比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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1945年8月15日・・・「終戦」ではなく「敗戦」の日・・・「終戦の詔勅」の対訳

2017-08-15 | 語り継ぐ責任 あの戦争
1945年8月15日・・・午前12時、天皇の「終戦の詔勅」のラジオ放送(玉音放送)がありました。
まだ小さい私はド田舎で聞いていました。ラジオの性能が悪かったかのか、雑音しか聞こえず聞こえても何のことかわからなかった?
近所に疎開してきていたオバサンがいて「戦争が終わったんだ」と知らせてくれました。
これで東京に帰れる」と嬉しそうでした。
とにかく戦争が終わったんだ・・・明日からは敵が攻めてこないのだ・・・ということぐらいしかわからなかったです。
父は日中戦争に次ぐ二度目の応召中、兄たちは学徒動員。米軍爆撃機も見たこともないド田舎。農村ですから食い物は自給できました。
東京が空襲で焼け野原になった、沖縄が陥落した、戦艦大和がやられた、広島や長崎に新型爆弾が落とされた・・・なんて知りません。もうじき神風が吹く・・・なんて思っていたかも・・・
小学校には朝鮮半島からの労働兵(強制労働?)駐屯・・・逃亡して捉えられて梁にぶら下げられて竹刀で殴られていたのを窓から覗いて怒られたことを覚えています。
戦争が終わり朝鮮兵たちはいなくなり(朝鮮兵を殴っていた日本兵はそれより早く姿を消したそうです)、天皇陛下の御真影が収められていた奉安殿は壊されました。出征兵士たちが村に帰ってきます。特攻隊帰りもいます。

さて「終戦の詔勅」です。読んでみました。難解な熟語とカタカナの文語体の文章です。ワカリマセン? 教育漢字や当用漢字で育った私には「読めない」「意味がワカラナイ」。当時の大人はみんなわかっていたのだろうか。
いろいろなネタを読んで私なりに対訳してみました。まだ意味がワカリマセン。

大東亜戦争終結の詔書終戦の詔勅)

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
          ※私(朕)は深く世界の大勢と日本の現状を考えたうえで緊急の措置をもって現在の情勢を収めようと思い、ここに忠実・善良なるあなたたち(爾)国民に伝えます
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
          ※私は日本国政府に米・英・中・ソの4国に対してその共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを指示しました。
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
          ※そもそも国民の平穏無事(康寧)を図り世界繁栄の喜びを一つにすることは代々の天皇家の遺してきた手本であり私の常々(拳々)心にとめてきたことです
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
          ※先(曩)に米英二国に宣戦をした理由も日本の自立とアジア各国の安定を願うからであり他国の主権を侵し領土を侵略することは、もともと私の思うことではありませんでした
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス
          ※しかしながら戦争は四年を過ぎ、陸海軍の戦い、官僚の努力、国民の活動、最善を尽くしているが戦況はよくならず、世界の大勢も日本国に有利になっていません
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
          ※そのうえ敵は新しい残虐なる爆弾(原子爆弾)を使用して多くの罪なき非戦闘員をも殺し、その被害の範囲は測ることができないほどです
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
          ※このうえなおも交戦を続ければ、しまいには日本国は滅亡するだけでなく、人類の文明をも破滅させるでしょう
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
          ※そんなことになれば私は多くの国民を守ってき代々の天皇家の対してどう謝罪すればよいのでしょう、以上が政府に対してポツダム宣言を受諾するよう指示した理由です
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
          ※私は日本とともにアジアの解放に協力してくれた友好国々に対して残念だと思う心を表さずにはおられません
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
          ※日本国民として、戦場で斃れた人、職場で殉職した人、天命を全うせず命を失った人々と遺族に思いを寄せれば身も心も引き裂かれる思いです
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
          ※さらに傷を負い被害に遭い家や仕事を失った人々の健康と生活をも深く心配しています
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
          ※これからの日本の受ける苦難の道はたいへんなものだと思います
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
          ※国民の想う心は私もよくわかります。でも私は現状に即して「耐えるところは耐え我慢するところは我慢して」世界の未来のために平和を築いていきたいと思います
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
          ※私は国家国体を守ることができ、忠実・善良な国民の真心を信じ、常に国民と共にあります
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
          ※もし感情の激するままに問題をおこしたり仲間同士を排斥したりして、情勢を悪化したりすれば道を誤り世界から信用を失うことになり、私はしてはいけないことだと思います
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
          ※国が家族のように一つになり国の不滅を信じ責任が重く道は遠いですが総力を将来の建設のために傾け道義を大切にその思いを固く守り国体を奮い立たせ世界の本流から
             遅れないようにしてください

爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
          ※国民の皆さん、これらの私の真意を思い実現してください           

御名御璽
          ※文章ではなく上の写真のように、天皇の署名捺印のこと。

昭和二十年八月十四日

この中でわかったこと。
其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告」・・・ポツダム宣言(無条件降伏を提示)受諾を内閣に指示したということ。無条件降伏とは「負けました」と相手にいうことです。終戦ではありません。ポツダム宣言クリック
★「残虐なる爆弾」・・・広島、長崎に落とされた核兵器のことです。「人類ノ文明ヲモ破却スヘシ」とも書いてあります。その通りです。次に核兵器が使われたとき・・・人類の滅亡です。核シェルターなんて気休めです。
★「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク」・・・昭和天皇の気持ちだったのでしょうか。非命とは天寿を全うしない人の命。あの戦争で320万人余が太平洋でアジアの国々で大陸で北の大地で・空襲で・・・亡くなったことに思いを馳せればこの言葉の意味がわかってきます。
海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍」・・・鎮魂のメロディーが浮かんできます。

タラ・レバ・・・ですが・・・
ポツダム宣言」日本には7月26日に来ています。そのとき即答していレバ・・・
広島・長崎の原爆も。ソ連軍の8月9日からの中国東北部(旧満州)への進攻も・・・なかったかも?

出版社「理論社」の元社長小宮山量平は長編小説「千曲川四部作」の中でこう書いています。
・・・今更のように惜しまれる命の散華であった。せめてあの東京大空襲以前に《天の声》があったなら、欲を言えば昨秋のレイテ沖海戦の直後に、そして第二次の学徒動員の前後に、「戦争の完遂に関する声明」ではなく「戦争終結の詔勅」の如きものが発せられタラ・・・




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7 コメント

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8月15日 (縄文人)
2017-08-17 06:09:00

16日続いた雨、
これではいかんせん畑の作物は生長が普通ではありません。
局所的にすごい雨が降ったかと思うと、此のあいにくの天気です。稲も日照りが欲しいときに、幼穂形成期から成熟期に太陽が一番欲しいときです。

「敗戦の日」読ませてもらいました。
私は、小学校2年生の時終戦でした。奉安殿の前でクラスの集合写真があります。
校長先生は、いつも戦闘帽、国防色の服装、それに軍靴でした。
おぼろげながら校庭の隅に、藁人形、竹槍の訓練を上級生がしたことを覚えています。

あれから72年です。
私も玉音放送を聴いた当時(ラジオが無かったので、母が裏の家で聞いて、泣いて帰った。)のことを書き始めましたが、途中で止めてしまいました。
比企野さんの・「終戦」ではなく「敗戦」の日・・・を読ませてもらい、年齢的に大差なく、当時を思い出しながら、当時ははどこでも貧しかった。

