比企の丘

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上野の森を行く(蛇足)・・・上野公園の父ボードウィン

2010-04-05 | 道をゆく 東京散歩
上野の森を歩いています。上野の森といわれるこの地帯、公園と博物館、美術館、学校とゆったりとした都市空間です。

明治維新の年といわれる1868年、恭順の意を表して江戸城を明け渡した徳川家の中の抵抗分子(彰義隊)が上野の山にバリケードをつくってヒキコモリます(上野戦争)。兵力、兵器の差はいかんともしがたく簡単に鎮圧されますが広大な寛永寺の大伽藍群は灰燼に帰します。朝廷に刃向かった賊軍の財産ですからすべて没収。1870年新政府は上野の山に医学校、病院の建設を計画。計画を相談されたのがオランダ医師ボードウィン(ボードワンとも)。上野の山を視察、壮大な敷地を緑地として残すように具申します。医学者としての目以外に都市学者の目を持っていたのでしょうか。コンクリートより緑を・・・です。新政府の役人もエライ これを承認して1873年太政官達で東京府公園に指定します。

かくしてボードウィンは「上野公園の父」となり博物館前の大噴水公園の林間に上野公園100年を記念して1973年ブロンズとして鎮座することになりました。
ところがこの像はボードウィンの弟の写真を間違って使い彫塑したことが2005年判明、2006年ボードウィンが大阪に滞在した折のお寺の住持さんが活動してあらためて彫塑しなおし2006年設置しなおしました。

ボードウィンの「都市に緑を」という思想はそのごの東京の都市づくりに影響を与えたのでしょうか江戸城、芝離宮、浜離宮。有栖川記念公園。新宿御苑、小石川植物園・,神宮内苑・外苑・・・東京というところはあんがい緑の多い都市なのです。

明治新政府が上野の森に作ろうとした医学校はのちに加賀100万石前田家の大名屋敷跡に建てられます。現在の東京大学本郷キャンパスです。


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