比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

西上州・・・桜山公園で・・・冬桜を見た

2010-11-27 | 道をゆく 関東
11月19日、冬桜の物見遊山の終わりは上州の藤岡市鬼石町(おにしまち)の桜山公園の冬桜。

桜山・・・鬼石の市街地から約5kmの標高591mの山の中、旧三波川村。7000本の冬桜。

この山の向こうにも山の上の耕地がある。

いまから102年前、1908年ここが三波川村のころ、村長さんが埼玉県川口の安行の植木屋さんから1000本の桜を仕入れて村民の行楽地にしようと約5㌶の村有林に植樹したのが始まりという。この村長さんはたいへんに政治力のある人で1891年107㌶、1908年180㌶の国有林の払い下げを受け村有林に、杉・檜の植樹を行い村有財産とした。桜山公園はその一部らしい。1953年この一帯が山林火災で焼け、このときすでに苗木の育成研究をしていたため直ちに植樹ができて、現在7000本の冬桜が咲く山になったというわけ。

観光バスも駐車でき、乗用車も数100台駐車できる大公園です。
ライトアップしていますが今日はこれでオシマイ。帰ります。

西上州・・・城峯公園で・・・冬桜を見た

2010-11-26 | 道をゆく 関東
11月19日、寄り道しながらようやく目的の冬桜の物見遊山にやってきました。
城峯山の西麓、城峯公園・・・のある群馬県神川町矢納は・・・昔の埼玉県秩父郡矢納村、1948年群馬県に所属変更しました。神流川(かんながわ)の流域ですから生活圏は群馬県です。

矢納地区の標高450mの山の上の展望台、眼下に神流川を堰き止めた下久保ダムの神流湖、比高150m。この前に来たときはコバルトブルーのきれいな湖でしたが、今日は白獨して見えます。石灰質が多いのでしょうか。
湖面の向こう側に十石峠街道といわれた国道462号線・・・十石峠とは上州・信州の国境の峠、1日10石の米を信州から上州のこの地方に運んだそうです。何らかの理由で10石に規制したのですね。この道は信州では武州街道、この少し上流、神の原で秩父に行く道(国道299号線)の分岐があります。秩父も上州も米がとれなかったのですね。

さて冬桜です。ここに植えられたのはいまから60年位前、1973年、下久保ダムの建設により神流湖が出現したとき。山の上の7㌶の土地をとうじの神泉村が造園して300本の冬桜を植樹しました。
ピンクの冬桜、十月桜と黄葉と紅葉と緑の針葉樹のコラボレーションがイイですね。





フユザクラ・・・マメザクラとヤマザクラの自然交配と推定されてるようです。小葉桜、三波川桜ともいいます。三波川はこの地方の川の名前ですがこの桜が自生していたわけではないようです。うすいピンクで一重(八重は十月桜)、ソメイヨシノみたいに一度にパア~ッと満開にならず、晩秋から初冬にかけて長い間にチョロチョロ咲きます。3月に二度咲きします。春は寒緋桜、三椏、染井吉野も混じってこれまた素晴らしいです。なんといっても神流湖と西上州の山を眺めるロケーションがいいです。

山の上の茶屋でケンチンウドンを食べていたら太田部でであった熟年夫婦にまたお会いしました。
今日はこれから鬼石の桜山公園にも寄っていこうと思います。

紅葉の碓氷の道を行く・・・碓氷第三橋梁めがね橋

2010-11-16 | 道をゆく 関東
11月13日、私の行かないオバサンとお友だちとの妙義、碓氷の紅葉狩りです。写真のことがまったくわからないオバサンが撮ったものです。

妙義山の麓、妙義神社から碓氷峠の東麓、国道18号線(旧道)の下、中山道坂本宿に近い碓氷湖です。
全山紅葉です・・・素晴らしい・・・この日は空気中の水蒸気が多いのか靄ったように見えます。赤レンガ風の橋と船着場がありましたが景色にアンマッチなのでカット。

