毎年、桜を、色々な場所で、微妙な開花する時間の違いにより、愉しむのを習慣にしているが、今年は、色々なことが、気に懸かった。というのも、一方で、大道寺将嗣の全句集、「棺一基」を、読みながら、他方で、この分厚い本を併読していたからだろうか、なかなか、時間が掛かかり、捗らない。俳句の中で、謳われている様々な情景は、記憶が、ますます、先鋭に、甦りながら、忘却ではなくて、逆に、どろどろとしたものが、クリアに結晶化してゆくところの果てのものなのであろうか?それとも、「美しい”花“がある。”花“の美しさというようなものはない。」、「美しい美がある、美の美しさをあれこれ言うことに意味は無い。」、、、、、、。という小林秀雄の言葉が、ふと、突然、こみ上げてきては、心に棘のようにささり、思い悩むからなのだろうか。同時併読する中で、色々なものが、少しづつ、見えてきたような気がする。纏めてみることにしよう。飽くまでも、それは、「桜」を主題として、読み解いてみた自分の勝手な解釈であるが、、、、、、。すると、桜を観ながら、或いは、散る桜の花弁を観ながら、「美しいと想うことと感じること」は、全く、別のことなのであろうか?「もののあはれ」が、心の感ずる様であれば、、、、、どうも、まとまりが付かない。「道」とは何か、茶の道、茶道、或いは、生け花の華の道、華道とは、何なのか?そもそも、道とは何か? 今度は、世阿弥の言う”花“とは、何か?と次々に、果てしなく、考え始めてしまう、、、、、、、。本居宣長の歌、西行の歌、兼好法師の歌、芭蕉の俳句、そんな文脈の中で、時代が必要とした小林秀雄なるものを、橋本治の解説と手助けを受けて、追ってみることにしよう。
これまでに、どうしても、気に懸かっていた「桜」にまつわる二つの和歌であるが、、、、、何故、「散華」や、「道」なるものに、又、「日本浪漫派の系譜」の中に、昇華したり、収斂されてしまったのか、そして、「今日的な不安」や、漠然とした「行く末への不確定さ」、更には、来たるべきEUの信用不安に端を発する可能性のある「世界恐慌への懸念」が、再び、「過去と同じ道」に辿りつかないようにするとしたら、どう解釈したら良いのだろうか? そして、大道寺の「棺一基」俳句に見られる数多くの対象は、これらの文脈の中で、どのように、解釈、読み直したら良いのだろうか?、、、、、、、等…と、
「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくらかな」
「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
「美しい”花“がある。”花“の美しさというようなものはない。」、「美しい美がある、美の美しさをあれこれ言うことに意味は無い。」、、、、、、。すると、今度は、世阿弥の言う”花“とは、何か?と、、、、、、、。
世阿弥が到達した“美の達成基準“としての花、彼の到達した、或いは、目標とした美の達成基準、
「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところをば知るべし、」と、経験を十分以上に積んで工夫を怠ることなければ、「花」は、消えない。自分の演じたことに、花は宿っていたか? 世阿弥という詩魂は、問いかける。
小林秀雄は、当麻(たいま)という能にみる美しい「花」という美、美の圧倒とその襲撃に、初めて、驚愕とする、学問というものは、現世から孤立するような形で存在していたと、
近世と言う時代が、根本のところで、学問の必要を理解していなかったからであると。必要としないから弾圧もしない、そういう調和状態の中で、近世の学問は、現実の社会体制とは関わらない、個の内面のものになった。、、、、、、、、、、だから、近世の学問は、近代の思想を生み出さない。、、、、、国学は、倒幕思想にはなったが、近代の思想には、進まなかったと。吉田松陰の思想は、何故、当時の若者の若者を突き動かしたのか?何故、弾圧されなければならない思想の危険性が、底にあったのか?
