、、、、と、私たちも、若い頃には、よく、言われたものである。戦争も知らずに、、、、、髪を伸ばして、、、、ヒッピーだ、ドロップ・アウトだ、と勝手気儘に、好き勝手して、、、、、今の若者は、、、、と、謂われたものであるが、その謂われていた側が、今や、謂う立場に、なろうとは、、、、、、。後期高齢者ならぬ、前期高齢者か、或いは、後期熟年が、同じく、前期20代や、前期30代や、後期30代を、指して、近頃の若者は、、、、と論じ始める。いつの時代も変わらぬ不毛な若者論や、世代論で、結局、その属するところの世代や、それが、ひいては、明治生まれの人達は、とか、大正生まれの人達の人は、、、、等の十把一絡げの議論で、「個人の主体性」や、「人格の確立」に至る過程は、論じられることはない。せいぜい、ロスト・ジェネレーションとか、一つや二つの大きな社会的なエポックが、引用される程度で、終わってしまうものである。生まれた時が悪かったとか、遅れてきた青年達が、やがて、世代間格差の中に消え去ってしまうのか、若者も、年寄りも、金持ちも貧乏人も、ひとえに、絶対的に、「万人に平等」なのは、「時間」という生まれ落ちてきたときから、そのDNAに刻印された、細胞死滅へと向かうただ一つの因子だけである。幕末でも、太平洋戦争中でも、いつの時代でも、大変さは、多かれ少なかれ、大変だったであろうし、これからも、決して、変わることはないであろう。やがて、前期高齢者へ、そして、後期高齢者へと、ところてん式に、時間軸の中で、押し出されてゆく訳であるから、「近頃の年寄りは、、、、、」と、謂われないように、しっかりしなければならない。まずは、しっかりと、人生を歩くことを、、、、。もっとも、その前に、まずは、しっかりと、肉体的に、歩くことが出来ないと、、、、、(?)。