教科書と言えば、墨で黒塗でした。
新聞紙ほどの大きさの印刷物が配られて、これを教科書大に鋏で切って、糸で綴じた覚えがあります。いろいろありました。

今思えばよくここまで日本は復興したものだとつくづく思います。
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敗戦の日 (こきおばさん)
2017-08-17 06:41:28
敗戦時、私は9歳、小学3年生でした。
当時の満州の電気のないそれこそど田舎にいて、この玉音放送とは無縁でした。
その後も玉音放送の内容を知ろうともしていませんでしたから、こうして解説付きで教えて戴き、ヒキノサマに感謝です。
45年の8月から、引き揚げてきた46年10月まで、ほとんど学校に行っていませんでしたが、4年生だからと4年生に編入しましたが、勉強で困ったことはありませんでした。内地ではきっと勉強できる状態ではなかったのでしょうね。
墨で教科書を黒く塗ったこともありませんでしたし、黒塗りの教科書を開いた覚えもありません。
ただ、何もなくて、ノートも鉛筆も手に入らなくて、ノートなど表紙の裏やふちまで書き込んでいました。
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ツイートと印刷 (こきおばさん)
2017-08-17 06:45:02
このページツイートさせていただきました。

印刷もさせていただき、じっくり読んで孫たちにも見せようと思います。
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もう少し早かったら (shizukata)
2017-08-17 21:19:37
大東亜戦争終結の詔書
天皇のお言葉がもう少し早かったら、と思うと
残念としか言いようがありません。天皇は軍部の軋轢に
悩まされたことなのでしょう。

それにしても、それにしても・・・もうすこし早くお言葉が
あれば、という想いはあの日、天皇の詔勅を聞いた
人たちが思ったことでしょう。

今の若い人に「もしも日本が又、戦争に巻き込まれたら
あなたたちは戦えますか?」お気楽な今時の若い人たちは
「嫌だぁ〜、戦争したくない〜」というでしょう。
あの頃はそんなこと言えない時代でした。亡くなった人の
命を無駄にしてはいけないです。
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竹槍訓練 (縄文人さんへ・・・)
2017-08-18 18:37:16
火はたき棒で消火訓練、バケツリレー・・・覚えています。
田舎は暢気なものでした。
後日、東京の人に聞いたら戦争に負けたら男は○玉を抜かれ女は××されると大人たちからいわれていたそうです。
貧乏な時代です。カツ丼とか餃子などは東京に出てきて初めて食べました。
絹を買ってもらっていたアメリカと戦争を起こした日本、鉄鉱も石油も生産のない日本、中国戦争でオヤジたちは運送部隊、馬と大八車で鉄砲の弾を運んでいた。勝てるはずがありません。
8月15日になると「耐えがたきを耐え忍がたきを忍び」という言葉を思い出します。
返信する
ミッドウエイ海戦で (shizukataさんへ・・・)
2017-08-18 19:08:11
海軍は壊滅的な損害を受けほとんど戦闘能力が亡くなります。兵站輸送能力が亡くなり南の島の兵隊さんたちは置き去りにされてしまいます。日本兵の戦死者の70%は餓死だそうです。ガナルカナル島は餓島ともいいます。輸送船は次々の沈没、海没者は戦死者の15%。
降伏の手順を早く進められなかったのはなぜでしょうね。
硫黄島が玉砕したときが潮時だったでしょうね。
大勢の無辜の人々が死にました。

狭い日本、資源のない日本、戦争したら絶対負けます。平和を模索していくより生きる道はないようです。
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貧しい時代でした (こきおばさんへ・・・)
2017-08-18 19:17:13
暗い時代でした。毎朝学校に入る前に奉安殿に最敬礼します。校長の戦争の話しを聞いてなくて廊下にずっと立たされました。
戦争が終わって先生たちが明るくなったような気がしました。たぶん先生たちも軍国教育にいやいやしていたのでしょう。
日教組の原点は「教え子を二度と戦場に送らない」・・・だそうです。後日、先生に聞きました。
戦争の終ったあとのクラスの写真を見ると、みんな綿入れの半纏がオーバー、楽しそうに笑っています。

コメントありがとうございました。
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