無視される思想や孤立する思想が、生まれるし、思想の弾圧が起こる。近代は、思想の自由とともに、やってくるはずであると。この辺になると、どうしても、団塊の世代、全共闘世代には、戦後民主主義と、直接行動との狭間に、葛藤した経験から、未だに、考えさせられてしまうものがある。
学問というものは、現世から孤立するような形で存在していたと。本居宣長の「関わらない」ということは、大きな意味を持つ、小林秀雄も、日本浪漫派同様に、あの時局に同じように関わらなかったのか?、昭和17年の立ち位置との関係で、橋本は、読み解こうとする。
宣長は、賀茂真淵の言を受け容れたのではなくて、「聞き流した」のであると。肝心なことに関しては、論争をしない、沈黙を守る。孤立を、その初めから、当然のこととしていると、
小林の「無常ということ」は、戦後、1946年に出版された、6篇(当麻、無常ということ、平家物語、徒然草、西行、実朝)からなるものであるが、実は、1942-43年に、発表されたものである。当時、日本の古典に、傾注する作家が多くいたという事実は、何を意味するのであろうか、小林の講話も、情況に従おうとする微妙さ、好戦・反戦・厭戦が、微妙に入り混じっている。のらりくらりしていると、戦争情況に対して、他人事・知らん顔・のらりくらりを演じている時期、怒りを鎮めるのは、諦念であるのか、醒めた冷静さでもある。誰からも理解されないまま「安全であるという不幸」であると、敗戦後の日本人の虚脱感という心性とよく重なる。歴史=古典に学べという明確な方向性ではないが、答の欲しい日本人には、解がたやすく求められるのであったのか、戦後の日本人に向けてという発想は、ここにはないと。「歴史は、びくともしない、歴史は、いよいよ、美しく感じられた」と、収斂してしまう。ここの部分だけでも、本が出来上がってしまうかも知れないが、先を急ごう!
悲しいことに対して、勿体をつけて悲しいと言う、そんなことに何の意味があるのか、かなしいことは、ただ、悲しいのであると、「平家物語」から、「徒然草」へと、向かうことになる。
「徒然草」は、途中に、時の進展による断絶を考えれば、同一人物ではないと矛盾することはないと、徒然なるままに、日暮し、硯に向かひて、、、、で、文章を始めた人が、怪しふこそ、物狂おしけれになってしまうという矛盾。「徒然わぶる人は、如何なる心あらむ」、「紛るる方なく、唯独り在るのみにこそよけれ」、と言ってしまう「矛盾」を確かに、説明知れないかも知れない。
「物が見え過ぎる眼を如何にして御したらいいか、」の結果としての兼行の文体、「鈍刀」を柄って彫られた名作と称する小林の言うところに対して、徒然草の作者は、最初は、「もっと、鋭い刀」を欲しがっていたが、その後、もう、鋭い刀を求めていない。鈍刀かも知れないが、「それで良し」としていると。
小林が、求めた物は、思想ではなくて、その「人の在り方」、とりわけ、自分と関わりを持ちうる自分に近い人の在り方である。徒然草という作品ではなくて、それを書いた兼行という作家こそが、より大事であると、
そして、「西行」へ、「芭蕉」へ、と続く。
「もののあはれは人の情(ココロ)の、ことに触れて感(ウゴ)くこと、」であり、小林の如く、「知ること」と「感ずること」を、一度、分化された結果、「全的な認識」という統合概念を求めるという発達ではないと、「情とは、感ずることなのか、それとも、知ることなのか?」というものではない。そこから、普通は、情という集合要素であるが、欲⊂情であるとするが、宣長は、逆に、情⊂欲とする。 「情(ココロ)は、欲の上位概念」であり、あればこそ、もののあはれを知るという道もあると、この道は、上位概念に続く登り階段であると。
「近世」という時代は、神という非合理などとは言わないと、「非合理かも知れない神を一方に存在させて、そののこりを合理性で仕切るという時代である」。神という非合理の支配下にあれば、中世だが、近世という時代は、神をそのままの位置に安置し、距離を置いて隔離する、だから、支配されないのであると、調和的なのであると。
ありかたとしては、根本のところで神という非合理とは相容れない合理性の魂であったとしても、近世の人は、神と調和的であり、合理的だったのであると。「神と調和的になっている合理性」なのである。近世という時代とは、そういう時代であると、
「仏教」は、佐藤義清という北面の武士が、西行となってその後の人生を歩き出すための「門口」なのである。仏教というものは、そもそも、己を見詰める者の前に立ちはだからないものであり、それをしたい者に、それをするための「立ち位置付けを用意する」のが、仏教の本来でもある。思索をする者にとって、「同伴者」とはなっても、決して、導いたりはしない、至って寛大なのであると、
「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
西行のこの歌に詠まれた「ゴール」は、何を表すのか?
