上野公園の散策です。桜咲く上野の森のお花見でもなく動物園に行くわけでもなく目的は別にあるのですが・・・時間はたっぷりあります。朝の7時過ぎに家を出てJR日暮里駅に着いたのは9時。
ホーム階段上の南口駅を出てJR山手線(ヤマノテではなくヤマテです)内回りを眺めます。内回りって東京駅から上野、田端、池袋と時計と逆の回り方の列車編成をいいます(このごろ知りました)。ところがこの線路は山手線ではなく京浜東北線であることがあとでわかりました。石垣の上が上野の山、つまりこの高さが武蔵台地の段丘の高さです。
さてJR線の内側の上野の山方面に坂を登ります。塀越しに見えるのが天王寺毘沙門天。江戸の大工の意地と技を書いた幸田露伴「五重塔」(1891年発表)のモデルの谷中五重塔のあったお寺です。谷中五重塔は1644年建立、1772年焼失、1791年再建、明治維新の彰義隊戦争、震災、戦災にも耐えていましたが1957年放火により焼失。
振り返って日暮里駅。ちなみにニッポリは新堀の当て字か。
坂を上りきると谷中霊園(谷中墓地とも)。お花見の穴場です。お墓で花見なんて・・・といいますが花を愛でるのが日本人の美徳。お墓のホトケさまも喜んでいるのでは。
日本の公営墓地のハシリ。1874年明治新政府は天王寺の寺域の大部分を接収し府立墓地とした。10㌶、7000基の墓。寛永寺、天王寺の墓地も含まれる。
徳川家、徳川慶喜、高橋お伝、鳩山一郎、横山大観、森繁久弥などホトケ様にビッグネームが多い。
有名人の墓を巡り歩くオタクをハカマイラーという。ちなみにわたしはハカマイラーではない。
さて谷中墓地を突っ切って寛永寺坂を横切ると寛永寺の左横通路に。この道はお寺の中に。「お早うございます」と声をかけてくれたご婦人が「通り抜けられますよ」と教えてくれた。東京の人は人情があって親切だ。
寛永寺・・・寛永寺の子院「大慈院」の土地に1879年川越喜多院から「根本中堂」(天海僧正の住した僧院)を移築したもの。
正門から見た寛永寺。門というにはあまりにも・・・どういったらいいのだろうか。
天台宗東叡山寛永寺・・・1625年(寛永二年)徳川三代将軍家光開基、天海僧正開山。現在の上野公園全体・・約30㌶、最盛期はその2倍の寺領だったそうです。京都に倣って江戸城の北東(丑寅)の方角(鬼門)に東の叡山として、寛永寺は元号が寛永(改元は家光の征夷大将軍の即位で)ということから。徳川幕府の円熟期です。寛永寺の中心は現在の国立博物館前の大噴水のあたりその後ろの博物館あたりに本坊がありました。
明治維新・・・すべてはパ~になり没収。明治新政府のものになり、動物園や博物館や美術館になったり、学校になったりして、寛永寺の面影はわずかに残るばかりです。
寛永寺本坊の正門(国指定重要文化財)。1868年の上野戦争で焼け残り国立博物館の正門として使われていたが1923年関東大震災後、国立博物館右脇の輪王寺両大師堂の境内の中に移築。
薬医門(主柱に控え柱の4本柱構造・・・四脚門は六本柱構造)に潜り門付き。上野戦争のときの弾痕が生々しい。菊の御紋章の金具が見えます。
寛永寺本坊・・・管主は三代から天皇家の御子(皇子)がなった。輪王寺宮法親王といい天台宗座主として日光輪王寺、東衛山寛永寺、、比叡山延暦寺の三山すべてを管掌した。
ホーム階段上の南口駅を出てJR山手線(ヤマノテではなくヤマテです)内回りを眺めます。内回りって東京駅から上野、田端、池袋と時計と逆の回り方の列車編成をいいます(このごろ知りました)。ところがこの線路は山手線ではなく京浜東北線であることがあとでわかりました。石垣の上が上野の山、つまりこの高さが武蔵台地の段丘の高さです。
さてJR線の内側の上野の山方面に坂を登ります。塀越しに見えるのが天王寺毘沙門天。江戸の大工の意地と技を書いた幸田露伴「五重塔」(1891年発表)のモデルの谷中五重塔のあったお寺です。谷中五重塔は1644年建立、1772年焼失、1791年再建、明治維新の彰義隊戦争、震災、戦災にも耐えていましたが1957年放火により焼失。
振り返って日暮里駅。ちなみにニッポリは新堀の当て字か。
坂を上りきると谷中霊園(谷中墓地とも)。お花見の穴場です。お墓で花見なんて・・・といいますが花を愛でるのが日本人の美徳。お墓のホトケさまも喜んでいるのでは。
日本の公営墓地のハシリ。1874年明治新政府は天王寺の寺域の大部分を接収し府立墓地とした。10㌶、7000基の墓。寛永寺、天王寺の墓地も含まれる。
徳川家、徳川慶喜、高橋お伝、鳩山一郎、横山大観、森繁久弥などホトケ様にビッグネームが多い。
有名人の墓を巡り歩くオタクをハカマイラーという。ちなみにわたしはハカマイラーではない。
さて谷中墓地を突っ切って寛永寺坂を横切ると寛永寺の左横通路に。この道はお寺の中に。「お早うございます」と声をかけてくれたご婦人が「通り抜けられますよ」と教えてくれた。東京の人は人情があって親切だ。
寛永寺・・・寛永寺の子院「大慈院」の土地に1879年川越喜多院から「根本中堂」(天海僧正の住した僧院)を移築したもの。
正門から見た寛永寺。門というにはあまりにも・・・どういったらいいのだろうか。
天台宗東叡山寛永寺・・・1625年(寛永二年)徳川三代将軍家光開基、天海僧正開山。現在の上野公園全体・・約30㌶、最盛期はその2倍の寺領だったそうです。京都に倣って江戸城の北東(丑寅)の方角(鬼門)に東の叡山として、寛永寺は元号が寛永(改元は家光の征夷大将軍の即位で)ということから。徳川幕府の円熟期です。寛永寺の中心は現在の国立博物館前の大噴水のあたりその後ろの博物館あたりに本坊がありました。
明治維新・・・すべてはパ~になり没収。明治新政府のものになり、動物園や博物館や美術館になったり、学校になったりして、寛永寺の面影はわずかに残るばかりです。
寛永寺本坊の正門(国指定重要文化財)。1868年の上野戦争で焼け残り国立博物館の正門として使われていたが1923年関東大震災後、国立博物館右脇の輪王寺両大師堂の境内の中に移築。
薬医門(主柱に控え柱の4本柱構造・・・四脚門は六本柱構造)に潜り門付き。上野戦争のときの弾痕が生々しい。菊の御紋章の金具が見えます。
寛永寺本坊・・・管主は三代から天皇家の御子(皇子)がなった。輪王寺宮法親王といい天台宗座主として日光輪王寺、東衛山寛永寺、、比叡山延暦寺の三山すべてを管掌した。
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