信州上田の・・・六文銭の写真帳
11月10日、紅葉の軽井沢方面に・・・プチドライブ・・・
小諸方面からの国道18号線と浅間サンラインの合流地点、国道から左に分かれる旧道が・・・旧中山道追分宿跡・・・江戸時代の幕府直轄五街道の宿場、軽井沢三宿(軽井沢、沓掛、追分)の一つ。元禄期の記録によれば旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒、飯盛り女200~270人の大きな宿場だったといいいます。
東の入口の昇進橋近く、追分公園・・・です。公園内の浅間神社、芭蕉句碑を尋ねます。
浅間神社の隣に…追分宿郷土館・・・1985年開館。
追分節発祥の地の碑・・・
「碓氷峠の 権現様は わしが為には 守り神」
「浅間山さん なぜ焼けやんす 裾に三宿 持ちながら」
※追分節・・・小諸馬子唄・・・いつの世に歌われるようになったのか定かでありません。小室節とも呼ばれるこの土地の馬子たちが口ずさむ馬曳歌を飯盛り女たちが座敷唄にして、やがて宿場から宿場へと広めていったのではないかといわれます。それが中山道、北国街道と歌い継がれて、鈴鹿馬子唄、越後追分、本荘追分、南部三下り、津軽海峡を渡って松前節、江差追分」に・・・。
※撮影日は11月10日。
※コメント欄オープン。
モミジ1枚1枚の声が聞こえてくるような新鮮な紅葉でした。
黄い、紅の紅葉がひときわ輝いてとても奇麗でした。ヒキノさんの”腕”でありましょう。
▼ 宿を出で 道の分岐に 佇めば
落ち葉踏みしむ 坂を行くなり (縄)
哀調を帯びた素晴らしい歌唱であった。
追分あたりから碓氷峠を越えて馬を曳いてゆく馬子が歌ったという「追分節」が海を越えて北海道にまで流行っていたとは。
・小諸出てから浅間の女郎に
今日も口説かれ夜を明かす
、