☆「語り継ぐ責任 東京大空襲」だけ見たいかたは・・・クリック
今日から・・・70年前・・1945年・3月10日未明・・・東京はあの大戦で敵国であるアメリカ軍によって大空襲されます。非戦闘員である一般市民の死者10万人、無差別爆撃です。
上野公園の中にある「時忘れじの塔」です・・・
(撮影日は2010年4月10日)
関東大震災・東京大空襲・・・東京にも、現在から想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代に時をつなげる心の目印として、この時計を寄贈しました。海老名香葉子、有志一同・・・と裏面に刻んであります。
※海老名香葉子・・・落語家の故先代林家三平夫人、1933年東京下町の本所堅川(現墨田区立川)の生まれ。12歳のときの1945年3月10日の東京大空襲で祖母、父、母、長兄。次兄、妹の6人を失う。本人は沼津に疎開中であった。孤児となって親戚の世話になり、奇跡的に生きのびた三兄に再会、やがて父の稼業「竿忠」のお客さんであった三遊亭金馬師匠の養女に、その縁で林家三平と結婚。林家一門の女将として現在に至る。
碑文の関東大震災(死者14万人)は天災です。東京大空襲(死者10万人)は人災です。人災は人々が努力すれば止めることができるかも知れません
今の平和な時代の時をつなげるためにどうしたらいいでしょうか。
※無差別爆撃(都市戦略爆撃)の歴史・・・1923年オランダのハーグで行われた米・英・仏・日・伊・蘭の委員会において「爆撃は軍事目的に限り適法とする」(空戦規約)と宣言されました。実際にはそんなことは守られません。1937年ドイツ・イタリア軍のスペインのゲルニカ爆撃から始まり日本軍が中国の南京、漢口、重慶に1938年から1941年まで4年間にわたって行い(死者11,800人とも)、1939年ドイツ軍とロシア軍がポーランドのワルシャワに無差別爆撃。連合国側はそれに対して強く非難しますが、やがて「目には目を」・・・「倍返し」・・・憎しみの連鎖です。連合軍側は1942年からドイツのベルリン、ハンブルグ、ドレスデンに報復爆撃(死者150,000人とも)。最大の無差別爆撃は広島、長崎の原爆投下です。
表向きは軍需基地、軍需設備、軍需工場を叩くということでしたが軍需工場の下請けの町工場も含まれるという解釈に変わりすべての一般住宅も爆撃対象になっていきます。そのうちに戦争を早く終わらせるためにという言葉になりました。
戦時、はじめて無差別爆撃を受けた当時の日本の国民はどう思ってたのか ・・・
大岡昇平の小説「ながい旅」(1981年発表)から・・・何となく、「戦争である以上、しょうがない」と心の底で感じていたのは、戦争で勝つためには、何をしてもかまわない、という通念があったらしい。
大半の日本人は無差別爆撃が国際協定違反なんて知らなかった。また爆撃機が撃墜されて落下傘で降下した敵兵は住民に虐殺されるか日本軍により処刑されました。これもまた国際協定違反です。東京やそのほかの市や町で爆撃を受けて悲惨な状況に陥っていたことなど、そのほかの地方の人は知っていたのか。漠然とした情報は入っていたのでしょうか。
ベトナムでは米軍によって北爆といわれるナパーム弾、枯葉剤の攻撃が行われました。
近代の戦いでは非戦闘員も攻撃の対象になります。火器に勝るほうが勝ち、勝つことが正義になり、不正義の敗者が大量の死者を出すことにより戦争が終結します。
戦争とは正義も不正義も・・・ただ殺し合いです。
先の大戦であった悲惨な出来事を考えること、これからの時代はその経験者はいません。歴史認識の鉄則「いつ、どこで、何が、どうして、どのようなことに」を正しく検証していくことが、これからの平和な時代を継続していくことになります。
無差別な殺し合い!どうして戦争がなくならないのか、不思議にさえ思います。今、どうしたらいいのでしょう。
このような日には、ブログに何か残したくて。
この日、閲覧者が500人弱。
このブログのほかに関連して過去のブログ「半分のさつま芋」とか、高木敏子さんの「ガラスの兎」に関するブログも見てもらいました。コメントはありませんが多くにヒトに見てもらったこと嬉しく思います。
ミュージカルの5月公演に合わせて応援ブログを書きたいと思っています。資料、材料が入りましたらブログ公開してください。
ミュージカルを見に行くということはともかくとして第5福竜丸を取りあげることは今の福島原発につながります。ドイツメルケル首相の原発廃止の意見に対して無言のままだった首相がいます。