いまから75年前の1945年8月9日11時02分・・・長崎市松山町9番地上空500m。
米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾「ファットマン」・・・爆発。
一瞬で・・・死没者74000人 負傷者75000・・・
米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾「ファットマン」・・・爆発。
一瞬で・・・死没者74000人 負傷者75000・・・
今日は8月9日・・・ナガサキ忌・・・原爆忌・・・
・・・黙祷・・・
長崎市松山町9番地・・・ここは原爆落下中心地・祈りのゾーン・・・グラウンドゼロ・・・
通常爆心地公園と呼ばれますが、正しくは平和祈念像のある広場も含めて長崎市平和公園。
被爆直後の浦上天主堂・・・
1945年8月9日、天主堂ではミサが行われていたが原爆投下により司祭はじめ多数の信徒は一瞬のうちに全員死亡。
2006年4月、「長崎の鐘」の著者、永井隆博士が過ごしたあばら屋「如己堂」から坂を下りて浦上天主堂まで歩きました。
爆心地から500mの浦上天主堂、瓦礫の中からアンジェラスの鐘が発見されます。
この鐘が再び鳴らされたのは原爆被災の年のクリスマスの夜でした。
平和祈念像は広島の原爆ドームのような原爆被災そのものではありません。
ひとりの彫刻家北村西望の観念であり外に向かってのメッセージです。
原爆投下の10年後に長崎市民の悲願で国内外からの3000万円余の浄財を集めて建立されました。
貧しい時代でしたが・・・まさに人々の平和への祈念です。
・・・黙祷・・・
長崎市松山町9番地・・・ここは原爆落下中心地・祈りのゾーン・・・グラウンドゼロ・・・
通常爆心地公園と呼ばれますが、正しくは平和祈念像のある広場も含めて長崎市平和公園。
※撮影日は2006年4月3日。
被爆直後の浦上天主堂・・・
1945年8月9日、天主堂ではミサが行われていたが原爆投下により司祭はじめ多数の信徒は一瞬のうちに全員死亡。
2006年4月、「長崎の鐘」の著者、永井隆博士が過ごしたあばら屋「如己堂」から坂を下りて浦上天主堂まで歩きました。
爆心地から500mの浦上天主堂、瓦礫の中からアンジェラスの鐘が発見されます。
この鐘が再び鳴らされたのは原爆被災の年のクリスマスの夜でした。
平和祈念像は広島の原爆ドームのような原爆被災そのものではありません。
ひとりの彫刻家北村西望の観念であり外に向かってのメッセージです。
原爆投下の10年後に長崎市民の悲願で国内外からの3000万円余の浄財を集めて建立されました。
貧しい時代でしたが・・・まさに人々の平和への祈念です。
※イラストは2006年ナガサキを訪れたときのもの。
8月6日は「ひろしま原爆忌」、8月9日は「ナガサキ原爆忌」、8月15日は「日本が戦争に負けた日」・・・
「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ」・・・祈ってほしい・・・
「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ」・・・祈ってほしい・・・
※コメント欄オープン。
知覧の特攻隊の記念館へ行った時、出陣前の若き特攻隊員の綴った手紙をみて、胸が詰まりました。
イラストはご自身が描かれたものですか?
素敵です
こういう惨禍を招いた人たちの責任は重いと思います。
イラストにも心打たれました。
長崎75回原爆の日
・ 被爆者の伝える重み歳重ね
被爆者が語る被爆の実相は、それはそれは重みがあるのでしょう。
核廃絶の近い次世代へ!
比企野さんのイラストは本当に上手です・・・。
、筆遣いが見事です。
、
・原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む 兜太
・彎曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太
大勢の人が犠牲になりました。
「非命ニ斃レタル者・・・」とは終戦の詔勅の一節です。「非命」とは天寿を全うしないこと・・・残念です。
コメントありがとうございました。
スゴイですね。
長崎は狭いワンド・・・山に囲まれてなければ広島の何倍かの惨禍に見舞われたといいます。
核兵器廃絶宣言…日本はどうなるでしょう。
コメントありがとうございました。
ノモンハン・・・
わけのわからない戦闘です。大義名分がありません、
すずさんの「ノモンハン」読んでいます。
私のノモンハンおブログ・・・写真など使えるものがありましたら使ってください。