碓氷湖・・・人口湖。1957年碓氷川の砂防ダムとして完成、そのごかさ上げ、補強を繰り返して1994年現在の形に。

信越本線の碓氷峠の東側の麓に横川という駅があります。信越本線は群馬県高崎駅から新潟県直江津駅経由新潟駅まででしたが、1997年新幹線の通じたことにより横川と篠ノ井駅間が中抜けになり(横川駅と軽井沢駅の間は在来線利用の第3セクター鉄道もありません)、とうぜん横川駅は峠下の重要駅としての役割を終えて静かな駅に戻りました。
いま、この広い操車場は碓氷峠鉄道文化村(博物館、テーマパークみたいの)に、ここから一つ上の旧坂本駅・・・峠の森公園交流館まで在来線の線路を1本残してトロッコ電車が走っています(2.6km)。ここから線路を潰した道を2,2km、碓氷第三橋梁までハイキング・ロードが続きます。碓氷湖からは約1km。むかしの鉄道線路跡ですからトンネルが多いです。

通称めがね橋・・・碓氷第三橋梁・・・1893年竣工、レンガ積み4連アーチ、高さ31m、長さ91m。国指定重要有形文化財。
碓氷峠を登る鉄道はアプト式という軌道上のラックと車両のギアとを組み合わせて急勾配を登るシステムでした。この橋梁はアプト式の時代の設備で1963年勾配を緩くした新線ができるとその役目を終えます。

廃線利用のハイキング・ロードはここで終点です。人道を少し歩いて稜線上に登ると中山道古道に合流。この橋のすぐ下は国道18号線(旧道)。写真合成(コラージュ)はPICASAの無料ソフトで作成。

建築学上、鉄道史上、貴重な資料でありユネスコ世界遺産に登録を目指しているが、落書きが多すぎて・・・

横川駅で「峠の釜飯」を買って、トロッコに乗って、それから歩いて「めがね橋」まで往復ハイキング。やってみたい。元気があったら旧中仙道から碓氷峠・軽井沢へ。

紅葉の妙義神社・・・妙義山

2010-11-15 | 道をゆく 関東
11月13日オバサンがお友だちと妙義山方面に物見遊山に行ってきました。

妙義神社の総門です。「高縣院」と読むのでしょうか。神社のなのにお寺みたいですね・明治の神仏分離令の前までは神仏集合の白雲山石塔寺というお寺だったらしいです。総門はむかしの仁王門・・・しかも仁王様もいらっしゃるようです。お寺さまが神社になったのですが扁額や」仁王様まで毀釈しなかったのですね。1773年建立、八脚門、国指定有形文化財。

お寺の山号の「白雲山」は妙義山のうちの相馬岳(1104m)、天狗岳(1084m)をあわせて呼ぶようです。妙義山とはこのあたりの山塊全体をいいます。

妙義神社は創建537年、そうとうむかしです。大和王朝、それも飛鳥時代と呼ばれる前ですから確かなことはわかりません。旧本殿は波己曾(ハコソ)社、波己曾は地主神・・・帰化人という説もあります。本社殿は日本武尊を筆頭に神話の神様。そして神仏集合、明治の夜明けに廃仏毀釈で妙義神社に。こういう経過は日本全国に多いですね。神仏分離はわかりますが廃仏はわかりません。神道を前面に出す必要が明治政府にあったのでしょうか。宗教を政治に利用しちゃいけません。

このあたりから見た白雲山です。大の字が見えます。あそこから手を振っている人が見えたそうです。神社の標高500m、大の字の標高750m、白雲山(相馬岳)の頂上1103.8mです。

とりあえず、オバサンにコンパクト・デジカメを持たせてオートモードで撮ってきてもらいました。妙義山の写真は誰が撮ってもこのように暗く撮れます。山が北東を向いていてすぐ日陰になるからのようです。今日は少し曇り。紅葉も光り輝いていません。

上州吾妻郡川原湯温泉・・・国道145号線・・・車窓から・・・八ツ場を見た

2010-07-10 | 道をゆく 関東
7月5日、群馬県の山の奥の「野反湖」に行く途中、吾妻川、JR吾妻線に沿った八つ場を通りました。
群馬県吾妻郡長野原町川原湯温泉字八つ場・・・やんばと読みます。方言らしいチョッと無理がある読み方ですが古い伝統の地名ですから大事にしたいです・・・地名というものは読めなくても国語力には関係ありません。地名の由来は①狩をする矢場②八つの落とし穴③谷(や)場・・・など、いずれも定かではないようです。

