比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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秋の浅間山麓・・・天明の浅間焼けの・・・鎌原(かんばら)観音堂を尋ねて

2017-11-27 | 道をゆく 関東
信州上田の・・・六文銭の写真帳

秋・・・初冠雪の浅間山を尋ねて浅間山周辺を。国道18号線中軽井沢交叉点から国道146号線(草津街道、ロマンチック街道)を北へ・・・「峰の茶屋」バス停から・・・鬼押出しハイウエイへ・・・さらに北へ進んで鎌原(かんばら)観音堂へ。

浅間山山頂から北東に直線で12㎞、標高900mの上州吾妻郡鎌原村(現嬬恋村鎌原)。
天明三年(1783年8月5日)浅間山大噴火(浅間焼け)の火砕流、土石流がこの村を襲った。
村人は少し高台にあった観音堂の石段を駆け上ったという。
村人570人、石段を上って助かった人、他村にいた人、合わせて93人。土石流に飲み込まれた人・・・477人。

観音堂正面の赤い橋・・・その上に15段の石段。


赤い橋の下に35段の石段が埋没しています・・・↓の画像をクリックすると由緒書きが
由緒書きのコピペですが・・・1979年大規模の発掘調査が行われ埋設石段は35段、土石流の厚さ6m前後と判明。
石段の最下段に2体の人骨を発見、科学分析で人骨は女性、親子か兄弟、土石流を逃れて石段を上る途中で被災か・・・生死を分けた石段といわれます。




石段を上がると「かんのんさま」・・・篇額が・・・左から右への仮名書き。
観音堂の横に鎌原観音堂奉仕会の人たちが接待する湯茶が。
※観音堂奉仕会は1979年鎌原観音堂あたりの発掘が始まった時に発足したといいます。
当番制で観音堂の清掃、訪れる人に湯茶の接待をする鎌原地区の自主的なクループ。




延命寺の石標・・・↓の画像をクリックすると由緒書きが
由緒書きのコピペですが・・・1783年の天明の大墳火の120年余の1910年鎌原村の東25㎞、東吾妻町矢倉の吾妻川の河原で1個の石標が発見され地元の鳥頭神社に保存されました。
そのご考証され鎌原村の延命寺の門石と判明、1943年鎌原村に戻され観音堂の一隅に安置。「浅間山」の文字は「浅間大明神」、延命寺はその別当時だったことを示していると考えらています。

※撮影は10月31日

余録》天明の大噴火といわれる浅間焼け、噴火活動にともなう地震が山肌を揺り動かし岩山を崩壊させ、溶岩、火砕流がそれを呑み込んで土石流となって裾野の村を襲い、野や谷を埋め天然のダムを形成、それが決壊して吾妻川から利根川に(浅間焼け泥押し)、遠く江戸川の河口まで死体が流れ着いたといいます。死者約1500人。流域の農業用水網もズタズタにされ空前の不作に。天明の大噴火と天明の大飢饉(死者10万人)と因果関係は?、天明の大飢饉は同年のアイスランドのラキ火山の大噴火の影響といわれています。この火山の噴煙は北半球をほぼ覆い世界的な凶作に。

浅間山麓・・・鎌原観音堂は・・・地球の営みを伝える歴史遺産。地球の営みはいつでも想定外。それを制御(アンダーコントロール)できるというならば・・・思い上がりです。


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