比企の丘

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戦時下の東南海大地震・・・軍需工場の遭難・・・丸子農商生徒の慰霊像

2011-08-24 | 語り継ぐ責任 あの戦争
8月15日、長い1日です。千曲川の支流依田川のほとりの町、丸子(現上田市)にやってきました。尋ねて見たい場所があったのです。
長野県立修学館高校(前丸子実業高校、元丸子農商学校)の校庭に建つ未来の像

「未来の像」は戦時下の学徒動員令により軍需工場で作業していて大地震で亡くなった同校生徒4名の慰霊像です。

わたしがこの大地震のことをを知ったのは吉村昭のセミドキュメントともいうべき小説に、私の郷里の長野県の学校名(丸子農商、飯田中学)が2つあったことからです。
吉村昭著零式戦闘機(新潮社1968年刊)の終章。
1944年12月7日午後、突然不気味な地鳴りが名古屋市の空気を振るわせ、それが急激にたかまる同時に、大地が波濤のように隆起した。・・・大地震が発生したのだ」・・・以下略。
名古屋市三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場に大地震が襲いかかり死者は丸子農商、飯田中学、熱田中学、名古屋高女(すべて旧制)など学徒勤労動員を含めて59名、重傷72名。大江町の三菱重工業本工場、瑞穂工場、針崎工場、桑名工場でも被害が出ました。

この大地震はのちに東南海・三河大地震と呼ばれマグ二チュード8の超大型地震でした(ちなみに関東大震災はM7.9、阪神淡路大地震はM7.3、東日本大地震はM9.0)。

太平洋戦争の最中、この地震のこと被害のことは敵国にもれぬように日本国民にも秘密裡にされました。このことが出版物で公にされたのは下記の本からです。

中日新聞社会部編
東南海、三河大地震の真相恐怖のM8」 
(中日新聞本社 1983年刊)
戦後37年たった1982年、名古屋市内の古書店で見つかった大地震のことをまとめた愛知県のガリ版刷りの公文書。これに検証、聞き取りを重ねようやく真相が世間に公開されす。

この大地震で遭難した学徒動員生たちの慰霊像を追ってきました。

飯田中学校(現飯田高校)の犠牲者は5名、1956年同窓生の提案で慰霊像「希望」が建てられました。
丸子農商学校(現修学館高校)の犠牲者は4名、1989年同級生の提案で慰霊像「未来」が建てられました。

学徒勤労動員・・・国民総動員法に基づき閣議決定された制度。高等小学校、中等学校以上20歳まで、軍需工場の武器生産、農村の食料生産のために学業中途で配置された。まだ14~15歳の判断力もつかないいたいけな少年少女が工場で銃剣や弾丸を磨いていました。

鉛筆を持つ手をヤスリを持つ手に変えて」・・・学業もなげうって「日本国の勝利を信じて」ひたすらに軍需工場で働いていたのでしょうか。
未来」に「希望」を持った少年たちが天災とはいえ、こんな事故で天寿を全うできなかったなんて。
if・・・戦争さえなかったら・・・

ふたたびこんな犠牲者をだしてはならない。


昨年の12月7日のブログ・・・「戦時下の軍需工場を襲った・・・恐怖のマグニチュード8このブログで東南海・三河大地震のことをあつかい、飯田中学校の犠牲者のことまでわかりましたが丸子農商学校の犠牲者のことが気になっていました。
最近、下記のブログで丸子農商学校の[未来の像]について知ることができました。
東信ジャーナル[Blog版]2010年12月9日・・・東南海地震殉難学徒の像の「お身ぬぐい」・・・リンクについてはご了承いただいております。おかげでこの稿を起こすことができましたことお礼もうしあげます)。

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