彼の「孤独」は、いたって近代的である。ほとんど、導き手である神を失ってしまった個の孤独で、西洋近代的な人の孤独であると、西行には、「神=空白」と言う形で、個である人と対応する存在としての神というものが存在しない中世の日本で、存在しうるのであると、こうした西洋的な神が、空白として何故、日本に存在し得たのか?既に、西行には、近代が、心の裡で、独り耐えていたものがあったのであるという形で、実現されてしまっていた。小林の言うように、西行の旅は、一筋という道ではなくて、「道のないところを彷徨うような旅」だったのではないかと、
「仏という同伴者」の下、ゴールに導く神の手ではなく、真の恋人という概念が存在しない世界で、昔の人は、どのように生きてきたかという、その救済を暗示するのが、そのゴールとした西行の桜の歌なのであると、
又、宣長の謳うところの
「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくらかな」
この歌も私的な墓の方に、山桜の樹を植えて、命日には、肖像画の掛け軸を掛けろという、
「あなたの根本を成り立たせているものは何ですかと、人に問われたら、私は、朝日に輝く山桜と言う」という歌である。「学問の根本に存在する信条」を表すものであると。「自分の中核に位置するもの」と「恋の対象になる彼」との「ふたつの性格」が、桜には、あると、
全てのものは、「桜=我」によそえられるものではない。重要なのは、よそえられるものを発見し、そこに、我なり、彼を、「重ね合わせること」であると、西行は、12世紀の段階で、我を詠むことに生涯を費やし、宣長のように、憑かれたように、桜への恋を読み続けたことであると、そのようなことを可能にする主題である対象の代表格が、「日本人にとっての桜」であり、桜を使って、「自分であること」を表していたと。
「日本人にとっての桜」は、西洋人の神に近似しているが、神ではない。重要なのは、そこに代人がおこりうる「空白」を、昔の日本人が持っていたということを、「発見してしまった」ということ。
あるとき、ひとりの日本人が「自分に応えてくれるものは何もないということ」を「発見してしまった」ことである。それが、西行であると、
近代的に言えば、西行は、自分の中に、「我=自意識」を発見してしまったということになるかも知れないが、「実は、逆ではないか」と、西行は、「自分の外に、自分に応えてくれるものが何もないこと」を発見してしまった。自己より先に、空白を発見し、それを埋めなければならず、自分とか、自己とか言われるものを成長させて行かねばならなかったと、導き手がないところで、自分を成長させる苦しさ、孤独、こうした「見つめる自己」と「見つめられる自己」の両方を誕生させたと。
神なるものに何とかしてもらうことは、怠惰なことであり、自助努力の日本人は、自分の前に、空白があるなどという考え方をしないし、自分の在り方に置き換えて、自分は、まだまだ、未熟で、至らないと考える。その不安を、そういうものだと是認するのが、至らなさを表現して切なさを出現させてしまった西行であると、続く。
日本人は、空白を埋めるのではなく、空白を作り出すことを当然のこととすると。「自分の居場所のなさ」という空白、生活の為の居場所の無さでは無くて、どう生きて行けば良いのか、どう生きていきたいのかが分からないという「精神的な居場所の無さ」である。「居場所がない=孤独」を感じ続けて、自意識が彼の最大の煩悩といわれるようにもなる。だから、ゴールとなるのは、もう居場所を探さなくてもよいという「安らぎ」になり、「桜」の歌になるのであると、
ここから、西行と芭蕉との思想軸の相違点、へと続く、
芭蕉の「風雅」という強い思想は、己を空しくしてが、前提になっているが、西行は違い、自然の姿が、友ではなく、自分になって現れてくる。西行は、己を空しくしてではなくて、己を空しくされて、その結果、佐藤義清は、西行となったのではないかと、これに対して、芭蕉は、いきなり、「己を空しくして、自然を見る」。それも客観主義ではなくて、主観主義に近いもので、強い思想で、「自分を全く、問題にしないでいられる」ということ、弱い態度でも、消極的な態度でもなく、己を空しくして自然を見る。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
蛙の水に飛び込む音で、私が、驚いたのでもないし、水の音を聞いてはいるのであるが、ただ、「水の音があること」、ただ、それだけであると、水の音が聞こえるのではない、人の耳に聞こえようと聞こえまいと、人が聞こうと聞くまいと、そんなことは無関係に、「その水の音はある」のであると解釈する。この水の音を神に置き換えれば、己を空しくして自然を余程観察すると、「水の音は、神になる」のであると、「最上川」も、「夢の跡」として存在する「夏草」も、「神」なのであると
