地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳
6月・・・城と鉄ちゃんの旅・・・美濃路・・・長良川の奥深く・・・かつての郡上藩・・・八幡城です。
八幡城は残念ながら擬城です。1559年築城され、のちに普請を重ねて1688年天守など、ほぼ現在の城郭に。明治の廃藩置県で1869年廃城、石垣のみに。1933年大垣城を参考に擬城としては珍しい木造で造られました。4層5階、高さ17m。
典型的な山城です。吉田川と小駄良木川で三方を挟まれ、後ろだけが急峻な山の尾根、標高差100m弱ですが急傾斜、重い鎧を着て刀を持って這い上がる、それだけでもヘトヘトになりチャンバラどころではありません。難攻不落です。平和な時代、ここは展望台にはなりますが藩庁として行政事務はできなかったでしょうね。登城するだけでヘトヘト、お勤めどころではありません。
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小駄良川と吉田川と城下町の風景。遠くに長良川。
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吉田川、その上流。
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※撮影日は6月7日。
★郡上藩・・・遠藤家27000石からはじまり、井上、金森、青山家48000まで。越前国の一部と美濃国郡上郡の大半を領した。
★宝暦金森騒動・・・郡上一揆・・・とは?
美濃国郡上藩金森家38000石(飛騨高山藩から出羽上山藩に移封、さらに郡上藩に移封)の1754年、財政逼迫していたのでしょうか。百姓年貢を定免制(数年間の平均収穫から計算)から検見制(1年ごとに収穫調査で計算)に切り替えます。税制改革?です。江戸表の支出がよほど多かったのでしょうか。一説によると殿が将軍の奏者番を拝命したため出費が多くなったいう。支出を補填するために増税という図式です。
郡上藩、80%以上が急峻な山、長良川の流域のわずかな平地が耕作地です。百姓にとって生死にかかわったのでしょう。命がけの抵抗が始まります。抵抗勢力を「立て百姓」といいました。藩側も幕府高官、美濃郡代まで引きずり込み、百姓側は江戸表まで出向いて駕籠訴、箱訴にまで及びます。1758年幕府は老中酒井忠寄ほか5名に詮議を命じ、藩主金森頼錦は領地没収、お家断絶、郡上藩の関係スタッフも死罪、遠島、追放。幕府高官の老中本多正珍ほか若年寄、美濃郡代らが免職など。結果としては百姓側の全面勝訴、幕閣、藩主にまで罪が及んだの江戸時代唯一の判例ですが・・・・・百姓側の犠牲者は牢死21名、死罪14名。命と引きかえの強訴でした。
★郡上踊り・・・7月中旬から9月上旬まで延べ32夜踊られるという。近世初め初代藩主の遠藤家が領民の親睦のために奨励した念仏踊りが起こりともいわれますがそれだけでしょうか。江戸時代中期この山の奥の小藩に明暦金森騒動という一揆が起こり藩主が改易という前代未聞の結果・農民勝訴で終わります(もちろん百姓側にも犠牲者がでますが)。代わった藩主青山氏が四民融和を図るために奨励したといわれます。
32夜の郡上踊り・・・郡上一揆で命を捧げたお百姓衆に捧げる鎮魂のセレモニーのように思えてなりません。
※コメント欄オープン。
古い街がそのまま残っています。ニッキのお菓子の老舗があります。子どもたちが飛び込む吉田川、街中にある井戸、・・・お城は模擬城ですからスルーしても、街中の散歩はイイところです。
コメントありがとうございました。
こんな歴史があったんですね。もし次に行くことが出来たらもっと違う見方をするようになることでしょう。
郡上八幡踊りの時の賑あう様子は、村田君から聞いていましたが、まさに鎮魂の踊りだと今日教えて頂きました。