今から73年前、太平洋戦争の終盤、沖縄では4月1日の米軍上陸進攻にはじまり壮烈な地上戦が繰り広げられ6月22日沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将が自決し翌23日日本軍の組織的な戦争は終ったといわれています。全日本軍にどれだけ通達できたかは不明(通信機能は壊滅していた?)で局地的に連合国の降伏勧告に応じず抵抗を続ける日本軍がいました。これが6月23日以降も沖縄住民の死者を拡大します。最終的には久米島の防衛軍20名が9月7日に投降。
沖縄戦の事実上の終戦日は連合軍の勧告を受け入れ宮古島、奄美大島の軍部最高責任者が9月7日嘉手納飛行場で降伏調印式に出頭した日になります。8月15日の天皇の敗戦の詔勅より遅れること20日余です。
1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。
※カテゴリー」「語り継ぐ責任 沖縄のこと」いつのまにか50編になりました。読んでほしい。
2014年6月27日のブログ・・・「命どう宝って言葉があるでしょ」・・・「いまから69年前・・・沖縄の戦場で・・・・「生きろ」とメッセージを送り続けた沖縄県知事島田叡」
2014年6月13日のブログ・・・沖縄県民の未来を願った・・・「69年前の沖縄・・・海軍司令官大田実の打った電文・・・沖縄県民 斯く戦えり」
2013年6月23日のブログ・・・「どうか生き永らえてください」」・・「6月23日・・・沖縄慰霊の日に・・・沖縄最後の県知事島田叡のこと」
2012年11月10日のブログ・・・嵐世になっても 忘るなよ互いに またも巡り合う 命どぅ宝・・・「沖縄戦を生き抜いた子どもたち・・・かんからさんしん…を読んだ」
2009年9月20日のブログ・・・「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命なんだよ」・・・・・・「命どぅ宝・・・白旗の少女」
沖縄戦の事実上の終戦日は連合軍の勧告を受け入れ宮古島、奄美大島の軍部最高責任者が9月7日嘉手納飛行場で降伏調印式に出頭した日になります。8月15日の天皇の敗戦の詔勅より遅れること20日余です。
※沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19万人(うち沖縄県人12万人、米軍側1万数千人。
※沖縄県人の犠牲者はこれを上回るといわれます。ちなみに当時の沖縄県人の人口は43~44万人と推定されている。
※沖縄県人の犠牲者はこれを上回るといわれます。ちなみに当時の沖縄県人の人口は43~44万人と推定されている。
1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。
・・・黙祷・・・
沖縄は空も海も山も人も美しい。
沖縄の言葉(うちな~ぐち)で
「いちゃりば・ちょ~で~」(行逢りば兄弟・・・出逢えば兄弟)という言い伝えがあります。
この言葉がどういうことか考えてほしい。
沖縄は空も海も山も人も美しい。
沖縄の言葉(うちな~ぐち)で
「いちゃりば・ちょ~で~」(行逢りば兄弟・・・出逢えば兄弟)という言い伝えがあります。
この言葉がどういうことか考えてほしい。
※カテゴリー」「語り継ぐ責任 沖縄のこと」いつのまにか50編になりました。読んでほしい。
2014年6月27日のブログ・・・「命どう宝って言葉があるでしょ」・・・「いまから69年前・・・沖縄の戦場で・・・・「生きろ」とメッセージを送り続けた沖縄県知事島田叡」
2014年6月13日のブログ・・・沖縄県民の未来を願った・・・「69年前の沖縄・・・海軍司令官大田実の打った電文・・・沖縄県民 斯く戦えり」
2013年6月23日のブログ・・・「どうか生き永らえてください」」・・「6月23日・・・沖縄慰霊の日に・・・沖縄最後の県知事島田叡のこと」
2012年11月10日のブログ・・・嵐世になっても 忘るなよ互いに またも巡り合う 命どぅ宝・・・「沖縄戦を生き抜いた子どもたち・・・かんからさんしん…を読んだ」
2009年9月20日のブログ・・・「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命なんだよ」・・・・・・「命どぅ宝・・・白旗の少女」
《参考》6月21日A紙夕刊1面記事より・・・読んでほしい。
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