「秋深し 隣は何を する人ぞ」、も、何をする人ぞと思っているかどうかは、関係なく、「それを思う人の「心」こそが、神」であり、この句に透徹していると、まるで、小津安二郎の映画のようであると、そんな「芭蕉の強さ」は、日本人には、「至って当たり前のもの」としか、映らないものなのである。
宣長は、「あはれということを心の中の一つにしていふは、とりわけていふ末のことなり。その本をいへば、すべて情(ココロ)の、こころにふれて感(うご)くは、みなあはれなり」。宣長には、末は、どうでもよい、「末を捨てて、本を目指す」。そうして、「漢(から)意(こころ)」を、外来思想と排除すべく、古事記へと向かう。そして、時代の趨勢は、反漢意から、尊皇攘夷へ、忠君愛国へ、いつの間にか、廃仏毀釈から、神道信仰へと、進す。
「道」という概念論に入る。神の道とは、古道とは何か、古代以外には、道という概念はない。路であって、通路であるのではないか。それが、神道、武士道、華道、茶道、等に、どうして、使われてしまうのか、そのままの状態を示す道が、文化的、政治的に、変質していったのか?それとも、今でも、それは、何らかの形で、生き延びているのか?
それにつけても、現代とか、近代とか、近世とか、我々は、いかにも、思想的に、発展・進化を遂げてきたように、時系列的に、誤解しがちであるが、芸術の世界でも、絵画や音楽でも、その昔に、現代でも、驚愕するような技術が、突然変異のように、現れていた事実が、幾つもある。タイム・スリップでもして、逆に、現代の我々をどう思うかを尋ねてみたいものである。我々は、中世や近世をかように、理解しようとしているが、果たして、当人は、どんな所見をお持ちかと、、、、、。少々長くなってしまったので、「棺一基」の方は、又の機会に再考察してみたいと思う。学生時代に読んだ、橋川文三の「日本浪漫派批判序説」をも、もう一度、読み返してみるか?橋本は、終章で、小林が設定したトンネルが、何処に抜けるのかは分からないが、その「何処に抜けるか」は、トンネルを抜ける読者に委ねられ、「読み手の在り方を問題にする」本であるとし、それが、日本に於ける思想の在り方なのであると、結んでいる。そして、それは、是非、読者に、古典を前にして、次の時代を受け継ぐ人達は、「それを体験」して貰い、次の時代に向けて、新しいトンネルを掘り続けることでもあると、希望していると、、、、、、、、、、。
これまでに、どうしても、気に懸かっていた「桜」にまつわる二つの和歌であるが、、、、、何故、「散華」や、「道」なるものに、又、「日本浪漫派の系譜」の中に、昇華したり、収斂されてしまったのか、そして、「今日的な不安」や、漠然とした「行く末への不確定さ」、更には、来たるべきEUの信用不安に端を発する可能性のある「世界恐慌への懸念」が、再び、「過去と同じ道」に辿りつかないようにするとしたら、どう解釈したら良いのだろうか? そして、大道寺の「棺一基」俳句に見られる数多くの対象は、これらの文脈の中で、どのように、解釈、読み直したら良いのだろうか?、、、、、、、等…と、
「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくらかな」
「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
「美しい”花“がある。”花“の美しさというようなものはない。」、「美しい美がある、美の美しさをあれこれ言うことに意味は無い。」、、、、、、。すると、今度は、世阿弥の言う”花“とは、何か?と、、、、、、、。
世阿弥が到達した“美の達成基準“としての花、彼の到達した、或いは、目標とした美の達成基準、
「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところをば知るべし、」と、経験を十分以上に積んで工夫を怠ることなければ、「花」は、消えない。自分の演じたことに、花は宿っていたか? 世阿弥という詩魂は、問いかける。
小林秀雄は、当麻(たいま)という能にみる美しい「花」という美、美の圧倒とその襲撃に、初めて、驚愕とする、学問というものは、現世から孤立するような形で存在していたと、
近世と言う時代が、根本のところで、学問の必要を理解していなかったからであると。必要としないから弾圧もしない、そういう調和状態の中で、近世の学問は、現実の社会体制とは関わらない、個の内面のものになった。、、、、、、、、、、だから、近世の学問は、近代の思想を生み出さない。、、、、、国学は、倒幕思想にはなったが、近代の思想には、進まなかったと。吉田松陰の思想は、何故、当時の若者の若者を突き動かしたのか?何故、弾圧されなければならない思想の危険性が、底にあったのか?
