腹部のほぼ水平の道を天神平ロープウエイ麓駅に行けるはずですがやめにしました。

むかし歩いたときのスケッチです→クリック

3時20分水上発のSLを諏訪峡で撮って帰ります。

榛名・伊香保の紅葉狩り

2011-11-11 | 道をゆく 関東
11月5日、紅葉狩り・・・妙義神社、松井田で黒煙をあげて疾走するSLを見て、坂本宿、旧信越本線アプト式跡の煉瓦橋・・・それから山の中を車を走らせ榛名湖畔へ。

榛名湖(カルデラ湖)と榛名富士(1390m)・・・紅葉がキレイです。

    山の淋しい湖に
     ひとり来たのも悲しい心
・・・・・(1940年 佐藤惣之助作詞・服部良一作曲)
この湖をイメージして太平洋戦争最中に作られた名曲です。あまりにも哀調をおびていて戦意を喪失すると発売禁止になったといいますから戦争というものはおかしなものです。この歌のメロディーでパロディーが作られひそかに子どもたちのあいだで歌われました。
    昨日生まれた豚の子が
     蜂に刺されて名誉の戦死

歌っているとき先生に見つかると往復ピンタが数往復したそうです。

榛名湖から伊香保に向かって坂を降りる途中に伊香保森林公園があります。
シダ池の周りを少し散歩しました。紅葉が見事です。

妙義神社の紅葉は少し早かった

2011-11-08 | 道をゆく 関東
11月5日、紅葉狩り・・・上州・・・妙義神社総門の前です。

神社なのに高題院という扁額を掲げた総門、風神、雷神が両側で睨みをきかしています。

本殿(左上)は2007年の台風であたりが土砂崩れ、崩壊・・・修復中で階段下でクローズ、随神門、唐門などすべて国指定文化財。
現在は中段の波己曾社殿を仮殿として神事を行っています。


537年波己曾神社として創建。波己曾とは山の名前・・・現在の妙義の山でしょうか。万葉集には歌われていませんが平安時代に歌集に波己曽の山を歌った歌があります。

   草枕夜やふけぬらん玉くしげ波己曽の山は明けてこそ見め(能因集)

現在の社殿は江戸中期1750年ころの建築だそうです。
山岳信仰の修験場であったことは間違いないでしょうが宿坊みたいなものは見られません。

道の駅があり農産物直売場が、ここは下仁田葱(右下)の産地、鍋物にすると絶品です。
道の駅の駐車場から大の字(中央)が見えます。神社から1時間~1時間半で行けるようです。この鉄材で出来た大の字・・・いつごろで出来たのか、何の意味かわかりません。

これから松井田駅のあたりに行ってSLの撮り鉄します。

浅間山天明の大噴火・・・鎌原(かんばら)観音堂

2011-10-23 | 道をゆく 関東
9月19日、もう一ヶ月前の見聞録、今回で終わりにします。
信州塩田平から長野・群馬境の地蔵峠を越えて上州嬬恋村(つまこいむら)に。湯の丸高原、鹿沢高原から県道94号線を下りていくと田代という集落で国道144号線(大笹街道)に。JR吾妻線「万座鹿沢口駅」から鬼押し出しハイウエイを少し軽井沢方面に、道路際に嬬恋郷土資料館、鎌原観音堂が。

鎌原観音堂・・・天明三年(1783年8月5日)浅間山大噴火(浅間焼け)。鎌原村(現嬬恋村)を襲った火砕流、土石流に襲われた村人は少し高台にあった観音堂の石段を駆け上りました。当時の村人570人、石段を上ってかろうじて助かった人と他村にいて助かった人、あわせて93人。477人が土石流に飲み込まれたといわれます。

観音堂の下から50段あったという石段、今は15段が見えます。
35段と15段の境目が生死の境目といわれます。

観音堂の横に鎌原観音堂奉仕会の人たちが接待する湯茶が。
なにやら書き物をしているオジサンが・・・写経かな?

