比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

ふたたびの・・・信州伊那谷・・・南駒ケ岳の直下を・・・JR飯田線が・ゆく

2016-05-19 | 鉄道と駅 甲信越編
初夏の信濃路・・・伊那谷・・・飯島町・・・
標高約500mから標高約3000mの高峰がひと目で間近で見られるビューポイント。
春は新緑が下から上がってゆき、秋は紅葉は上から降りてくる。

信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。
今回は「上田六文銭」さんの画像提供です


中央に仙涯嶺(2734m)、その右にまだ雪をかぶった南駒ケ岳(2841m)、その右に赤梛岳(2798m)

五月というのにまだ冠雪の南駒ケ岳・・・その右の稜線下に擂鉢窪カール、さらにその下に百間ナギ
伊那の人にとって木曽駒ケ岳西駒ケ岳、その遥か南にあるから南駒ケ岳。麓の人にとって名峰です。
百間ナギ・・・ナギは崩落地。いまでも崩落を続けているそうだ。

JR飯田線七久保駅~伊那本郷駅間・・・211系がゆく。

JR飯田線七久保駅~伊那本郷駅間・・・313系がゆく。
正面の山は越百山(こすもやま 2613m)、右に仙涯嶺
※撮影日は2016年5月2日 JR飯田線七久保駅~伊那本郷駅間 Panasonic LUMIX DMC-FZ100

※高校生の時、同級生3人とこれらの山に登った。初日は七久保駅から歩いて越百山の無人小屋まで、2日目は南駒ケ岳擂鉢窪カールの無人小屋で、3日目は空木岳経由で下山、赤穂駅(現駒ヶ根駅)へ。当時は中央アルプスも南アルプスもほとんど無人小屋であった。みんな登山経験なんてない。子どものときから毎日見馴れている山というだけ。地図の見方なんて知らない。学校なんかに届出無しのイイかげん登山・・・それが普通だった。擂鉢窪カールの岩室は最高。扉なんてない。山野草の宝庫、ホシガラスが飛ぶ、イワツバメが群れ飛ぶ、夜は満天の星、下界で動く電車の光が見えた。

《伊那谷の飯島町へ行ったら・・・むかしの江戸幕府飯島陣屋跡に・・・》
長野県上伊那郡飯島町、国道153号線を飯島市街地に入ると飯島陣屋跡飯島町歴史資料館の案内が目に入ります。お時間がありましたら立ち寄ってみてください。歴史マニア、時代小説マニアにお勧めの場所です。

さて飯島陣屋です・・・
1672年、飯田藩主脇坂氏の転任にともない53000石の石高が分割され堀氏が20000石で飯田藩主に。残りは天領(幕府領)に、その管理のため最初は片桐村(現松川町)に陣屋が、1677年飯島町に陣屋が移転、そのあとは管轄領が変わったりもとに戻ったり(長野県ではほかに塩尻陣屋、中野陣屋、中之条陣屋、御影陣屋がありました)、代官も専任であったり兼任であったり。明治維新を迎え1868年廃止、廃藩置県で伊那県庁に、1872年長野県成立で解体。
写真の陣屋は1994年に新築復元されたもの。門は冠木門(かぶきもん)、建屋は長野県の中信、南信に見られる本棟造といわれる緩い勾配の切妻屋根、妻入り玄関、妻の頂きに雀脅しという飾りがついています。建坪は60坪以上と思われます。
江戸時代の長野県の地方行政は複雑で江戸時代の初めで19の藩が幕末のころで11の藩があり天領、旗本知行地、他国の大名の飛び地藩領がありました。そんなことがわかってくると、こんな田舎になぜ幕府の陣屋があったか、見えてきます。
陣屋とは・・・もとは戦で軍勢が駐屯した場所、詰め所をいいましたが、江戸時代には城を持たない大名の藩庁(役所)、幕府直轄領、旗本の知行地、大名の郡役所など代官を置く場所の地方庁舎をいいました。



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