比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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北信濃・・・飯山・・・菜の花の丘と千曲川

2009-05-12 | 信濃の国は 北信濃・善光寺平
飯山市瑞穂・・・菜の花の丘公園・・・
山があって野があって川があって畑があって・・・日本の原点のような風景です。

丘の上から千曲川の上流を見ています。コンモリとした山は飯縄山? 川の向こうは飯山市の市街地、その向こうの段丘のあたりが「朧月夜」の作詞者高野辰之の生家のある永田村(元豊田村、現中野市永江)です。


丘の上から正面、千曲川がユッタリと流れています。日本でいちばん長い大河です。
正面の市街地は信濃平駅あたり。むかしの常盤村地区(現飯山市)。


山なみの上にポッカリと妙高山(2454m)が。


千曲川下流方面を見る・・・常盤大橋、その向こうは柏尾橋。川の向こう正面は戸狩スキー場のあたり。
飯山まで続いた千曲川の沖積平野(善光寺平)はここで終わり、千曲川は狭隘な谷間を流れて森宮野原駅の近くで信濃川と名前を変えて新潟県中魚沼郡地区へと流れていきます。右岸はこの先で野沢温泉村になります。野沢温泉村には高野辰之の「おぼろ月夜の館」記念館(別宅「対雲山荘」跡)があります。


菜の花と鯉のぼり・・・

菜の花の向こうは神戸(ゴウド)集落の風景。川の標高は300mくらい、この丘は350m、ここから段々畑が山の中腹部まで続きます。


菜の花・・・江戸時代、千曲川の沖積平野で収穫された菜種油は灯火源(あんどん油など)、今で言う電力源のようなものでこの土地に富をもたらし、飯山から千曲川左岸を通って北国街道豊野神代宿までの飯山街道、右岸を通って北国街道稲荷山宿までの谷街道、須坂福島宿から菅平、鳥居峠を越えて上州大笹に出る大笹街道の諸道は菜種油を江戸に運ぶ流通の道として繁栄しました。

菜の花畠に 入日薄れ
   見わたす山の端 霞深し

朧月夜(おぼろづきよ)」(1914年初出)の一節です。明治・大正・昭和の時代に作られ今日に生きている数々の小学唱歌を作詞したこの地の出身の国文学者高野辰之が作詞した名曲です。

高野辰之(1876~1947年)・・・兔追いし彼の山・・(故郷)、春の小川はさらさら流る・・(春の小川)、秋の夕日は照る山もみじ・・(もみじ)などだれでも一度は口ずさんだことのある唱歌の作詞者。明治の文語体の時代に子どもが楽に歌える口語体の歌詞を造りだした人です。
兔追いし彼の山・・・の農村(下水内郡永江村・・・現中野市)に生まれ飯山の高等小学校(今の中学校)を卒業、小学校代用教員、長野師範学校、教員、国語学者・東京帝国大学教授上田萬年(作家円地文子の父)に見出されて上京、東京帝大の用務員になって秘かに聴講、やがて文部省吏員、東京音楽学校教授、東京帝国大学講師・・まで上り詰めていきます。
故郷」の「志を果たして いつの日にか帰らん」・・・という一節には、農家を継いでもらいたいという親の思いに背いて学の道をめざし、それを果たしたとき故郷に帰り農家を継ごうという思いが込められていたのだとか。

近くの野沢温泉には高野辰之が晩年を過ごした別荘を記念館にした「おぼろ月夜の館」が、「春の小川はさらさら流る」を彷彿させるふるさとの永江村(現中野市)には高野辰之記念館があります。

余談ですが高野辰之が高等小学校時代、教員時代に飯山で下宿したのが真宗寺、その寺の娘さんが辰之の奥さん。島崎藤村の小説「破戒」(1906年自費出版)の主人公飯山高等小学校教員の瀬川丑松の下宿先の蓮華寺は真宗寺がモデルといわれ、辰之は蓮華寺の住職の不品行を書いたあらすじ(もちろんフィクションですが)に憤慨していたそうです。当時の島崎藤村は小諸義塾の教師、たびたび飯山の地を取材に訪れていたようです。「若菜集」で脚光を浴びた詩人でしたが極貧のうちに三人の子どもと奥さんを次々に死なせています。
真宗寺は火災により消失しいまは六角形の経蔵、島崎藤村の文学碑が残るのみ。


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