無視される思想や孤立する思想が、生まれるし、思想の弾圧が起こる。近代は、思想の自由とともに、やってくるはずであると。この辺になると、どうしても、団塊の世代、全共闘世代には、戦後民主主義と、直接行動との狭間に、葛藤した経験から、未だに、考えさせられてしまうものがある。
学問というものは、現世から孤立するような形で存在していたと。本居宣長の「関わらない」ということは、大きな意味を持つ、小林秀雄も、日本浪漫派同様に、あの時局に同じように関わらなかったのか?、昭和17年の立ち位置との関係で、橋本は、読み解こうとする。
宣長は、賀茂真淵の言を受け容れたのではなくて、「聞き流した」のであると。肝心なことに関しては、論争をしない、沈黙を守る。孤立を、その初めから、当然のこととしていると、
小林の「無常ということ」は、戦後、1946年に出版された、6篇(当麻、無常ということ、平家物語、徒然草、西行、実朝)からなるものであるが、実は、1942-43年に、発表されたものである。当時、日本の古典に、傾注する作家が多くいたという事実は、何を意味するのであろうか、小林の講話も、情況に従おうとする微妙さ、好戦・反戦・厭戦が、微妙に入り混じっている。のらりくらりしていると、戦争情況に対して、他人事・知らん顔・のらりくらりを演じている時期、怒りを鎮めるのは、諦念であるのか、醒めた冷静さでもある。誰からも理解されないまま「安全であるという不幸」であると、敗戦後の日本人の虚脱感という心性とよく重なる。歴史=古典に学べという明確な方向性ではないが、答の欲しい日本人には、解がたやすく求められるのであったのか、戦後の日本人に向けてという発想は、ここにはないと。「歴史は、びくともしない、歴史は、いよいよ、美しく感じられた」と、収斂してしまう。ここの部分だけでも、本が出来上がってしまうかも知れないが、先を急ごう!
悲しいことに対して、勿体をつけて悲しいと言う、そんなことに何の意味があるのか、かなしいことは、ただ、悲しいのであると、「平家物語」から、「徒然草」へと、向かうことになる。
「徒然草」は、途中に、時の進展による断絶を考えれば、同一人物ではないと矛盾することはないと、徒然なるままに、日暮し、硯に向かひて、、、、で、文章を始めた人が、怪しふこそ、物狂おしけれになってしまうという矛盾。「徒然わぶる人は、如何なる心あらむ」、「紛るる方なく、唯独り在るのみにこそよけれ」、と言ってしまう「矛盾」を確かに、説明知れないかも知れない。
「物が見え過ぎる眼を如何にして御したらいいか、」の結果としての兼行の文体、「鈍刀」を柄って彫られた名作と称する小林の言うところに対して、徒然草の作者は、最初は、「もっと、鋭い刀」を欲しがっていたが、その後、もう、鋭い刀を求めていない。鈍刀かも知れないが、「それで良し」としていると。
小林が、求めた物は、思想ではなくて、その「人の在り方」、とりわけ、自分と関わりを持ちうる自分に近い人の在り方である。徒然草という作品ではなくて、それを書いた兼行という作家こそが、より大事であると、
そして、「西行」へ、「芭蕉」へ、と続く。
「もののあはれは人の情(ココロ)の、ことに触れて感(ウゴ)くこと、」であり、小林の如く、「知ること」と「感ずること」を、一度、分化された結果、「全的な認識」という統合概念を求めるという発達ではないと、「情とは、感ずることなのか、それとも、知ることなのか?」というものではない。そこから、普通は、情という集合要素であるが、欲⊂情であるとするが、宣長は、逆に、情⊂欲とする。 「情(ココロ)は、欲の上位概念」であり、あればこそ、もののあはれを知るという道もあると、この道は、上位概念に続く登り階段であると。
「近世」という時代は、神という非合理などとは言わないと、「非合理かも知れない神を一方に存在させて、そののこりを合理性で仕切るという時代である」。神という非合理の支配下にあれば、中世だが、近世という時代は、神をそのままの位置に安置し、距離を置いて隔離する、だから、支配されないのであると、調和的なのであると。
