渡良瀬遊水地、ハート型の谷中湖の中心部。
なぜハート型になったか。ここはいまから100年前、豊かな農村だったのです。いまは旧谷中村の先祖代々の墳墓の丘に眠っている方々がいる遺構として残されています。
なぜそうなったか、1冊や2冊の本では書き表せないでしょうし、わたしなどではとても思いもよせることもできません。往時を思いながら静かに歩いてみることにしました。
「道しるべ」。
オオヨシキリのケタタマしい囀りが耳に響き道ばたにはハルジョオンがいまを盛りと咲いています。
画像クリック・・・谷中村についての説明板。
「鎮魂譜」です。
雷電橋を渡って雷電神社跡、延命院跡、共同墓地跡に行きます。
なぜハート型になったか。ここはいまから100年前、豊かな農村だったのです。いまは旧谷中村の先祖代々の墳墓の丘に眠っている方々がいる遺構として残されています。
なぜそうなったか、1冊や2冊の本では書き表せないでしょうし、わたしなどではとても思いもよせることもできません。往時を思いながら静かに歩いてみることにしました。
「道しるべ」。
オオヨシキリのケタタマしい囀りが耳に響き道ばたにはハルジョオンがいまを盛りと咲いています。
画像クリック・・・谷中村についての説明板。
「鎮魂譜」です。
旧谷中村役場跡・・・こんもりとした丘の上に柱が1本(ただそれだけです)。
オニグルミや桑の木に囲まれて。
オニグルミや桑の木に囲まれて。
旧谷中村民家跡。ここも丘の上に柱だけ。遊水地ですから冠水するのでしょうね。
桑の木の大木。桑の葉をお蚕さまが食べ、お蚕さまが繭を作る。
桑の木は「銭のなる木」だったのです。
豊かな米作と養蚕の村だったのでしょう。桑の木が見上げるような大木になってました。
桑の木は「銭のなる木」だったのです。
豊かな米作と養蚕の村だったのでしょう。桑の木が見上げるような大木になってました。
桑を摘む 乙女が瞼に やなかむら 比企の丘人
雷電橋を渡って雷電神社跡、延命院跡、共同墓地跡に行きます。
友人の奥さんが館林あたりの人で田中正造のことは小学校のころから教えられているようで聞かされていました。いざ目にすると歴史がよみがえりますね。
自然大好きさんのブログ上で自然の撮影のテクニックを目で教えられて、今年の冬はすっかり鳥にはまりました。失敗の連続でリベンジ、リベンジで面白くやってます。
いい写真を見せてください。
ヒキノさん 渡良瀬に行かれたんですね
かつて渡良瀬遊水地は私のバードウオッチングのフィルドでした
最近儀無沙汰気味になっております
私はこの地に越して来て遊水地が一番近い探鳥地であったのであの広い遊水地を隅から隅まで歩きました
葦原の中を歩いて迷子になったこともあります
今でも遊水地仲間と呼べる友がいます
それとあいまって 以前私は観光バスの運転手をしていました
そんな関係で足尾鉱山から渡良瀬遊水地の位置づけ また 職場には谷中村に住んでいて谷中湖が出来るので古河に越したと言う先輩までいました
私が遊水地に通い出した頃はまだ 鉱毒の残っている土が積んである一角が残っていました
私にも渡良瀬遊水地は感慨深い場所です
ヒキノさんの行動力にはかないませんがいくらかでも追いつきたい...常にそう思っています
これからもよろしくお願いします
ヨシキリの鳴き声が響いているだけ。
次の共同墓地がすごいです。
農家にとって蚕は一年に3~4回の現金収入の財源でした。
桑の木を見ると感慨がわきます。
アレは旨いものではなかった。
子供のころの懐かしい思い出です。
ほんらい桑の木は農業用ですから作業しやすいように低く、刈り取りを繰り返し、古い株は掘りかえし囲炉裏の燃料にしてました。ですから背の高さぐらいのものしか見たことがありません
「桑の木は見ていた」・・・・・
その時代の方の 悲しみ 寂しさ考えると・・
胸が痛みますね・・・
なのにー 生まれ育った故郷に もう
ず~~っと 行ってない いつまでもあると
思ってるからですね・・・反省!
桑の木の巨木にビックリです。
私の育った地域も昔は養蚕が盛んで、桑畑がいっぱいでした。
現在でも、荒れ地などで放置された桑の木を多く見掛けますが
こんなに大きな桑の木は、初めて見させてもらいました。
(へな爺)
私が子供の頃、桑の木を畑で見たことがあります。葉っぱを摘み取って、近所の蚕に食べさせたことも・・・。
懐かしい思い出です。
すべてこの桑の木が知っている。
おそらくや中村の誰かが、この桑を摘んで蚕を育てたのであろう。
そう言えば、あちこちにたくさんの桑の木を以前行った時見た。
鐘付きのところであろうか、『連絡ノート』なるものが箱の中に収まって、訪れた人々のメモが記載されていた。
谷中村の人々が、桑を摘み蚕を飼育し・・・・・・・・その人たちの一族がどんな気持ちで訪れて佇むのであろう・・・・か。