比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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信濃路・・・佐久・・・かつての城下町、宿場町、門前町「岩村田」で・・・鼻顏稲荷神社を尋ねる

2018-04-14 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月22日、旧中山道の望月宿、八幡宿、塩名田宿を尋ねながら・・・佐久市岩村田まで来ました。
岩村田・・・濁川、湯川に挟まれたシラス台地上に・・・岩の群れたところ・・・という意味からが地名由来のようです。
岩村田は江戸時代の岩村田藩15000石の城下町、小諸藩領の時代、天領の時代もあり内藤家岩村田藩として立藩したのは江戸時代中期のはじめの1703年です。中山道と甲州佐久往還、下仁田街道の交わる交通の要衝の宿場町。日本五大稲荷「鼻顏稲荷」の鳥居前町、物流の市場町。
岩村田藩は15000石の小藩であったため城郭はなく陣屋のみ、それも残っていません。江戸末期に城主格を与えられ築城をはじめたが明治維新になり中断、いまは「上ノ城」の地名のみ。中世の城郭大井城址もいまは王城公園に。中山道22番岩村田宿は家数350戸、旅籠数8軒、人口1637人、城下町であったため本陣、脇本陣、宿問屋を置かず、宿場としての遺構も見られません。鳥居前町としてのおもかげは残っていませんが岩村田市街地に稲荷町という町名で残っていて湯川の畔の段丘崖上に日本五大稲荷に数えられる「鼻顏稲荷神社」があります。

鼻顏(はなづら)稲荷神社の入口です。

湯川に架かる鼻顏橋を渡って対岸から見た神楽殿、遠く崖の上に社務所、拝殿、本殿・・・崖に朱塗りの柱を立てた懸崖造り。

拝殿に登って行く参道。
※撮影日は2月22日。
鼻顏(はなづら)‥・このあたりの地名らしいのですが今は地名として存在しないらしいです。
※創建は戦国時代の永禄年間(1558~1569年)、京都伏見稲荷から分靈して祀られたといいます。甲州武田の版図の時代ですが創建者が誰であったか不明?
日本五大稲荷・・・あまり有名ではないようですね・・・知りませんでした(あとの4つは京都伏見稲荷、愛知豊川稲荷、茨城笠間稲荷、佐賀祐徳稲荷)。
※信仰組織(稲荷講)は信州にとどまらず上州、武州にまで及び鳥居前町として大いに賑わったといいます


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