信州上田の・・・六文銭の写真帳
初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、さらに南へと進んできました。
中山道42番「妻籠宿」です。
復元された妻籠宿本陣です。島崎家が開宿より明治の廃宿まで勤めました。
2003年のイラストです。
☆冠木門脇に問屋場(人馬会所)が見えます・・・街道、宿の主目的は幕府、大名、朝廷の公用の道。宿には問屋場を設けて主に公用の旅、流通のための人馬の采配を行いました。妻籠宿では本陣、脇本陣に宿問屋場があり半月交替で勤めました。 島崎藤村の母の実家、明治中期に当主広助(島崎藤村の兄、馬籠宿の本陣島崎家から養子)が東京に出て、家は取り壊され、1899年御料局妻籠出張所が建てられ、営林署などで使用、町に払下げられました。1995年、島崎家所蔵の江戸時代後期の絵図面をもとに復元。
☆島崎家の系譜、島崎広助については後述。
☆島崎家の系譜、島崎広助については後述。
※撮影日は11月27日、
2003年のイラストです。
※コメント欄オープン。
山の中から得たもので賄う。
「屋根が板と石を載せて出来ている」
何故か懐かしい!!
なぜか残された板屋根が、慎ましく有り難い。
実は、わが田舎の屋根も、板屋根であったことを記憶しています。
素材は、山から得た栗の木
これを15×45CM厚さ2~3MM の、薄板作りから始まり、これを素材として屋根を葺いた。(職人さんが…)
石を載せて屋根を作った。
比企野さんも、
山出しの人ですから、石の屋根については、もっともっと理解し知っているので省きます。
此処で板屋根を見せて貰い、半世紀余backしていた屋根を見せて貰い感服です。
幼くして、ほんのチョイト、垣間見た板屋根でした。
今はトラックに積んで、アッと言う間に家を作り家の出来る迄、今の若い人たちは知らないでしょう。
コンピュウターで設計して・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
難より易し。最大の労力より最小の労力で。
・・・・・・・・・・・・・。
縄文人が古くなりました。
、
母の実家の父は瓦屋を経営したというが経営はよくなかったようで母の兄は瓦屋から手を引いたと聞く。
写真の本陣の板葺屋根は椹のへぎ板だそうです。
・板葺屋根 雀が踊る 冬の朝