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NHK BSプレミアムで7月19日(月)より毎週夜9時から山崎豊子原作の日中共同制作スペシャルドラマ「大地の子」(全11回)が再放送されます☞クリック
初回は1996年3月11日~3月は20日、NHK総合「ドラマ・スペシャル」にて放送。
初回放送は今から25年前になります。山崎豊子が「大地の子」「戦争孤児」と呼んだ、あの戦争で中国に置き去りになった子どもたちはもう80~90歳、遙か遠くになりましたが、戦争とは何か、植民とは何か、人間愛とは何か・・・をメッセージとして残してくれました。
今いちどこのドラマを見てみたい。
2006年からはじめたブログ、その初めのころのブログをもう一回読み返しています。
以下は2006年8月に掲載したブログ・・・「満蒙開拓団の崩壊のあとに・・・曠野の墓銘碑」・・・からです。
わたしの本棚から。
山崎豊子「大地の子」(文藝春秋1991初版)
井出孫六「終わりなき旅」(岩波書店1986初版)
いずれも初版のとき買ったものです。
「終わりなき旅」は雑誌「世界」1985/6初出、「大地の子」は雑誌「文藝春秋」1987/5初出となっています。
「終わりなき旅」からの抜粋です。
『後世に伝う血涙の記録―満州泰阜村分村』
という記録が紹介されています。その中の奥瀬くに子さんの「曠野の墓碑銘」の一節です。
話は奥瀬さんのお姉さん篠田ウメヨさんの三男欽三少年(15歳)が敗戦直後の満州の逃避行の中で襲撃を受け(そのとき日本刀を持っていたのが仇になった?)重傷を負って死んでゆく状況を記しています。
夜は涼しいが、日中は暑かった。馬車の上に寝かせれているのが暑いのか、頭が異常に暑かったのか?
「お母ちゃ。ここは暑くてしょうがないから、もっと涼しい綺麗なざしきに連れて行ってよ・・・」
欽三は、切なげに姉に訴えていた。一かけらの氷どころか、タオルで頭を冷やしてやることもできなかった状況の中で・・・姉は欽三との別れの時が近づいているのを知った。
「欽三・・・お母ちゃのお乳にさわって見て・・・」
「お母ちゃ、なんだか・・・はずかしいな」
はにかみの笑い顔を見せた欽三であったが、おそらく欽三が母に向けた最後の笑顔であったと思う。
流れもゆるやかな綺麗な川のほとりで息を引きとった少年は、彼のことばに従って、祖母と母親の手で屍は水葬にふされます。欽三少年の家族七人のなかで日本の土を踏めたのは少年の兄欽次さんと母親の妹くに子さん二人だけのようです。
お母ちゃの行動は、性的な匂いさえします。まさに「たらちねの母」です。極限の状況のなかで死にゆく十五歳のわが子に対し、してやれた母の最後にして最大の愛の行為だったのか。
はにかむ少年の最後の笑顔。「たらちね」は男子一生の憧憬です。
★泰阜村・・・長野県下伊那郡泰阜村。静岡、愛知県に近い南信州、天竜川の左岸。河岸段丘の上の美しい村落です。
★お母ちゃ・・・伊那地方の方言です。「お母ちゃん」ではありません。「お父ちゃ」「お婆ちゃ」とつかいます。「ん」をつけないのです。身内でもそうでない近所の人もマッタクの他人もつかいます。「やすおちゃん」は「やっちゃ」「やすおさ」といいます。
NHK BSプレミアムで7月19日(月)より毎週夜9時から山崎豊子原作の日中共同制作スペシャルドラマ「大地の子」(全11回)が再放送されます☞クリック
初回は1996年3月11日~3月は20日、NHK総合「ドラマ・スペシャル」にて放送。
初回放送は今から25年前になります。山崎豊子が「大地の子」「戦争孤児」と呼んだ、あの戦争で中国に置き去りになった子どもたちはもう80~90歳、遙か遠くになりましたが、戦争とは何か、植民とは何か、人間愛とは何か・・・をメッセージとして残してくれました。
今いちどこのドラマを見てみたい。
2006年からはじめたブログ、その初めのころのブログをもう一回読み返しています。
以下は2006年8月に掲載したブログ・・・「満蒙開拓団の崩壊のあとに・・・曠野の墓銘碑」・・・からです。
わたしの本棚から。
山崎豊子「大地の子」(文藝春秋1991初版)
井出孫六「終わりなき旅」(岩波書店1986初版)
いずれも初版のとき買ったものです。
「終わりなき旅」は雑誌「世界」1985/6初出、「大地の子」は雑誌「文藝春秋」1987/5初出となっています。
「終わりなき旅」からの抜粋です。
『後世に伝う血涙の記録―満州泰阜村分村』
という記録が紹介されています。その中の奥瀬くに子さんの「曠野の墓碑銘」の一節です。
話は奥瀬さんのお姉さん篠田ウメヨさんの三男欽三少年(15歳)が敗戦直後の満州の逃避行の中で襲撃を受け(そのとき日本刀を持っていたのが仇になった?)重傷を負って死んでゆく状況を記しています。
夜は涼しいが、日中は暑かった。馬車の上に寝かせれているのが暑いのか、頭が異常に暑かったのか?