利根川水系吾妻川、上信国境鳥居峠あたりが源流、渋川市で利根川に合流、76km。JR吾妻線・・・渋川駅から嬬恋村大前駅まで55km。途中の長野原草津口駅は上野駅から特急が通じている。

JR(東日本)吾妻線・・・川原湯温泉駅・・・八つ場ダムの中心。いずれ湖底に・・・という計画。
川原湯温泉は1193年、源頼朝が狩に来たおり発見したという?数軒の宿からなる古い温泉場です。むかしむかしむかし泊ったことがあります。静かないい温泉宿でした。そのころすでにダム計画は進行していました。

吾妻川に沿って国道145号線。川原湯温泉より少し下。中之条町松谷のあたり。ダム堰堤より下流側ですから国道を堰堤の高さまで次第に上げていかなければなりません。

吾妻川がV字谷になるあたり、ムササビも飛ぶという国指定名勝「吾妻峡」はここから3.5km、川原湯温泉あたりまで。このへんが八つ場という地籍になります。
ダム堰堤は吾妻峡の1/3を水の底にするあたりに築かれるようです。
吾妻川に架けられた橋です。このへんは吾妻峡の終端あたり。堰堤の下流側。向うの谷の法面の土留工事。

川原湯温泉より上に橋が数本。ダムサイトの両岸を繋ぐ橋。ダムサイトに新しい移住の場所を作るためでしょうか。
こちらは斜張橋、向うは桁橋のようです。

国道145号線、日本ロマンティック街道と地図に書いてあります。ダンプカーが間断なく行き交います。

この谷の終点は浅間山、四阿山、草津白根山など・・・那須火山帯の終端です。活火山もあり強酸性の土壌が水に溶けて流れ魚も棲めないといわれます。白砂川上流の草津品木ダムに中和処理場を作ったようです。これは化学的な処理ですから恒久的に続けなくてはなりません。自然と争うわけです。

「ダムはムダ」だとか「脱ダム宣言」とか「コンクリートより人」とか・・・理想的な言葉ですが・・・わたしは何もいえません。
「八つ場ダム問題」・・・1949年(昭和24年)利根川水系に10箇所のダム計画がされました。八つ場ダムは9番目のダム(沼田ダムは中止)。以来50年間、40年間反対に明け暮れ、1994年協定、2001年保障基準ができて妥結します。そしていま計画の中止問題です。
人生のほとんどをこの問題に振り回された人もいます。お先祖様の眠る墳墓の地を離れるというのはどんな心情か、他人には何もいえません。

重機がうなり、ダンプが行き交います。日本中どこでも土木建設業が基幹産業になりました。「脱ダム宣言」では土木建設業を中心とする地方経済は壊滅してしまうのです。橋脚屋さんは橋を造船屋さんは船をずっと造り続けなければ企業が存続しません。このダムで7つの公益法人に25人、随意契約の57社に99人の公務員が転職したといわれたのは最近のことです。

「八つ場ダム」がどういうようになったらいいか、大都市の水事情はどうなのか、わたしにはわかりません。
ちなみに世界の三大ムダ事業とは・・・ピラミッド、万里の長城、戦艦大和といわれています。ピラミッドはいまだに何のために作ったのかわかりません。万里の長城は夷敵の侵入を防ぐために作ったのでが、元王朝、清王朝は外夷の王朝です。戦艦大和は当時の金で1億4千万円をかけ4年の歳月をかけて建造し、さしたる戦果を挙げることなく3年半後の1945年4月に海の底に消えました。

野尻湖ではなく・・・野反湖で・・・キスゲに逢った

2010-07-07 | 道をゆく 関東
7月5日群馬県の野反湖(ノゾリコ)に行きました。信州の野尻湖と間違えられる、群馬県の人もあまり知らないマイナーなところですが、環境、景観はメジャーな桃源郷のようなところです。長野原草津口から白砂川に沿って遡り分水嶺の野反峠を越えればそこは海抜1561m。ここからは信濃川水系に。北の方向、正面の湖尻の堰堤の先は長野県秋山郷栄村。峠の茶屋と湖尻の茶屋、キャンプ場のロッジ以外に土産物屋さん、ホテル、ペンション、民宿、別荘などの建造物がありません。
周囲12km、広い。1956年東京電力が開発したロックヒル式ダム湖。元は野反池と呼ばれる池が点在する高層湿原。