観音堂奉仕会は1979年鎌原観音堂あたりの発掘が始まった時に発足したといいます。何班かに分かれて当番制で観音堂の清掃、訪れる人のために湯茶の接待をする鎌原地区の自主的なクループ。

観音堂下にある延命寺の石標
浅間焼けの120年後、20km下の吾妻川で見つかったといいます。

9月18日19日、2日間にわたった旅はこれでお終い。軽井沢に抜けて埼玉県に帰りました。

《余録》天明の大噴火といわれる浅間焼け、噴火活動にともなう地震が山肌を揺り動かし岩山を崩壊させ、溶岩、火砕流がそれを呑み込んで土石流となって裾野の村を襲い、野や谷を埋め天然のダムを形成、それが決壊して吾妻川から利根川に(浅間焼け泥押し)、遠く江戸川の河口まで死体が流れ着いたといいます。死者約1500人。流域の農業用水網もズタズタにされ空前の不作に。天明の大噴火と天明の大飢饉(死者10万人)と因果関係は?、天明の大飢饉は同年のアイスランドのラキ火山の大噴火の影響といわれています。この火山の噴煙は北半球をほぼ覆い世界的な凶作に。

災害救助法、激甚災害財政援助法など無い時代です。そのとき歴史がどう動いたか・・・???

上州嬬恋村・・・高原野菜のパッチワーク

2011-10-23 | 道をゆく 関東
9月19日、もう一ヶ月前の見聞録です。信州塩田平から長野・群馬境の地蔵峠を越えて上州嬬恋村(つまこいむら)に。鹿沢高原から県道94号線を下りていくと田代という集落で国道144号線(大笹街道)に。

高原野菜のパッチワークの村です。
田代の三叉路には高原野菜の発送基地があり大型トラックが全国に向けて発車していきます。

背景の山は菅平高原・・・四阿山(あずまやま2354m)です。

嬬恋村・・・いい名前です。大和王朝の英雄ヤマトタケルノミコトが東征を終わり鳥居峠(当時の碓日峠)を越えるとき、海の神の怒りを鎮めるため海に身を投じた愛妻オトタチバナヒメを恋しがりああわが妻よと嘆き悲しんだという伝説から明治の大合併のとき村名にしたといいます。もちろん作りばなしでしょうが・・・ロマンだなあ
《蛇足》大笹街道・・・この近くに大笹という関所がありました。それで信州のからは大笹街道、上州からは信州須坂の仁礼に至る道なので仁礼街道といったようです。北信濃から江戸に向かう道は北国街道から中山道への道です。大笹街道のような道は脇街道(バイパス)といいました。江戸時代、北信濃は菜種油(照明用)の大産地。この物流メイン道路としてたいへん賑わったといいます。当時の物流の輸送方法は馬か牛の背ですから馬方や牛方にとって煩わしい関所や宿問屋の少ない道のほうが効率的だったわけです。

群馬県上野村・・・日航墜落の御巣鷹・・・慰霊の園を訪ねて

2011-09-24 | 道をゆく 関東
西上州上野村・・・県庁のある前橋より長野県のほうが近い村。人口1300人、人口密度が県でいちばん小さい村。可住面積7.0%。日本航空墜落事故のあった村で全国的に知られた村です。

国道299号線楢原トンネルの手前で中越という集落に入ります。神流川を渡って上野中学校の脇から山のほうに少し上がると日航墜落事故「慰霊の園」があります。

慰霊の園の前の広場です。向かいは山と川と段畑です。

日航123便墜落事故・・・1985年8月12日、群馬県と長野県の境の山岳地帯で起こりました。墜落現場は三国峠付近、ぶどう峠付近ともいわれましたが当初は地点が特定されなかったようです。そのご御巣鷹山(1639m)と報道されて、次第にそれが定着しましたがじっさいには高天原山(1978m)の群馬側の尾根であることがわかりました。いずれにしても御巣鷹山も高天原山も三角点はありますが国土地理院の地図には山名が記載されていません。のちに上野村村長により「御巣鷹の尾根」と名づけられます。