ありかたとしては、根本のところで神という非合理とは相容れない合理性の魂であったとしても、近世の人は、神と調和的であり、合理的だったのであると。「神と調和的になっている合理性」なのである。近世という時代とは、そういう時代であると、
「仏教」は、佐藤義清という北面の武士が、西行となってその後の人生を歩き出すための「門口」なのである。仏教というものは、そもそも、己を見詰める者の前に立ちはだからないものであり、それをしたい者に、それをするための「立ち位置付けを用意する」のが、仏教の本来でもある。思索をする者にとって、「同伴者」とはなっても、決して、導いたりはしない、至って寛大なのであると、
「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
西行のこの歌に詠まれた「ゴール」は、何を表すのか?
彼の「孤独」は、いたって近代的である。ほとんど、導き手である神を失ってしまった個の孤独で、西洋近代的な人の孤独であると、西行には、「神=空白」と言う形で、個である人と対応する存在としての神というものが存在しない中世の日本で、存在しうるのであると、こうした西洋的な神が、空白として何故、日本に存在し得たのか?既に、西行には、近代が、心の裡で、独り耐えていたものがあったのであるという形で、実現されてしまっていた。小林の言うように、西行の旅は、一筋という道ではなくて、「道のないところを彷徨うような旅」だったのではないかと、
「仏という同伴者」の下、ゴールに導く神の手ではなく、真の恋人という概念が存在しない世界で、昔の人は、どのように生きてきたかという、その救済を暗示するのが、そのゴールとした西行の桜の歌なのであると、
又、宣長の謳うところの
「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくらかな」
この歌も私的な墓の方に、山桜の樹を植えて、命日には、肖像画の掛け軸を掛けろという、
「あなたの根本を成り立たせているものは何ですかと、人に問われたら、私は、朝日に輝く山桜と言う」という歌である。「学問の根本に存在する信条」を表すものであると。「自分の中核に位置するもの」と「恋の対象になる彼」との「ふたつの性格」が、桜には、あると、
全てのものは、「桜=我」によそえられるものではない。重要なのは、よそえられるものを発見し、そこに、我なり、彼を、「重ね合わせること」であると、西行は、12世紀の段階で、我を詠むことに生涯を費やし、宣長のように、憑かれたように、桜への恋を読み続けたことであると、そのようなことを可能にする主題である対象の代表格が、「日本人にとっての桜」であり、桜を使って、「自分であること」を表していたと。
「日本人にとっての桜」は、西洋人の神に近似しているが、神ではない。重要なのは、そこに代人がおこりうる「空白」を、昔の日本人が持っていたということを、「発見してしまった」ということ。
あるとき、ひとりの日本人が「自分に応えてくれるものは何もないということ」を「発見してしまった」ことである。それが、西行であると、
近代的に言えば、西行は、自分の中に、「我=自意識」を発見してしまったということになるかも知れないが、「実は、逆ではないか」と、西行は、「自分の外に、自分に応えてくれるものが何もないこと」を発見してしまった。自己より先に、空白を発見し、それを埋めなければならず、自分とか、自己とか言われるものを成長させて行かねばならなかったと、導き手がないところで、自分を成長させる苦しさ、孤独、こうした「見つめる自己」と「見つめられる自己」の両方を誕生させたと。
神なるものに何とかしてもらうことは、怠惰なことであり、自助努力の日本人は、自分の前に、空白があるなどという考え方をしないし、自分の在り方に置き換えて、自分は、まだまだ、未熟で、至らないと考える。その不安を、そういうものだと是認するのが、至らなさを表現して切なさを出現させてしまった西行であると、続く。