ノゾリキスゲ(ゼンティカの地域名)。ユリ科ワスレグサ属ゼンティカ種・・・ニッコウキスゲのこと、エゾカンゾウも同じ。キスゲは黄萱と書くが菅笠の材料のスゲ(カヤツリグサ科)とはぜんぜん関係ないユリ科の植物。ノカンゾウ、ヤブカンゾウ、へメロカリスは同属、異種。

キスゲをアップに。

群馬県吾妻郡中之条町入山・・・2010年3月28日までは六合村入山。
六合村と書いてクニムラ。1902年明治の大合併のあと草津村から分村した六つの村が再合併した。天地、東西南北の六方体。すなわち国(クニ)である・・・ということが古事記や日本書紀に書いてあるそうだ???。1956年冬季オリンピック銀メダリスト猪谷千春さんの父の六合男(クニオ・・・群馬県富士見村出身)は六合村とはどういう関係だろう。
長野原から国道292号線、途中で405号線になり、国道は湖尻で途切れる。不思議なことに国道は栄村切明(信州秋山郷)で再び405号線となり上越方面に向かう。中抜き国道?・・・間は峠を越え山の中腹や尾根道をゆく人道です。ナントカ街道とかいう名前はありませんが車も鉄道もない時代には越後十日町地方の人にとっては江戸に抜ける最短の道であったでしょう。むかしの人は足が強かったのです。江戸時代末期に日本で一番有能な指導者といわれた幕閣の小栗上野介は隠遁していた上州倉渕村で官軍に捕らえられ隊長の薩摩の若物に取り調べも受けず死刑執行命令書もなく高崎郊外烏川の川原で斬首されますがその夫人は身重の体で村人に守られながらこの道を越後から会津にに落ちのびていったと伝えられています。この無法極まりない斬首は若者が勝手にしたものか薩摩の西郷、大久保らの命令によるものかは謎です。
とにかく遠い。家から3時間余かかった。ついたときは強風・小雨。長袖を用意したが寒い。山道を散歩しようと思ったが峠の茶屋近辺を少し散歩、久しぶりに山の草花に逢ったあと帰ることにした。ここは山野草の宝庫です。花の写真は、次回以降に


織都・・・桐生の・・・ノコギリ屋根の館

2010-05-14 | 道をゆく 関東
いきなり・・・ベーグルとコーヒー・・・・アンパンに見えますがプレーンなベーグル。
桐生のノコギリ屋根の工場の「パン・カフェ・レンガ」・・・
ベーグルは粘りがあって噛み切れなくて・・・これ手でちぎってコーヒーに浸して食べるのが好き(邪道かな?)。

煉瓦造りのノコギリ屋根として唯一残る工場(金谷レース)をリニューアルしたパン工房。

1919年竣工、国登録有形文化財。レンガ積層、屋根部分木造、鉄板葺・・・鉄骨補強。採光窓は北向き(平均的な光量を考えて)。建築の専門家なら興味が尽きぬであろう。屋根の構造はトラス構造らしくも見えるが素人だからわからない。ノコギリ屋根は雨漏り対策が完全ではなかったのかとわたしは思う。
梁間3間、桁行10間、4連、合計120坪(396㎡)。以前は8連あったが半分は改築した。

何気なく飾ってある絵は東山魁夷の森の緑と白い馬をテーマにしたもの「緑の歌」・・・リトグラフではないかと・・・・・。リトグラフでもこの大きさだと数100万?額の前にグランドピアノ、その前にかなりのアイテム数のパン。
年に数回のライブ、コンサートを開くようです。

レンガは澁澤栄一が設立した埼玉県深谷市の日本煉瓦製造㈱(1886~2006年)製のもの。日本煉瓦のレンガは東京駅、日本銀行、赤坂離宮、東京大学、信越線碓氷峠鉄道橋など黎明期の近代日本建築のほとんどに使われた。

