むかしむかし・・・そのむかし・・・わたしたちが住んでいた街・・・町田市木曾。
東京都住宅供給公社境川住宅。
むかしばなしです。わたくしごとです。
東京都住宅供給公社境川住宅。
バス停すぐそばの交差点。小田急線新原町田駅(現町田駅)南口はこの道をまっすぐ4km。
当時の新原町田駅は南口は小さな出口だけ、バスターミナルのロータリーもない小さな駅前広場でした。
毎朝、バスに乗ったバス停あたり。むかしの我が家は正面左に見える18号棟にありました。
むかしの我が家の窓から・・・水道の水圧塔が見える風景。
むかしの我が家から階段を下りたあたり。自転車置き場とか駐車場。子どもたちの社交場です。
団地中央部に公設市場がありました。まだスーパーマーケットなどない時代です。
信号の左側は30クラス以上はあったと思われるマンモス小学校。
いまは校舎はそのままで町田市教育センターになっています。
当時の新原町田駅は南口は小さな出口だけ、バスターミナルのロータリーもない小さな駅前広場でした。
毎朝、バスに乗ったバス停あたり。むかしの我が家は正面左に見える18号棟にありました。
むかしの我が家の窓から・・・水道の水圧塔が見える風景。
むかしの我が家から階段を下りたあたり。自転車置き場とか駐車場。子どもたちの社交場です。
団地中央部に公設市場がありました。まだスーパーマーケットなどない時代です。
信号の左側は30クラス以上はあったと思われるマンモス小学校。
いまは校舎はそのままで町田市教育センターになっています。
草叢の中で花と遊ぶ少女。草叢の右に膝までしか深さのない境川が流れていました。
境川は東京町田市と神奈川県相模原市と境を流れる川です。
今は、川の流量も多くなり川幅も広がり高いコンクリートの護岸、フェンスに守られています。
境川は東京町田市と神奈川県相模原市と境を流れる川です。
今は、川の流量も多くなり川幅も広がり高いコンクリートの護岸、フェンスに守られています。
むかしばなしです。わたくしごとです。
やはり自分の暮らしたふるさとを訪ねるのはコソカユイようなその中にフア~ットした思い出が蘇ってくるものです。
クリック昔の思い出がひしひしと感じられました。
◎ 曲がり角 生い茂る木々 高圧線の佇まい
声掛けたいような気持ちする
私は、豊島園近くの4,5畳から始まった。
木曽住宅
私の近くにもこのような同じ年代に作った団地があり?ます。今半分壊して高層住宅に建築中です。
同じ年代に建築→白い塔屋=給水施設?
やはり全く同じ塔屋がそびえ立っています。
気候温暖、物価も安く住みやすかった。家賃は丘陵の1/3くらいだったかな。田舎のお袋が倒れて何とかせにゃと思って安い建売を買ってここを離れた。
記憶と記録・・・胸がキュンとなりますね。町田が田舎町で普通の商店街で馬肉鍋の店、焼き鳥屋などがあり、セピア色の記憶の中に甦ります。カメラはまったく安物のカメラでいい記録がありません。
いつまでもこの風景を残したいですね。
膝までしかない境川で子どもたちとよく遊びました。
子どもたちのルーツを記録に残しておきたいと思いました。
コメントありがとうございました。
記憶はいつまでもうすれませんね
あたりはまだ農家。
よく散歩しました。
誰もが思い出になる場所。思い出は大切に。
コメントありがとうございました。
追伸・・・年代間違え修正しました。
長女さん44年生まれだと私と忠生第四小学校で同級生だったかもしれませんね。
その向こうは武蔵野の雑木林。
1944年生まれの娘が,団地内の幼稚園を卒園間際に、ここを後にしました。
結婚、新しい家族を持って、一生懸命働いていた時期です。
アーカイブという言葉がありますが、まさにそれです。
写真の使用はご自由です。
コメントありがとうございました。
つい先日、「境川団地 昔の写真」で検索したら、こちらのページにたどり着くことができました。
セピア色の写真、時期は少し前のはずですが、まるで自分の記憶の一部のようで、思い出を形にして頂いたように思えました。ありがとうございました。
他のブログも読ませて頂きます。これからもお元気でお過ごし下さい。