さて「慰霊の園」です。
1986年、遺族、日本航空、上野村からなる財団法人慰霊の園が建立しました。

520名のかた(胎児を含めると521名)の慰霊塔です。ピラミッド状の先8kmが墜落現場。
その奥に身元確認不明者123名の納骨堂があります。

ご冥福をお祈りいたします。

この事故と関係ないことですが日本航空はそのご経営破綻を起こします。
これもまたこの事故とは関係ないことでしょうが山崎豊子著「沈まぬ太陽」が週刊新潮に1995年から10999年まで掲載されてたいへん評判になりました。
この2つのことについては省略します。

さて「慰霊の園」をあとにして信州方面に向かいます。堂所というところで国道299号線と県道124号線に別れます。124号線をぶどう峠方面に行ってみたいと思います。
このあたり江戸時代白井関があったそうですが、いまは小さな石碑があるだけだそうです。124号線を少し進むと3つの川の合流点で三岐という地籍があります。
「御巣鷹の尾根」への標識があります。車道終点から1.3km、20分くらいだそうです。
今回は「御巣鷹の尾根・昇魂の碑」はパスして真っすぐ信州方面に進みます。

気づいたことがあります。「慰霊の園」のアタマにに・・・〇〇の・・・という語句がないことです。何のことかわかりません。日本航空という会社の航空機が起こした事故ということがぬけています。日本最大の交通機関の事故ともいうべき歴史から日本航空という語句を消したかったのでしょうか。

慰霊の園の近くに国指定重要文化財「黒澤家住宅」があります。建坪80坪、総2階建。御巣鷹山の名前からわかるようにここは天領、十石峠の名前は1日10石の米が信州から流通したことから呼ばれました。豪農の屋敷から江戸時代の山村経済が見えてくるはずです。今回はパスしました。


野反湖2010・・・ノゾリキスゲを見た

2011-07-11 | 道をゆく 関東
昨年・・・2010年7月5日・・・上信国境に近い野反湖に行ったときの紀行アルバムです。



群馬県渋川市から吾妻川に沿って、中之条町から国指定名勝吾妻峡。長野原町、六合村(クニムラ・現中之条町)を経由、野反峠(1561m)を越えると野反湖(野尻湖ではありません)。
車道は通じていませんが長野県の秘境秋山郷(栄村)に人道が通じています。

キスゲの花の盛りは過ぎていましたがウラジロヨウラクがキレイでした。レンゲツツジはこれからです。ここでは7種類の山草を載せました。
もっと歩き回ればウスユキソウ、ノリウツギ、コマクサなどが見られたのですが。
海抜1500m・・・涼しいです。

詳しくは野反湖に関するブログを→クリック


※gooブログのフォトアルバム・・・練習のつもりで8回を数えました。
 気づいたことを記します。
  ①紀行とか花物語とかペットとの交流日記なんかにはいいようです。
  ②人に見せるものですから延々と自分の趣味を伸ばし伸ばし見せても・・・
   枚数には限度がないようですが30枚ぐらいが限度でしょうね。
   30枚・・・一枚10秒で300秒(5分)かかります。自戒します。
  ③動きが連続するもの、これはYouTubeのほうがいいですね。
  ④関連する人のフォトアルバムを見ると参考になります。
   多くのアルバムはコメント欄が入っていません。コメントがないと何がなんだか?
   コメントが長いのも困りますが。
  ⑤はじめの写真にはオープンタイトルを画像に入れたほうがイイと思います。
  ⑥終わりの写真にも「終わり」「THE END」・・・なんていう文字を画像に入れたいですね。
   ●ところがこの(フォトアルバム)システムはエンドレスで「終わり」のとき止ってくれません。
   ●できればBGMが入れられるようにしてほしい
   ●タイム調整・・・文字で示してほしい(砂時計のマークではわかりにくい)。
   ●拡大のマークも同様に文字で示してほしい。