外にでると隣接して母屋との間に木造2階タイル張り・・・金谷レース事務所・・・21坪(71㎡)がありました。昭和初期の建物、ここもまた国登録有形文化財だそうです。写真は撮り忘れました。

金谷レースに関する記述は桐生市教育委員会管理部文化財保護課HPを参考にしました。このHPにノコギリ屋根概観、金谷レース事務所の写真があります。

通りの角にこんなおうちがありました。街の景観を彩る立派なおうちです。大正期の建築でしょうか。いまは古民家といわれるほどの建造物です。雨戸もしまっていましたので無住の家と判断して写真を撮らせていただきました。

130円のパンと250円のコーヒーですっかりいい気分になって、帰路につきました。
本日5月6日、12000歩。

織都・・・桐生の・・・街並みを見た

2010-05-12 | 道をゆく 関東
5月6日・・・GWも終わった・・・天気もいい・・・でもって赤城の山まで物見遊山に。
春まだ浅き赤城の山・・・芽吹き前で・・・大沼湖畔、覚満淵湿原はまだ冬が明けたばかり。
赤城の山は今宵かぎりでもないし、可愛い子分もいるわけではないので・・・山を下って桐生の街に。

突然の真夏日、暑さにヒイコラいいながら水道山公園に登り桐生市街地を眺めました。背中位置が渡良瀬川左岸の足尾山地(安蘇山地とも)、見下ろして街の真ん中に右から左へと渡良瀬川が、左背中側から桐生川が流れてきて渡良瀬川に。正面の山は八王子丘陵。この丘陵の先は関東平野。
桐生は渡良瀬川が足尾山地から関東平野に流れ出す地点の谷口集落です。

街並みを歩いています。桐生は近代遺産の多い街です。
有鄰館・・・古い古い商家です。3765㎡(1100坪強)、お店と11棟の倉庫群。本町通りに面して、むかしの酒屋さん(矢野本店)が・・・いまは喫茶「有鄰」。

喫茶「有鄰」、土蔵の横はむかしの工場の敷地、そしてレンガ倉庫、NPO法人「有鄰館友の会」の運営のでさまざまなイベントに使われている有鄰館。敷地の奥は駐車スペース、倉庫内の見学、貸し自転車など、今日は休館日。
1717年近江から来た矢野久左衛門がここに定住、商いを始め、以来300年、今日に至る。いちばん古い倉庫で1843年、新しいのでは大正期の1920年まで、深谷の日本煉瓦のレンガを使った倉庫もあります。休刊日のため見学できませんでした。

有鄰館の近くに無鄰館?・・・たしかにここは何にもないのかなあ? ノコギリ屋根のかつての工場・・・いまは芸術家集団のクリエイティブの工房として、また芸術活動の発表の場として使われているようです。ここもまた休館日。

有鄰」とは論語の「徳不孤 必有鄰」という言葉から。「有徳者には人が慕って寄ってくる」(大辞林)という意味だそうですが・・・権力者にすり寄る金権亡者みたいですね・・・わたしは「徳のあるといわれる人も、まわりの人が扶けなければ一人では何もできないよ」と解釈していました。

桐生・・・かつての織都・・・織物の街です。
奈良王朝時代・・・製糸技術集団が中央から移住したといいます。匠の集団は唐国人たちだったでしょうか。以来、西の西陣、東の桐生として、この国の製糸、撚糸、染織、縫製の中心になります。江戸時代徳川幕府は直轄領(天領)として管理、1800年前半には近代工業制手工業(マニュファクチャー)が兆します。明治期には早々と両毛線が開通、足利・桐生は東洋のマンチェスターなんて呼ばれました。大戦後、化学繊維の発達、衣の生活環境の変化により絹織物業は衰退したが、自動車部品工業などに変換して今日に至っている。