日本人は、空白を埋めるのではなく、空白を作り出すことを当然のこととすると。「自分の居場所のなさ」という空白、生活の為の居場所の無さでは無くて、どう生きて行けば良いのか、どう生きていきたいのかが分からないという「精神的な居場所の無さ」である。「居場所がない=孤独」を感じ続けて、自意識が彼の最大の煩悩といわれるようにもなる。だから、ゴールとなるのは、もう居場所を探さなくてもよいという「安らぎ」になり、「桜」の歌になるのであると、
ここから、西行と芭蕉との思想軸の相違点、へと続く、
芭蕉の「風雅」という強い思想は、己を空しくしてが、前提になっているが、西行は違い、自然の姿が、友ではなく、自分になって現れてくる。西行は、己を空しくしてではなくて、己を空しくされて、その結果、佐藤義清は、西行となったのではないかと、これに対して、芭蕉は、いきなり、「己を空しくして、自然を見る」。それも客観主義ではなくて、主観主義に近いもので、強い思想で、「自分を全く、問題にしないでいられる」ということ、弱い態度でも、消極的な態度でもなく、己を空しくして自然を見る。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
蛙の水に飛び込む音で、私が、驚いたのでもないし、水の音を聞いてはいるのであるが、ただ、「水の音があること」、ただ、それだけであると、水の音が聞こえるのではない、人の耳に聞こえようと聞こえまいと、人が聞こうと聞くまいと、そんなことは無関係に、「その水の音はある」のであると解釈する。この水の音を神に置き換えれば、己を空しくして自然を余程観察すると、「水の音は、神になる」のであると、「最上川」も、「夢の跡」として存在する「夏草」も、「神」なのであると
「秋深し 隣は何を する人ぞ」、も、何をする人ぞと思っているかどうかは、関係なく、「それを思う人の「心」こそが、神」であり、この句に透徹していると、まるで、小津安二郎の映画のようであると、そんな「芭蕉の強さ」は、日本人には、「至って当たり前のもの」としか、映らないものなのである。
宣長は、「あはれということを心の中の一つにしていふは、とりわけていふ末のことなり。その本をいへば、すべて情(ココロ)の、こころにふれて感(うご)くは、みなあはれなり」。宣長には、末は、どうでもよい、「末を捨てて、本を目指す」。そうして、「漢(から)意(こころ)」を、外来思想と排除すべく、古事記へと向かう。そして、時代の趨勢は、反漢意から、尊皇攘夷へ、忠君愛国へ、いつの間にか、廃仏毀釈から、神道信仰へと、進す。
「道」という概念論に入る。神の道とは、古道とは何か、古代以外には、道という概念はない。路であって、通路であるのではないか。それが、神道、武士道、華道、茶道、等に、どうして、使われてしまうのか、そのままの状態を示す道が、文化的、政治的に、変質していったのか?それとも、今でも、それは、何らかの形で、生き延びているのか?
それにつけても、現代とか、近代とか、近世とか、我々は、いかにも、思想的に、発展・進化を遂げてきたように、時系列的に、誤解しがちであるが、芸術の世界でも、絵画や音楽でも、その昔に、現代でも、驚愕するような技術が、突然変異のように、現れていた事実が、幾つもある。タイム・スリップでもして、逆に、現代の我々をどう思うかを尋ねてみたいものである。我々は、中世や近世をかように、理解しようとしているが、果たして、当人は、どんな所見をお持ちかと、、、、、。少々長くなってしまったので、「棺一基」の方は、又の機会に再考察してみたいと思う。学生時代に読んだ、橋川文三の「日本浪漫派批判序説」をも、もう一度、読み返してみるか?橋本は、終章で、小林が設定したトンネルが、何処に抜けるのかは分からないが、その「何処に抜けるか」は、トンネルを抜ける読者に委ねられ、「読み手の在り方を問題にする」本であるとし、それが、日本に於ける思想の在り方なのであると、結んでいる。そして、それは、是非、読者に、古典を前にして、次の時代を受け継ぐ人達は、「それを体験」して貰い、次の時代に向けて、新しいトンネルを掘り続けることでもあると、希望していると、、、、、、、、、、。