陶芸の街・・・益子を行く

2011-05-08 | 道をゆく 関東
5月3日、焼物の里「益子」の陶器市に行ってきました。
駅のそばの駐車場に車を停めてブラブラと・・・藍染め屋さんを覗いて、街の中心部の城内坂に。

古い街ですがここだけは道が拡張されて、歩道、さらにお店までのあいだにアプローチがありそこにいろんな陶器が陳列されています。小さな小路の奥の空き地にも陳列場があり、共販センターの大陳列ブースまで楽しく歩けます。


《益子の陶器》瀬戸、有田と並んで益子は焼物のふるさとですが、その歴史は浅く150年。幕末に近い江戸末期、大塚啓三郎なる人が茨城県笠間で笠間焼きを修業、領主(黒羽藩主)の後援でここに窯を築いたのが1852年。1855年御用窯に。日常雑器を量産、鬼怒川水運を利用し江戸で販売、明治期になってもおおいに栄えたといいます。
益子焼の名前が全国的に広まったのは民芸運動の陶芸家濱田庄司(のちに人間国宝)が1930年ここに定住するようになってから。陶祖は大塚なる人ですが濱田庄司は中興の祖といえます。
益子焼・・・あくまでも日常雑器です。ボッテリとした釉薬の重くて壊れやすい土物です。

登り窯・・・ここにも地震の影響が・・・焚き口が瓦礫の山になっていました。

〇〇はにわ店」です。茶碗や小鉢も並んでいましたからはにわだけではなさそうですが。

(益子焼と関係ありませんが)わたしのスーヴェニール。
「縄文のヴィーナス」ミニレプリカ。600円。

モデルは縄文時代(15000~3000年前)の土偶。1986年長野県茅野市米沢埴原田という地籍、棚畑遺跡、環状住居の中央でほとんど完全な形で発掘。27cm2.14kg。4500年前と推定。
何の目的で・・・その意味はわかりませんから省略。

ただ・・・そのおおらかなエロティックさに感動

このあと、笠間の陶器市も見ようと行ってみたが駐車場の大渋滞で断念、栃木県野木町の野木神社にお参り,ついでに御神木で営巣している猛禽(フクロウ)を見たかったがすでに夕闇迫り、目視できず。3時間かけて帰宅。オツカレサン。

過去ログ→2009.11.08・・・焼き物の里・・・秋の益子陶器市に行く

陶芸の街・・・益子で藍屋を訪ねた

2011-05-07 | 道をゆく 関東
5月3日、栃木県東部、茨城県と境を接する益子町の陶器市にやって来ました。駅の近くの駐車場から1kmばかり歩くと町の中心部、城内坂にかかります。

城内坂の入り口にある藍染め屋さん「日下田家」・・・江戸中期から明治時代にかけては全国どこにもあった紺屋(こうや)という商売です。今ではまれなものになりました。ちょっと寄ってみます。

茅葺き「鍵屋式」の建屋。寛政年間(1800年ごろ)の建物といわれ県指定有形文化財。伝統技能を継ぐこの家の当主は9代目・・・県指定無形文化財。

鍵屋式の建屋の中は藍釜が。210年間、発酵しながら生き物と同じく管理されているという。通し土間を抜けると作業場、工房、展示場。裏庭に草木染めの糸が乾燥されていました。
日下田家の中庭にあった双体道祖神・・・裏に文化2年(1805年)の刻みが見えた。道祖神であるから個人の家にあるものではない。この家の前は四つ辻になっているからおそらく道路改修の際に保全したものであろうか。ほかに二体の双体道祖神があったが年代が読めなかった。


陶器市に来て寄り道しちゃいました。
これから城内坂をぶらぶらと陶器の展示品を見ながら歩きます。高いものを買う予定はありません。ただ見て回るのが好きなのです。