今日は何の日。1945年3月26日、太平洋戦争で沖縄に米軍が攻撃を開始、慶良間諸島に上陸した日です。
慶良間諸島、本土の人はほとんど知りません。那覇空港の遥か西方40kmに浮かぶ島、そこが慶良間諸島です。船で1時間、大小20の島からなります。映画「マリリンに逢いたい」の舞台になった座間味島があるところだと言ったほうがわかりやすいかも知れません。
渡嘉敷島の記録では犠牲者は日本兵76人、軍属87人、防衛隊41人、島民368人(うち集団自決329人)とあります。この集団自決が後々問題になりました。慶良間諸島全体では集団自決は700人といわれます。
1950年沖縄タイムス社が「鉄の暴風」でこの事件に触れます。
1970年大江健三郎が「沖縄ノート」(岩波新書)でこの事件に触れます。
1973年曽野綾子が「ある神話の背景」(文藝春秋社)でこの事件に触れます。
前2者は集団自決が日本軍の指揮者の強制によるものであるとし、曽野綾子さんはそれを否定した意見を展開しました。1985年この論争が始まります。
恥ずかしながらわたしはこれらの本を読んでいません。この論争についても知りません。したがってこのことについて語ることはできません。
沖縄戦線の証言は生きていた方々が数々語っています。封印した人もいます。60数年たった今、語ることのできる方々は少なくなりました。
集団自決は手榴弾、銃、青酸カリ、クワ、鎌、縄などで行われたといいます。これは沖縄本島においても同じです。極限状態の中で何があったのか、わたしにはわかりません。
集団自決は日本軍の示唆によるものであったか否か。わたしには語る資格はありません。ただ集団自決があったことは事実です。そのことを歴史から消してはなりません。
※カテゴリー「沖縄のこと」…クリックして読んでいただけたら…。
慶良間諸島、本土の人はほとんど知りません。那覇空港の遥か西方40kmに浮かぶ島、そこが慶良間諸島です。船で1時間、大小20の島からなります。映画「マリリンに逢いたい」の舞台になった座間味島があるところだと言ったほうがわかりやすいかも知れません。
米軍はいとも簡単に上陸しました。
わずかな日本兵と防衛隊と称するものと島民です。
阿鼻叫喚です。パニック状態です。
わずかな日本兵と防衛隊と称するものと島民です。
阿鼻叫喚です。パニック状態です。
渡嘉敷島の記録では犠牲者は日本兵76人、軍属87人、防衛隊41人、島民368人(うち集団自決329人)とあります。この集団自決が後々問題になりました。慶良間諸島全体では集団自決は700人といわれます。
1950年沖縄タイムス社が「鉄の暴風」でこの事件に触れます。
1970年大江健三郎が「沖縄ノート」(岩波新書)でこの事件に触れます。
1973年曽野綾子が「ある神話の背景」(文藝春秋社)でこの事件に触れます。
前2者は集団自決が日本軍の指揮者の強制によるものであるとし、曽野綾子さんはそれを否定した意見を展開しました。1985年この論争が始まります。
恥ずかしながらわたしはこれらの本を読んでいません。この論争についても知りません。したがってこのことについて語ることはできません。
沖縄戦線の証言は生きていた方々が数々語っています。封印した人もいます。60数年たった今、語ることのできる方々は少なくなりました。
集団自決は手榴弾、銃、青酸カリ、クワ、鎌、縄などで行われたといいます。これは沖縄本島においても同じです。極限状態の中で何があったのか、わたしにはわかりません。
集団自決は日本軍の示唆によるものであったか否か。わたしには語る資格はありません。ただ集団自決があったことは事実です。そのことを歴史から消してはなりません。
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今話題になっている従軍慰安婦の問題にしても、真実は一つです。本人たちは恥ずべきことで口をつぐんでいる人もいるだろし、とにかく強制連行でないにしても従軍慰安婦は存在したのです。
いずれにしても早期解決せねばならぬことだと思います。当時の戦争責任者はもう誰もいないのです。本当のところは神のみぞ知るで、うやむやになるのでしょうかね。
本当に、集団自決があったという事実は事実ですね。
私もここに書かれてある記事や本を読んだ事はありません。
ただ、沖縄本島で、投降を呼びかける米軍が近づくあるガマの中で、家族全員で集団自決しようという時に、家族の中の一人の小学生の少年が「死んではいけない」と大人を説得し、投降して生き延びる事が出来たという話を聞いた事があります。
この時、どんな状況になっても自分で判断する事が大事だなあと思ったのを思い出しました。
二度とこんな状況になることが無い事を願います。
集団自決はいろいろな見方がありますが数百人の人がすべて自発的に自決したのでしょうか。手榴弾や青酸カリはどうしたのでしょうか。
生き残った人が何を言おうと事実です。
私はどうしても、戦時中の「生きて虜囚の辱めを受けず」と、時の主導者が国民にこの意識を浸透させた事と無関係ではないと思えてなりません。
地獄から生き延びた人の証言からの聞き書きにしても不完全です。100人が100人そのときの状況を正確に語れるでしょうか。それを埒外の人間が何かいえるでしょうか。事実を否定することは死者への冒涜です。