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松代城の桜紀行・・・
城下町、街道町としての静かな佇まいがなんともいえない町です。
海津城址、旧真田邸、真田家宝物館、佐久間象山記念館、象山神社と見どころいっぱい。
最後に古いブログから・・・
松代の「大本営」のことを取り上げてみました。
このブログは2011年5月16日に松代の大本営を訪ねたときのログ信州松代・・・負の歴史遺産・・・松代大本営地下壕跡(5月27日アップ)から抜粋、リライトしたものです。
大本営とは戦国時代の戦さにおける大本陣と同意語、最高司令官の陣取る場所です。この時代の日本の最高司令官は天皇です。
いまから78年前の1944年11月11日11時、長野県松代町(現長野市」で最初の発破とともに大工事(略号で「マ工事」)が着工されました。総工費2億円(今の金で2兆円?。戦艦大和の建造費が1億3000万円ともいわれます)。朝鮮人7000人、日本人3000人、敗戦時までの9ヶ月で延べ300万人の労働力をつぎこみ計画13㎞(2.4㌶)の75%約10kmの地下壕を掘ったそうです。
太平洋戦争が敗色濃厚、皇居の安全も考慮して日本の真ん中に巨大防空壕を築き天皇を守り本土決戦をしようという作戦でした。
1945年8月15日、日本敗戦、天皇の御座所は松代の大本営に遷されることなく終わりました。
その後、松代大本営は長いこと放置されていましたが地元高校生の沖縄訪問から沖縄戦研究班が生まれ、やがて戦争史跡としての公開運動が起こり1990年長野市によって公開に至りました。
工事は西松組、鹿島組が請け負い東部軍工兵隊の指揮の下、熱海鉄道教習所、産業報国隊、勤労奉仕隊、学徒、児童の勤労奉仕、それに朝鮮半島からの労働者(7000人とも)です。強制連行労働者といっていいかどうかは解釈の分かれるところですが一応は労働契約がされていたといいます。実態は過酷な労働と発破や落盤による事故、劣悪な食料事情による栄養失調、現場請負の親方のタコ部屋搾取もあったようです。朝鮮人犠牲者の数は1000人とも200人とも300人ともいわれますが確かな数字は終戦時の混乱の中で闇の中に消えました。一方では地元住民との素朴な交流もあり戦後もその交流が続いたそうです。
もう77年もむかしのことです。負けた戦争の不条理さ,役に立ったかわからない巨費を投じたこの未完の設備、そして全国にあった朝鮮人の労働、日本人にとって語りたくない、目をつむりたい、見ないフリをしたいことです。
案内のご婦人(戦争も戦後も知らない世代の人のようです)が最後にこんな言葉を引用して話を終わられました。
「過去の真実に目を瞑るものはほんとうの盲目になる」・・・
★西ドイツ大統領や統一ドイツ大統領を務めた、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が1985年5月8日、西ドイツの首都ボンの議会演説で。
わたしたちの先輩が経験した失敗の歴史を次の世代に語り継ぐことがわたしたちの責任です。
☆松代を訪ねたらもう一ヶ所、訪ねてほしい場所。
明徳寺・・・第二次世界大戦末期の硫黄島の戦い・・・日本軍守備隊総指揮官 栗林大将の墓です。
詳細は2011年5月25日のブログ・・・信州松代・・・明徳寺・・・硫黄島に・・・散るぞ悲しき・・・栗林中将の墓に詣でる・・・をご覧ください。
松代城の桜紀行・・・
城下町、街道町としての静かな佇まいがなんともいえない町です。
海津城址、旧真田邸、真田家宝物館、佐久間象山記念館、象山神社と見どころいっぱい。
最後に古いブログから・・・
松代の「大本営」のことを取り上げてみました。
このブログは2011年5月16日に松代の大本営を訪ねたときのログ信州松代・・・負の歴史遺産・・・松代大本営地下壕跡(5月27日アップ)から抜粋、リライトしたものです。
大本営とは戦国時代の戦さにおける大本陣と同意語、最高司令官の陣取る場所です。この時代の日本の最高司令官は天皇です。
いまから78年前の1944年11月11日11時、長野県松代町(現長野市」で最初の発破とともに大工事(略号で「マ工事」)が着工されました。総工費2億円(今の金で2兆円?。戦艦大和の建造費が1億3000万円ともいわれます)。朝鮮人7000人、日本人3000人、敗戦時までの9ヶ月で延べ300万人の労働力をつぎこみ計画13㎞(2.4㌶)の75%約10kmの地下壕を掘ったそうです。
