今日は何の日。1904年12月6日は日露戦争で旅順攻略のキーポイント[二百三高地の陥落の日]です(ほんとうは昨日ですが書き込みに失敗しました)。
二百三高地といえば乃木希典将軍です。聖将とも愚将とも無能の将軍とも言われます。神社(赤坂の乃木坂で知られる)に祀られている伝説の人です。
でも乃木将軍といってもほとんどの人が知らないでしょう。何しろ101年もむかしです。明治は遠くなったのです。私自身むかし文庫本で司馬遼太郎の「殉死」という小説を読んだ程度の知識です。つい最近「乃木希典」(福田和也著)を読みました。どちらも資料を丹念に調べて書いたものと思います。
わたし的に書いて見ました。
1849年長府藩江戸上屋敷に生まれる。
1877年西南戦争で軍旗を奪われる
1894年日清戦争に、1896年台湾総督に。
長州藩閥で山県有朋の下で順調に出世します。
1904年日露戦争に第3軍司令官として任につく。
これからが正念場です。
とにかく犠牲者の数が多いのです。室町時代からの戦国時代でもこんなに多くの戦死者は出ないでしょう。まるで兵士は消耗品です。
まず二百三高地(海抜203㍍の丘ですが旅順の後背地にあたります)をロシア側はコンクリートの分厚い要塞で固めています。機関銃がはじめて使われます。そこへ突っ込めー突っ込めーですからバタバタ倒されるわけです。武田の騎馬軍が織田信長の鉄砲隊にやっつけられたたときと同じです(長篠城の戦い)。
第1回総攻撃8月 15800名戦傷
第2回総攻撃10月 3830名戦傷
第3回総攻撃11月 16935名戦傷
二百三高地の攻撃では戦傷者総計 59000名
日露戦争全体で戦傷者200000名ですから30%です。
結局この戦いは第3回総攻撃において総参謀長児玉源太郎が直接指揮(乃木将軍の一時的棚上げです)を執ることになり作戦の変更、砲台の設置変えなどにより12月6日二百三高地の陥落となります。翌年1月2日旅順陥落、日本海海戦勝利があり10月14日終戦となりました。
乃木大将は1907年学習院院長となります。明治天皇(3歳年上)にたいへん信頼されます。謹厳実直だったからでしょうか。ただし若いときは放蕩の限りを尽くしたといいます。
1912年(明治45年)明治天皇の崩御に殉じて夫人とともに自死します。このことも聖将の名を高めますがアナクロ(時代錯誤)という評価もあります。何しろ殉死は徳川4代将軍のとき保科正之の案で禁止(1663年)になっているのですから。でも天皇制絶対の時代に口にすることははばかられたでしょう。夏目漱石の小説「こころ」ではほんのチョット触れています。
話は長くなりました。この日清、日露戦争から大国帝政ロシア(当時ロシアは革命前夜)に勝ったという奇妙な錯覚が始まり太平洋戦争まで続くわけです。もちろんロシアの東進をストップさせたという大きな意味はあります。歴史にifは許されませんが負けていればヒサンな事になっています。それだけに兵隊さんは必死の思いで闘ったのでしょう。もう少し犠牲者の数を少なくできなかったかという思いがします。
「殉死」(司馬遼太郎・文藝春秋1967年刊)
「乃木希典」(福田和也・文藝春秋2004年刊)
この2冊を読み比べてどちらがどうとかの判断はお読みになった方が決めることです。
二百三高地といえば乃木希典将軍です。聖将とも愚将とも無能の将軍とも言われます。神社(赤坂の乃木坂で知られる)に祀られている伝説の人です。
でも乃木将軍といってもほとんどの人が知らないでしょう。何しろ101年もむかしです。明治は遠くなったのです。私自身むかし文庫本で司馬遼太郎の「殉死」という小説を読んだ程度の知識です。つい最近「乃木希典」(福田和也著)を読みました。どちらも資料を丹念に調べて書いたものと思います。
わたし的に書いて見ました。
1849年長府藩江戸上屋敷に生まれる。
1877年西南戦争で軍旗を奪われる
1894年日清戦争に、1896年台湾総督に。
長州藩閥で山県有朋の下で順調に出世します。
1904年日露戦争に第3軍司令官として任につく。
これからが正念場です。
とにかく犠牲者の数が多いのです。室町時代からの戦国時代でもこんなに多くの戦死者は出ないでしょう。まるで兵士は消耗品です。
まず二百三高地(海抜203㍍の丘ですが旅順の後背地にあたります)をロシア側はコンクリートの分厚い要塞で固めています。機関銃がはじめて使われます。そこへ突っ込めー突っ込めーですからバタバタ倒されるわけです。武田の騎馬軍が織田信長の鉄砲隊にやっつけられたたときと同じです(長篠城の戦い)。
第1回総攻撃8月 15800名戦傷
第2回総攻撃10月 3830名戦傷
第3回総攻撃11月 16935名戦傷
二百三高地の攻撃では戦傷者総計 59000名
日露戦争全体で戦傷者200000名ですから30%です。
結局この戦いは第3回総攻撃において総参謀長児玉源太郎が直接指揮(乃木将軍の一時的棚上げです)を執ることになり作戦の変更、砲台の設置変えなどにより12月6日二百三高地の陥落となります。翌年1月2日旅順陥落、日本海海戦勝利があり10月14日終戦となりました。
乃木大将は1907年学習院院長となります。明治天皇(3歳年上)にたいへん信頼されます。謹厳実直だったからでしょうか。ただし若いときは放蕩の限りを尽くしたといいます。
1912年(明治45年)明治天皇の崩御に殉じて夫人とともに自死します。このことも聖将の名を高めますがアナクロ(時代錯誤)という評価もあります。何しろ殉死は徳川4代将軍のとき保科正之の案で禁止(1663年)になっているのですから。でも天皇制絶対の時代に口にすることははばかられたでしょう。夏目漱石の小説「こころ」ではほんのチョット触れています。
話は長くなりました。この日清、日露戦争から大国帝政ロシア(当時ロシアは革命前夜)に勝ったという奇妙な錯覚が始まり太平洋戦争まで続くわけです。もちろんロシアの東進をストップさせたという大きな意味はあります。歴史にifは許されませんが負けていればヒサンな事になっています。それだけに兵隊さんは必死の思いで闘ったのでしょう。もう少し犠牲者の数を少なくできなかったかという思いがします。
「殉死」(司馬遼太郎・文藝春秋1967年刊)
「乃木希典」(福田和也・文藝春秋2004年刊)
この2冊を読み比べてどちらがどうとかの判断はお読みになった方が決めることです。
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