「お母ちゃ。ここは暑くてしょうがないから、もっと涼しい綺麗なざしきに連れて行ってよ・・・」
欽三は、切なげに姉に訴えていた。一かけらの氷どころか、タオルで頭を冷やしてやることもできなかった状況の中で・・・姉は欽三との別れの時が近づいているのを知った。
「欽三・・・お母ちゃのお乳にさわって見て・・・」
「お母ちゃ、なんだか・・・はずかしいな」
はにかみの笑い顔を見せた欽三であったが、おそらく欽三が母に向けた最後の笑顔であったと思う。
流れもゆるやかな綺麗な川のほとりで息を引きとった少年は、彼のことばに従って、祖母と母親の手で屍は水葬にふされます。欽三少年の家族七人のなかで日本の土を踏めたのは少年の兄欽次さんと母親の妹くに子さん二人だけのようです。
お母ちゃの行動は、性的な匂いさえします。まさに「たらちねの母」です。極限の状況のなかで死にゆく十五歳のわが子に対し、してやれた母の最後にして最大の愛の行為だったのか。
はにかむ少年の最後の笑顔。「たらちね」は男子一生の憧憬です。
★泰阜村・・・長野県下伊那郡泰阜村。静岡、愛知県に近い南信州、天竜川の左岸。河岸段丘の上の美しい村落です。
★お母ちゃ・・・伊那地方の方言です。「お母ちゃん」ではありません。「お父ちゃ」「お婆ちゃ」とつかいます。「ん」をつけないのです。身内でもそうでない近所の人もマッタクの他人もつかいます。「やすおちゃん」は「やっちゃ」「やすおさ」といいます。
※コメント欄オープン。
もしかしたら残留孤児になっていたかも・・・
そんな体験を持つ私は、ヒキノ様を見習って自身の体験を語りつがなくては!と拝見するたびに気持ちを新たにしています。
どうかこれからも発信し続けてください。素晴らしい平和運動だと思います。
その昔、高島屋にて山崎豊子展で買い求めた本。
「大地の子」の取材で山崎さんからひと言、
私は今までにあれこれと沢山の取材をしてきましたが、
泣きながら取材をしたのは初めてです・・・・・。
「大地の子」だけは、天命に誓って、命がけで取材し文章をつづりました。
・・・・「残留孤児」と呼ぶな
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「大地の子」の執筆裏話し、中国当局に許可され中国の貧困な農家にホームステイ、トイレは星空で。
物語りはフィクションですが、何千人の大地の子がいたことを、小説で発信しました。
戦争を知らない世代に伝えて逝きたい話です。
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私も「大地の子」上・中・下を購入てあります。
以前、放映の時はタオルでは涙が吹ききれずにバスタオルを抱いてみておりました。
不朽の名作などの言葉では綴れ切れない作品ですね。
こんなに悲しい出来事があった事実もいつかは忘れ去られることでしょう。
日本に住むことができました幸せを教えて頂きましたドラマでした。
有り難うございました。
こきおばさんのように、リアルに満州で現実を見た人に語ってもらいたい…そんな気持ちです。
コメントありがとうございました。
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76年間も戦争の無かった時代に生きた人に、これからの日本で生きてゆく人に、平和の尊さを再認識してもらいたい。
時間があったら満蒙開拓団のことを書いた39編のブログ読んでみてください。
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/c/1ccb181c031fa7e5985d76ce64b1ba28
コメントありがとうございました。
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