太平洋戦争が敗色濃厚、皇居の安全も考慮して日本の真ん中に巨大防空壕を築き天皇を守り本土決戦をしようという作戦でした。
1945年8月15日、日本敗戦、天皇の御座所は松代の大本営に遷されることなく終わりました。
その後、松代大本営は長いこと放置されていましたが地元高校生の沖縄訪問から沖縄戦研究班が生まれ、やがて戦争史跡としての公開運動が起こり1990年長野市によって公開に至りました。
2011年5月16日、公開されている象山壕に入りました(無料)。壕はそのほかに地震観測所に使われている舞鶴山と皆神山があります。
ようやく表に出ます。ホッとする瞬間です。
総延長約6km.エプロン姿のボランティア?のご婦人が団体さんにガイドをしていましたのでご一緒させていただきました。淡々とした説明ですがいいお話しでした。当時は圧縮空気による振動式掘削機、ロッドによりあけられた穴にダイナマイトを詰め発破をかける作業が続いたそうです。不発ダイナマイトがあり、これによる事故が多かったといわれます。金槌と鏨による手堀りも同時進行で行いました。
壕を掘りますから掘った岩を外に出すわけです。フォークリフトもパワーシャベルもダンプカーもない時代です。モッコで担ぎ、トロッコを押して、炭鉱のボタ山のようなものが築き上げられます。ズリ山です。敵機に見つかるといけないので学徒・児童が山から木の葉を取ってきて被せたそうです。このズリは戦後、米軍の厚木基地や三沢基地の建設資材に利用されたそうです。
壕を掘りますから掘った岩を外に出すわけです。フォークリフトもパワーシャベルもダンプカーもない時代です。モッコで担ぎ、トロッコを押して、炭鉱のボタ山のようなものが築き上げられます。ズリ山です。敵機に見つかるといけないので学徒・児童が山から木の葉を取ってきて被せたそうです。このズリは戦後、米軍の厚木基地や三沢基地の建設資材に利用されたそうです。
ようやく表に出ます。ホッとする瞬間です。
工事は西松組、鹿島組が請け負い東部軍工兵隊の指揮の下、熱海鉄道教習所、産業報国隊、勤労奉仕隊、学徒、児童の勤労奉仕、それに朝鮮半島からの労働者(7000人とも)です。強制連行労働者といっていいかどうかは解釈の分かれるところですが一応は労働契約がされていたといいます。実態は過酷な労働と発破や落盤による事故、劣悪な食料事情による栄養失調、現場請負の親方のタコ部屋搾取もあったようです。朝鮮人犠牲者の数は1000人とも200人とも300人ともいわれますが確かな数字は終戦時の混乱の中で闇の中に消えました。一方では地元住民との素朴な交流もあり戦後もその交流が続いたそうです。
もう77年もむかしのことです。負けた戦争の不条理さ,役に立ったかわからない巨費を投じたこの未完の設備、そして全国にあった朝鮮人の労働、日本人にとって語りたくない、目をつむりたい、見ないフリをしたいことです。
案内のご婦人(戦争も戦後も知らない世代の人のようです)が最後にこんな言葉を引用して話を終わられました。
「過去の真実に目を瞑るものはほんとうの盲目になる」・・・
★西ドイツ大統領や統一ドイツ大統領を務めた、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が1985年5月8日、西ドイツの首都ボンの議会演説で。
わたしたちの先輩が経験した失敗の歴史を次の世代に語り継ぐことがわたしたちの責任です。
☆松代を訪ねたらもう一ヶ所、訪ねてほしい場所。
明徳寺・・・第二次世界大戦末期の硫黄島の戦い・・・日本軍守備隊総指揮官 栗林大将の墓です。
曹洞宗龍漂山明徳寺・・・明徳元年(1390年)開基。寺領20石。
墓前に供えられたスコッチウヰスキー・・・ジョニーウォーカーの赤ラベルが風雨の晒されています。
水割りの水まで供えられていました。何かジーンときます。
墓前に供えられたスコッチウヰスキー・・・ジョニーウォーカーの赤ラベルが風雨の晒されています。
水割りの水まで供えられていました。何かジーンときます。
詳細は2011年5月25日のブログ・・・信州松代・・・明徳寺・・・硫黄島に・・・散るぞ悲しき・・・栗林中将の墓に詣でる・・・をご覧ください。
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できるだけ大勢の人に目を通していただきたい、そんな思いです。
コメントありがとうございました。