比企の丘

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雪の福島・・・会津の旅・・・白虎隊の墓を尋ねる

2016-03-15 | 道を行く みちのく
彩風人・・・2016年1月、雪の福島・・・会津への旅。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です。)

1868年江戸時代の終末、明治維新の夜明け、戊申戦争。白河から勢至堂峠を越えて会津若松に攻め入った新政府軍を迎え戸の口原で戦った会津藩白虎隊は闘い破れて飯盛山に撤退。会津鶴ヶ城方面に上がる黒煙を見て、もはやこれまでと自刃したと伝えられています。

飯盛山です。標高372m、会津鶴ヶ城は南西に約5㎞。
白虎隊の墓は飯盛山の中腹に緩い石段を登った先に(標高310mふきん)。有料のエスカレーターもあります。石段の両脇にお土産店が。

白虎隊19士のお墓。20名が自刃して、ひとり、自刃から蘇生して生き残りました。その横に戦死した31士のお墓もあります。
遺体は朝廷に背いた賊軍として新政府軍から手をつけることを禁じられていたそうですが秘かに村人により仮葬され後にこの地に埋葬されました。

白虎隊士自刃の地。いつのころ建立された像か・・・鶴ヶ城の方向を見ています。
白虎隊士の年齢は数え年で16~18歳、いまの中学生の年齢です。年齢を偽って入隊した子どももいたそうです。

自刃した白虎隊の20名のうちの一人、飯沼貞吉の墓。自刃から蘇生して村人に匿われ、後に官軍の捕虜に。
長州藩士楢崎頼三に引き取られ、秘かに長州の百姓の高見家で育てられました。
飯沼貞吉(1854~1931年)は・・・学を修め逓信省の電信技士として国に勤め、電信・電話の普及に貢献したといいます。
※撮影日は1月31日。カメラはFUJIFIRM X-T10。
戊辰戦争・・・戊申とは旧暦に用いられる干支の組み合わせの一つ。1868年は戊申の年。戊辰戦争は1868年1月の鳥羽伏見の戦いから1969年5月の函館戦争まで。明治維新新政府軍と旧幕府軍の闘い。川15代将軍慶喜により大政奉還が行われたが、無血革命とはいかなかった。薩長軍と旧幕府守旧派との壮烈な流血戦。特に会津藩主松平容保は幕末の京都守護職、新撰組を配下に京都の治安維持で薩長と衝突したための確執もあり、新政府軍は執拗に会津藩を攻撃した。会津藩内でも恭順を表明して降伏を唱える派、あくまでも徹底抗戦の主戦派があり、他藩の赦免嘆願書も新政府に出されていたが、新政府軍もこれを認めることは無かったようだ。むしろ恭順を認める気は無かったかもしれない。事実、旧幕府の幕閣で上州権田村に引退していた小栗上野介を逮捕して尋問もなく斬首している。長岡戦争、会津戦争もまた問答無用の戦争に持ち込んだと思う。会津藩23万石はこの戦争のあと没収、藩主容保は禁固刑、容保の子息嫡男容大が南部三戸、下北地方に封ぜられ1669年に斗南藩立藩、表高3万石、実高は収納高7380石の不毛の地であった。京都守護職時代の会津藩への報復措置です。2年後の1871年廃藩置県で斗南藩は解体、藩主容代は華族、貴族院議員に。残された藩士たちはそれぞれの道を求めて散っていった。
ちなみに靖国神社の祭神はこの戦いの新政府軍の戦死者を祀ることから始まっている。
白虎隊・・・会津藩士の子息、16~17歳の少年からなる戦斗組織(総勢342名)の一隊。先の戦争の少年航空兵のようなものか。少年たちは純粋だ。春秋に富む少年たちを集団自決に追いこんだ戦争の罪は深い。


※コメント欄オープン。





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3 コメント

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Unknown (縄文人)
2016-03-16 19:48:34
雪でしたか!?
この階段をのぼりつめたことが有ります。
白虎隊19士のお墓を見つめ、改めて≪忠誠心≫
を我が身に重ね、今ここにと考えてみました。
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会津若松 (縄文人さんへ・・・ヒキノ)
2016-03-17 09:01:09
若いとき仕事で何度も訪れました。
不思議なことに城も白虎隊の墓も訪れていません。今回は舎弟の旅行の画像提供です。
生き残りの人が立派な仕事をしていると初めて知りました。
こうして見ると一度は訪れてみたい場所です。
あらためて歴史を勉強しました。
会津と長州の確執、いまも続いているそうです。

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追伸 (縄文人さんへ・・・ヒキノ)
2016-03-17 09:04:59
「ミゼット」の記事。
私の2014年6月6のブログにリンクさせてもらいました。
http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/cfd5fa3bad270cced1f6fd2bd9967bf6
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