比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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比企の里の歴史街道・・・鎌倉街道上つ道・・・笛吹峠から木曽義仲ゆかりの大蔵へ

2016-07-15 | 古墳・遺跡・石塔婆
7月11日、友だち夫妻を誘って嵐山町の中世の城址、菅谷館跡公園にヤマユリの花を見に行きました。
鳩山から嵐山への道は・・・鎌倉街道上ツ道・・・途中の山道は笛吹峠・・・木曽義仲ゆかりの大蔵・・・畠山重忠ゆかりの菅谷
平治物語」「太平記」などで語られている中世の歴史街道です。

1333年、上野国新田庄で討幕の旗を挙げた新田義貞が鎌倉目指して進軍したのがこの鎌倉街道上ツ道。みごとに鎌倉幕府壊滅の立役者に。
1338年、その義貞も政争に敗れて足利尊氏に滅ぼされます。
1352年、復権を目指して新田義貞の遺児義興、義宗らが足利尊氏の軍勢と闘った場が 笛吹峠。そのときの新田軍の総大将が後醍醐天皇の皇子宗良親王。宗良親王は敗色濃厚な峠の上で笛を吹いたと伝えられ、のちの時代に笛吹峠と呼ばれるようになったとか。
古い話なので定かではありません。

笛吹峠を北に下ると嵐山町大蔵。新平家物語でお馴染みの朝日将軍木曽義仲の生誕地。
源義仲の父義賢(よしかた)はここ大蔵に居を構え北武蔵、西上州を抑えた源氏の侍大将。義賢の兄は源義朝、その長子が義平、次子が頼朝
1155年、義賢は義朝の長子悪源太義平の軍勢に襲われて(大蔵合戦)討死。義仲は斉藤別当実盛、畠山重盛らに助けられ信州木曽に逃れます。

笛吹峠を下り大蔵交差点のあたり、源義賢の廟所。
帯刀先生・・・天皇の親王・東宮の護衛官の長のこと。義賢の旧官職名。

農道から30mばかり入った畑の中に。鉄柵で守られた覆堂。

五輪塔・・・上から・・・空・風・火・水・地・・・なんですが2番目のが見えません・・・欠損?

様式から見て埼玉県で最古といわれていますが、いつのものか不明です。
義賢ゆかりの人が供養塔として建立したものと思われます。

どうでもいい薀蓄》源義賢は兄の義朝の差し向けた甥の悪源太葦平に殺されますが、その義朝、義平は平清盛に滅ぼされ、その平清盛は源義賢の子義仲に都を追われ、義仲は義朝の子の範頼、義経に滅ぼされ、その範頼、義経は兄の頼朝に滅ぼされ、頼朝の子たちは頼朝の正室の政子の実父であり後ろ盾であった北条一族に抹殺されます。その北条一族も源氏の新田、足利に滅ぼされ、新田は足利に滅ぼされ・・・。親子、兄弟、縁戚、姻戚、同族の殺し合いが中世の歴史です。

※関連・・・→クリック旭将軍木曽義仲の里・・・班渓寺」(2008年2月12日ブログ)


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2 コメント

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笛吹峠 (押田庄次郎)
2016-07-21 23:30:41
笛吹峠は二度訪れました。
名前に惹かれたのですが、ほとんど何もないところですね。
苦林も笛吹峠も、古戦場はそんなものなのかもしれません。
宗良親王の笛の故実が気になって、実は”李花集”などの和歌を調べたのですが、
笛のことはどこにも出てきませんでした。
地名に残るのは、何らかの因縁があるのは確かだろうと思うので、、
さしずめ、宗良親王の取り巻き衆に笛の名手がいたのかもしれません。
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笛吹峠 (押田庄次郎さんへ・・・ヒキノ)
2016-07-22 17:17:19
よく通る道です。前後は雰囲気があっていいのですが、峠の上が行けませんね。大きなトイレ、駐車場、外回りサラリーマンの休憩所になっています。トイレを目立たないところに設置すればよかったのに。町指定史跡ですが雰囲気ぶっ壊しです。鎌倉街道を横断する道・・・巡礼道は人道で雰囲気あります。
苦林はまったく住宅地になってしまいました。
笛吹峠・・・後世の博識家が作った宗良親王ロマンでしょうね。日本武尊伝説、弘法伝説と同じようなものです。
大蔵館跡、鎌形八幡神社、班渓寺のほうがいいですかね。

コメントありがとうございました。

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