街には近代文化遺産がいっぱい。織都桐生を代表するのが無鄰館で見られるようにノコギリ屋根の工場群。1940年代の最盛期には500を超えたといわれ、いまも約220棟が現存するようです。産業革命が進む中で1900年代初頭にイギリス織物工場で建てられたという鋸屋根の工場、明治の初め1889年に大阪紡績で導入・竣工、桐生の鋸屋根工場は1900年前後に続々建てられたと思われます。手工業からある程度の面積を使う柱の少ない工場に、採光という利点が大きかったのでしょう。そのご建築方式も変わり照明技術も変わり、織物工場自体も衰退したため減少してきました。いまその再生化、活性化に取り組んでいるようです。 
コーヒーを飲みたくなりました。鋸屋根のパン工房に行きます。

上州赤城山を行く・・・赤城神社

2010-05-07 | 道をゆく 関東
5月6日・・・GWもようやく明けた。道路渋滞も今日からないぞ。
というわけで朝早く高速道路を群馬の方面に。朝早いと50%オフだからです。
駒寄PAのスマートICで一般道に(ここは練馬ICから98.5kmである)。何とか県道34号線に出て富士見から県道4号線で赤城山に。

赤城山大沼湖畔、赤い橋を渡ると小鳥ヶ島の赤城神社。正面は地蔵岳

赤い橋を渡ると白い石の大鳥居が。小鳥ヶ島というが右側で山側に繋がっている。

本殿前。午前10時30、GWが終わったあとか誰もいない。

大同元年(806年)神庫山(現地蔵岳)の中腹から大沼湖畔に遷宮。河畔の地籍を大洞とする。本来は山岳信仰(水源地信仰、雷神信仰)。そのご出雲の神様などや神仏混交、神庫岳が地蔵岳になります。1960年、現在の地に遷宮して新社殿建造。赤城の山は神の山です。地蔵岳(1674m)を中心とするコニーデ火山、黒檜山(1827m)、駒ヶ岳(1685m)、長七郎山(1574m)などの山、カルデラ湖(大沼、小沼)、高層湿原(覚満渕)などを総称して赤城山(あかぎやま)といいます。
赤城の山は今宵かぎり・・・」でおなじみの国定忠治(長岡忠治とも)は赤城山南麓の国定村(現伊勢崎市)の出身、長岡は苗字。1800年代前半の人。苗字のある百姓ですがグレたんでしょうね、人別帖から外されます。賭博、殺人、殺人教唆、恐喝、関所破り・・・やりたい放題、広域暴力団の組長みたい・逮捕、磔による死罪(1851年)。

下総国・・・醤油の里・・・野田の・・・清水公園の桜

2010-04-08 | 道をゆく 関東
4月3日土曜日、桜の巡礼の最後は千葉県野田の清水公園。もう4時近く。
はじめて来ました。関東では有名な桜の名所です。ここもまた日本さくら名所100選

明治の時代のはじめごろ下総国清水村に茂木柏衛という人が慈光山金乗寺とその周辺の地所を借りて聚楽園という庭園造りをしました。茂木といいいますからキッコーマン創業者に関わるかたでしょうね。この地域に醤油醸造家仲間が野田醤油組合を作ったのは1887年(1917年キッコーマンに)、その7年後の1894年に聚楽園は清水公園と改称、千秋会という会社が管理する民営公園になります。1929年本多静六の設計により西欧式市民公園に。

公園内の真言宗智山派慈光山金乗院の仁王門。300年前の建造といわれる。

仁王門の裏側から

仁王門の中、金乗院の境内はお花見の宴会場です。お釈迦様もお喜びでしょう。

最後にサクラのアップです。

入園が遅かったのでざっと通り過ぎただけです。旧花野井家住宅(国重要文化財)など見たいものがありましたが次にします(いつになるか)。
28㌶、広いです。サクラだけでなく四季の花がたくみに配置されています。市民はもちろん近郷近在、他県の人まで楽しめる素晴らしい公園であることには間違いないと思います。

民営公園、入園料は無料・・・バーベキュー、マス釣場、フィールドアスレチックなどは有料です。管理の千秋会(株)の株主はキッコーマン。キッコーマンの筆頭株主は千秋会。野田は醤油の町です。

サクラ巡礼はもう暗くなるころでようやく終わり。思えば遠くに来たもんだ・・・流山から常磐自動車道に、三郷JCTで東京外環道に、大泉JCTで関越自動車道に。17000歩・・・お疲れさん。